残ったもの 1
エリザはデヴィッドと貴族街にあるランズダウン家の邸宅へと赴いていた。エリザがここに来るのは実に二年ぶりのことだ。二年前もこうして借金返済と墓参りに来たはずだが、相変わらず大きな屋敷だ。
赤煉瓦で出来たシンメトリーの屋敷は、奥行きがあり見上げる程高層だ。前庭の芝は綺麗に刈り取られ、正門前には噴水を囲むように丸く整えられた梔子が植えられていた。
正門をくぐって玄関前で馬車から降りると、たくさんの使用人がエリザとデヴィッドを出迎えた。
「お久しぶりでございます。ハーディス子爵、エリザ嬢。お待ちしておりました」
ランズダウン家の老齢の家令が頭を下げると、ずらりと並んだ使用人達も一斉に頭を下げた。家令の案内で屋敷の中へと踏み入れると、更に大勢の使用人が出迎えた。
ただ借金を返しに来ただけなのに、この歓迎のされようは何なのだ。エリザが圧倒されていると、真正面にある階段からランズダウン伯爵夫人が降りてきた。
癖のある赤毛に、まん丸の瞳は人が良さそうにきらきらと輝いている。小太りの夫人は、相変わらずふくよかな体型のまま二年前と寸分も変わっていない。世話好きのお母さんといった雰囲気のままで、エリザはなんだかほっこりした。
「お久しぶりね!ハーディス子爵!それにエリザ!」
喜びを顕にした夫人は駆け寄ってくると、エリザに飛びつかんばかりの勢いで手を取った。
「元気にしてたのかしら?なんだか痩せたわね。きちんと食べてるの?まだ侍女をしてるの?まだ独身よね?」
突然の質問の嵐に、エリザが答える暇も与えられずに困惑していると、いつの間にかやって来たランズダウン伯爵が夫人を引き剥がした。
ランズダウン伯爵は、夫人とは正反対に背が高くて痩せていて、貴族然とした雰囲気をまとっている。
「悪いね。妻は久々に二人に会えて興奮してしまったようだ。二人共忙しい中わざわざ来てくれてありがとう。さ、こんな所ではなんだから、こちらへ」
挨拶も早々に、エリザ達はそのままテラスの方へと案内された。
テラスには丸テーブルが設置されていて、時計草が一輪飾られてあった。晩夏なのでまだ暑さは残っているが、風があるためさほど暑さを感じなかった。
一同が席に着くと、家令自らが紅茶を入れてくれた。茶菓子は洋梨のゼリーとエリザの好きなチョコチップ入りのスコーンだった。エリザが好きなのを知っている夫人が用意してくれたのだろう。
テラスからはランズダウン家自慢の夏の花で彩られた庭がよく見えた。鳥の鳴き声も聞こえてきて、エリザがほっと一息ついてお茶を口にすると、早速デヴィッドが話を切り出した。
「本日こちらに伺ったのは、最後の借金をお返しするためです。これで完済となりますが、借金を肩代わりしてくれた上に、利息もなく少額ずつの返済を許してくださって、ランズダウン伯爵夫妻には心より感謝しております。本当にありがとうございました」
デヴィッド共々立ち上がって頭を下げると、ランズダウン夫妻は慌てたように、頭を上げてくれと声を上げた。
「こちらこそ、当時はそちらの気持ちも考えずに勝手に借金を肩代わりしてしまって、本当にすまなかった」
「あなた達親子の気持ちよりも、自分達の気持ちを優先させてしまったこと、何度思い返しても反省しっぱなしですわ」
「とんでもありません。ランズダウン伯爵に肩代わりしていただけなかったら、私達はまだ借金を背負ったままでしたし、闇金に手を出してもっと酷いことになっていたかもしれません。私達のほうこそ、そちらのご厚意を跳ね除けてしまい、申し訳なく思っております」
「そう言っていただけると、こちらも救われる思いだわ。……でも、エリザは後悔していない?リスターと結婚したこと……」
