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2.家族の肖像

あれ、思いの外……全体的に……長い……?

姉のことが嫌いだった。


ミュリエル・エヴァンスと名付けられた、彼女のことが嫌いだった。

けれど、嫌悪や憎悪といったありきたりな表現であっさりと片付けてしまえる程、単純な感情でもなかった。


ハリエット・エヴァンスの人生は、おおよそが姉との比較の歴史である。

というか、比較するまでもないことに始まりからして差が付いていた。生まれながらにして運命が決まっていた。気取った言い方をしたところで腹が立つだけだが事実である。

『ミュリエル』にはあって、『ハリエット』にはないもの。

オルトン・ブラウニングという婚約者がそれだ。

彼はミュリエルの婚約者であって、彼女の双子の妹であるハリエットにとっては将来の義理の兄でしかない。

“ブラウニング”の婚約者には『ミュリエル』を。

亡き両親であるエヴァンス夫妻と、身寄りのなくなった双子の後見人になったくれたブラウニング夫妻が合意の上で定めたというその約束は、物心付く前からずっと()()を雁字搦めにしている。

いずれブラウニング家に輿入れする『ミュリエル』にはそれに応じた教育を―――――ハリエットはあくまで、そのついで。子供の頃からずっとそう。褒められたくて頑張っても扱いはミュリエルの一段下だ。双子に差別はないように、と注意を払って育てたところでどう足掻いても区別は生じる。いずれブラウニング公爵家に名を連ねることになる彼女と、いつかはどこかに嫁に行く娘。どちらが“ブラウニング”家にとって大切なのかは明白で―――――不運なことに、それが分からないハリエットではなかった。愚鈍な少女であったならまだもう少し気が楽だったのだろうか。それでも子供らしい反発心で自分の方が出来るのに、と枕を濡らした日は数知れない。その涙はけっして悔しさからくるものではなく、変えようのない運命を嘆いた虚しさからくるものだったけれど。

姉は不器量でも不細工でもなかったが、ただ単純に比較するならハリエットの方が優れていた。才覚も、容姿においてもである。それは姉自身も認めているし、数度しか出たの事の無い茶会に居た口さがないお喋りたちもまた噂していたことだった。茶髪に琥珀瞳とありふれた色合いにそこそこ止まりでしかない顔立ちのミュリエルに対し、ハリエットのそれは世にも珍しいピンクブロンドと緑を帯びた暗黄色の目と誰もが目を引く可憐な美貌だ。赤毛に青い目の美形に成長したオルトン・ブラウニングと並べば絵画のようだと持て囃されたがそれでも彼の婚約者は『ミュリエル・エヴァンス』唯一人である。何をやっても選ばれない、いくら姉より優れていても“ブラウニング”にはなれない。同じ屋敷で暮らしていながら、ミュリエルは姉であり他人だった。ハリエットと彼女を繋いでいるエヴァンスという家名はいずれ、ブラウニングに取って変わられる。


―――――どうして私はそこに居られないんだろう?


いずれ義理の娘になるミュリエルを囲むブラウニング夫妻と、将来の妻に柔らかく微笑みかける絶世の美形を見て思う。オルトンはいつだってミュリエルを労わり、慈しんではいたものの、ハリエットに向ける眼差しもまた同じようなものだった。温度はさして変わらない。ただ、そこには愛も執着もない。


「オルトン様、貴方は義務で姉様と結婚しますの?」


いつだったか、彼にそう尋ねたことがある。興味本位な問い掛けで、ハリエットに悪意は微塵もなく、だけど姉への複雑な気持ちからついつい口を吐いて出たそれ。オルトンは曖昧に笑っただけで明確な答えをくれなかった。ただハリエットを見詰める瞳がミュリエルよりに向けるそれよりずっと優しいものだったので、気持ちが高揚する反面で酷く居心地が悪かったのを覚えている。


端的に言えばハリエットはコンプレックスを拗らせていた。

長じるにつれて着実に、最早修正不能な程に、美しく成長すれば成長するだけ拗らせて拗らせて拗らせてもう後戻りが出来ないところまで捻じ曲がった令嬢に育っていた。

姉と義理の兄になる人が隣り合って何気なく会話をしているのが気に入らない。庭にティーセットを広げて二人で楽しい時間を過ごしているのが気に入らない。流行りの観劇に行く二人が、連れ立って夜会に出掛ける二人が、ハリエットを置き去りにして親睦を深め愛を育む姉と義兄が気に入らない。


どうして私じゃいけないの。


いつしか口癖のようになってしまった台詞を独り呟いて、鏡に映した自分の顔は形容し難い表情をしていた。オルトンとミュリエルが正式に婚姻してしまえば次はハリエットの番だ。既にオルトンに勝るとも劣らない美貌の持ち主であるとまことしやかに囁かれるハリエットにはいくつかの縁談が寄せられていると聞く。両親亡き後ブラウニング公爵家預かりとなっていたエヴァンス辺境伯領を持参金として嫁ぐことになるハリエットだが、後見人であるブラウニング家との縁も結べるとなれば引く手数多なのは間違いなかった。