恐る恐る夫人に聞かれて、エリザはキョトンとした。
「後悔?なぜですか?」
「世間はあなたを未亡人として見ているわ。籍は入れてないけど式は挙げたんだから、事実婚だとね。……私は後悔してるのよ。あの頃は戦地に赴く息子のために、何かしてあげたいと必死になるあまり、周りが見えていなかった。反対する主人を言いくるめて、あなたに縋りついて傷つけてしまったこと、ずっと後悔してるの……ごめんなさい」
夫人は目に涙を溜めてエリザを真っすぐに見つめた。
「そんな!謝らないでください」
「どうして?例え死地へ向かう息子のためとはいえ、借金の返済のためならば私の手を取るだろうと、あなたを利用した私を……恨んでいないの?」
「恨むなんてとんでもありません!夫人には感謝しております……。ランズダウン家の皆様は、一時でも私に夢を見せてくれました。リスター様と婚約して、憧れのウェディングドレスを着て父とヴァージンロードを歩き、式を挙げることが出来た。あんなに幸せなことはありませんでした」
思い出しただけで自然と笑顔が零れて、エリザの胸はじんわりと温かくなった。リスターに愛情はなくとも、二人には確かな絆があったとエリザは思っている。それは今も変わらない。
「今でも鮮明に思い出すことが出来るんです。短い間ではありましたが、リスター様と過ごした日々のこと。大切な大切な私の思い出です」
それを聞いて、夫人の目からついに涙が零れ落ちると、わっと泣き出した。エリザが慌ててハンカチを差し出すと、夫人はエリザの手を握りしめた。
「エリザ……!私はあなたを娘のように思っていますからね!リスターと婚約した時からずっと、それは今でも変わりませんからね!」
そう言って本格的に泣き出したものだから、エリザもデヴィッドも慌ててしまった。それから夫人が落ち着くまで、エリザとデヴィッドは慰めたり励ましたり、感謝を述べたりと、なだめるのに大変だった。
それから二時間後。ようやくお茶を終えたエリザとデヴィッドは、ランズダウン夫妻の案内で、庭にあるリスターの分墓へとやって来た。
リスターの墓は大きな桜の木である。これは樹木葬といって、樹木を墓標とするお墓であり、リスターの骨の一部がここに撒かれていた。
エリザは持ってきたひまわりの花を木の下に供えると、膝をついて祈りを捧げるように目を閉じた。
リスター様と別れてから、もう何年経ったでしょう。私はもう二十四歳です。
王妃付きの侍女になって、今では王子付きの女官になりました。それまでの経緯は長くなるので省略しますが、今ではアーサー殿下や側近の皆様ともうまくやっております。
そして、ついに今日で借金も完済です。これもランズダウン夫妻が借金を肩代わりしてくれたおかげです。母のためにと領地を担保にしてまで作った大きな借金。空回ってばかりだけれど、これまでがむしゃらになって親子で働いてきました。
それも今日で終わると思うと……思うと……。
エリザはゆっくりと目を開けた。晩夏のぬるい風がエリザの頬を撫でつける。エリザは手を合わせたまま、桜の木を見上げた。
ねえ。リスター様。これから私は何をしたらいいの?
借金返済という目的を完済した今、背負うものはなくなった。けれど、もう母のマチルダはいない。生まれ育ったノースグリンに帰ることもなければ、リスターが言ってくれたように、心から愛する人とは結婚することは叶わない。
借金を返済したら、父には第一秘書になってほしいと思っていた。チャップマン財務大臣に迷惑をかける理由はなくなったのだから、断る理由はないはずだ。
――そして、私は?
借金を返済するためと頑張って働いてきたけれど、これからは何を理由に働いて、何を目的に生きていけばいいの?
エリザの脳裏にマチルダとノースグリンで過ごした日々が蘇る。羊や牛の世話をして大きな農場を走り回り、泥だらけになったエリザを叱った後で、必ずマチルダがエリザをお風呂に入れてくれた。
綺麗になった後はファッションショーの真似事をして遊び、裁縫を教えてもらう。
夕食はラム肉や農場で採れた新鮮な野菜を使った料理。眠る時は貴族らしくないが、両親に挟まれて大きなベッドで三人で寝た子供時代。
懐かしい日々が走馬灯のように駆け巡った後は、リスターとの結婚式、手を繋いで朝まで語り合ったことを思い出した。
どれもエリザにとって大切で美しい思い出だった。もう二度と戻ってこない、取り戻せない人達。今まで二人のことを考えないようにしていた分、エリザは無性に二人に会いたくなった。過去が、とてつもなく恋しい。
「エリザ、大丈夫かい?」
いつまでも桜の木に向かうエリザを心配して、デヴィッドが声をかけた。エリザは咄嗟にはいと返事をして立ち上がった。膝についた草を払いながら、表情を取り繕う。
「長い間来ていなかったので、報告することがたくさんあって……」
「そうだな」
今度はデヴィッドが桜の木に手を合わせた。エリザはデヴィッドの背中を見下ろしながら、すっかり痩せてしまったと思った。
マチルダが死んでからもうすぐ十年。エリザもデヴィッドも変わってしまった。もう昔のようには戻れない。そう思うと得体のしれない不安が押し寄せてきて、エリザは拳を握りしめた。
「そろそろ行こうか」
二人で少し離れた場所で待っていたランズダウン伯爵夫妻にお礼を言うと、ランズダウン伯爵がエリザに言った。
「そういえば今日は顔を出すことが出来なかったんだが、リスターの弟のオウエンの婚約が決まったんだよ」
「それはおめでとうございます。お相手はどなたですか?」
「アンリ・ゲインズバラ伯爵令嬢です。歳は六歳離れているが、二人共読書家で気が合ってね。何度か茶会をしてようやく婚約が整ったんだ」
その名を聞いてエリザは驚いた。少し前までアーサーの婚約者候補として上がっていた令嬢だ。
「結婚はアンリ嬢が卒業してからだが、二人を結婚式に招待してもいいかい?」
「ええ。喜んで」
「楽しみに待っております」
最後に嬉しい報告が聞けて良かった。エリザとデヴィッドは、顔を見合わせて微笑んだ。
そのまま、エリザとデヴィッドはランズダウン夫妻に玄関まで見送ってもらった。外に出ると、馬車が門前で待っていた。送ってくれるというので、ありがたく馬車に乗り込もうとしたエリザを、夫人が引き止めた。
「エリザも、あなただけの幸せを見つけてね。それがリスターの願いでもあり、私達の願いでもあるから」
そっと夫人はエリザを抱きしめた。夫人からは優しい香りがした。胸の奥深くから込み上げてくるものがあった。まぶたの奥が熱くなってぎゅっと目を閉じて、熱い感情をなんとかやり過ごすと、小さな声でありがとうございますと礼を返した。夫人はエリザの背を撫でながら、優しい声音で囁いた。
「私達はいつだってあなたを応援しているわ」
帰りの馬車の中で、エリザは車窓から外の景色を眺めていた。橙色の夕陽が貴族街の高層住宅の隙間から顔を覗かせている。日が短くなってきて、季節はもうすぐ初秋に入る。夏の終わりはなぜか切ない気持ちになる。
エリザがむっつりと黙っていると、デヴィッドが口を開いた。
「最後までランズダウン夫妻に甘えてしまったね」
「そうですね。本当にあの人達は人がいいんですから」
「そうだな……」
デヴィッドもまた、エリザとは反対の車窓を眺めていた。車窓に映るデヴィッドの顔が優れないのは、エリザと同じような気持ちだからかもしれない。
「お父様。チャップマン財務大臣の第一秘書になってはいかがですか?」
「なんだ。突然……」
驚いて振り返ったデヴィッドに、エリザは静かに言った。
「前々から考えていたんです。借金がなくなったらそうしたらいいんじゃないかと。そのほうがお父様のためにも、チャップマン財務大臣のためにもなると思います」
「しかし……私は領地を捨てた身だ。そんな人間が第一秘書など……」
「秘書としてはきちんと仕事をしております。反対する者はいません。後はお父様次第なのです」
「だが……」
デヴィッドは難しい顔をして黙り込んだ。答えを急かすつもりのないエリザは、それ以上何も言わなかった。
「……エリザは、今のままアーサー殿下の女官として働くつもりかい?」
ふいにデヴィッドに聞かれて、エリザは頷いた。
「そうですね……。クビにならない限りは」
「この先結婚を考えたりはしていないのかい?」
「結婚する相手がいませんもの」
「もしも、私が縁談を持ってきたら?」
「二十四歳の未亡人もどきをもらってくれる方なんていませんわ。それに、お父様を残して嫁に行くつもりはないですから」
「私のことは気にしなくていいんだよ」
「お父様がいてくれないと、私が寂しいんです。仕事もあるし、私は結婚しなくてもいいんです」
「そうか……」
デヴィッドは喜んでいいのか悲しんでいいのか分からないようで、困ったように頬をかいた。
それきり、エリザもデヴィッドも何も話そうとしなかった。
王宮の前に着いて馬車から降りたエリザに、デヴィッドは静かにおやすみを告げた。エリザは去って行く馬車を見送ってから、日の落ちた空を見上げて、胸に手を当てた。
さあエリザ。しゃんとして。歩き出すのよ。
自身に声をかけて、ようやくエリザの足が動き出す。胸に空いた穴を隠すように手を当てて、何も考えずにただ前を見て自室への道を歩いた。