けれど―――――“ブラウニング”にはなれない。


何故そこまで執着するのだろう、と鏡の中の女が首を傾げる。思い出されるのはオルトンと、彼に寄り添うミュリエルの姿だ。腹が立った。鏡に化粧瓶を投げ付けて粉々に粉砕してしまったせいで慌てた侍女が飛び込んで来たが、手が滑ったのと甘やかに誤魔化せば仕方ないですねと朗らかな笑みが返される。愛されていないわけではない。それは分かる。長く過ごした屋敷の者たちを始め、あれだけ突っ掛っては罵詈雑言を吐く妹をなんだかんだで大目に見ているミュリエルも、ハリエットの態度を知りながら強く諫めようとしないオルトンもブラウニング夫妻もまた、情がないわけではないのだろう。


「公爵様。どうしてブラウニング家は、姉様をお望みになりましたの?」


いつかの繰り返しのように、けれどどす黒い感情で、悪意を込めた声色で去り行く公爵の背に問い掛ける。遠方に出掛けねばならないという彼は長旅支度の軽装で、同行するブラウニング夫人と必要な荷物は既に馬車の中だった。急ぎ足で玄関に繋がる廊下を往く公爵を掴まえて―――実際は掴まらず後姿に向けて言う破目になったが―――そんな不躾な問いを投げるなど、淑女教育を受けさせてもらった身にはありえない恥ずべき行いだ。答えが返ってこないと分かりきっていようとも、口にせずにはいられなかった。


「それが()()の望みだったからだ」


え、とハリエットは目を見開く。答えが返るとは思ってもみなかったからだ。公爵は立ち止まりも振り返りもしなかったが、迷いのない足取りで廊下を進んで行きながらも声だけは置き去りのハリエットに宛てて明朗快活に紡がれる。彼女、とは誰なのか。それを問い返すにはもう遠く、玄関ホールへ繋がる曲がり角で一瞬だけ見えた公爵の横顔は凛と気高いものだった。


「彼女が願うことはすべて叶えると決めている―――――私はそれを違えない」


独り言のようでいて、気障な伊達男の台詞のような、演劇じみて真摯な言葉。

それがハリエットが公爵と交わした最後の会話らしい会話だった。会話というには一方的であまり噛み合っていなかったが、それでも思い出せる範囲では会話と呼べる類のもの。すべてが独白に等しかったあの公爵の様子では、ハリエット如きの言葉ではきっと呼び止めることも出来なかっただろう。

不慮の事故により旅先で帰らぬ人となってしまったブラウニング夫妻の急な訃報に、オルトンは取り乱さなかった。そうあるべし、と教育された、優雅にして冷静沈着であれと仕立てられた次期公爵の姿がそこにはあった。隣に毅然と立つミュリエルもまた、同じくそうあるべしと定められた者の立ち振る舞いだった。

ああ、とうとうその時が来てしまった―――――ブラウニング夫妻の葬儀の席で静かに泣き濡れるハリエットの涙の本当の意味を知る人は、姉も含め誰一人として居ない。


一年が過ぎた。

あっという間だった。

公爵位を継いだオルトンとその婚約者は忙しく、ハリエットは日々の大半を社交とお喋りに費やした。ブラウニング家を陰ながら支える、などという殊勝な思惑などではなく、適当に動き続けていることで考えるのをやめようという惰性と逃避の極致である。

そんな逃げの一手を選び続けてきたハリエットはその日、オルトンの執務室の中に居た。


「私を選んでくださいませんか」


言葉は鋭く刃物のように、迂遠を避けて直截に。真っ直ぐな目でオルトンを見据えてハリエットは傲然と豊かな胸を張る。


「姉様ではなく、私を。このハリエット・エヴァンスをブラウニング家に迎え入れてはもらえませんか」

「それは出来ないよ、ハリエット」


オルトンはにこやかに拒絶した。何度も言うがそれは無理だ、と穏やかに断ってくるその顔は兄が聞き分けのない妹に向けるそれで、気安さはあっても熱がない。どうして、と言い募ったところで無駄であると知っていた。これが初めての懇願ではない。最初は先代のブラウニング公爵に、そしてブラウニング夫人に、多くはオルトン本人に、幾度となく打診したところで一度も受け入れられなかったそれ。


「君も懲りないねぇ、ハリエット。何度言われても君と僕は一緒になれたりしないんだよ」


オルトン・ブラウニングとハリエット・エヴァンスは兄妹にはなれても夫婦にはなれない。

お道化た様子で肩を竦めるオルトンの態度に吐き気がする。そんなことは分かっている。そんなことは分かっているけれど認めたくないからこんな無様を晒している。ぎり、と噛み締めた奥歯が軋んだ。絞り出した声は澱んでいる。


「どうして………っ!」

「答えはいつもと同じだからさ。ブラウニングに相応しいのは君ではなくて『ミュリエル』だ」


残念だったね、ハリエット。


「邪魔な先代ブラウニング夫妻がようやく居なくなったのに―――――せっかくわざわざ手を汚したのに、すべてはまるで無駄だった」


―――――ああ、バレてしまっている。


耳を劈く金切り声が自分のものだと気付くのは、部屋を飛び出してからだった。

何事かと覗く使用人の顔を無視してがむしゃらに駆け抜けた先、騒ぎを聞き付けてやってきたらしい姉を見るなり感情が暴発して五月蠅い。五月蠅いのは自分のせいなのに、言いたい放題ぶちまけたハリエットは急に惨めな気分になってミュリエルを置き去りに駆け出した。一人になれる場所を探して探して、歴代公爵の肖像画が飾られた回廊で足を止めて顔を上げる。

そこには先代公爵の澄ました顔が飾られていた。

手元にナイフがあったなら、めちゃくちゃに裂いてやれたのに。

凶暴な気持ちでオルトンに似た顔―――否、息子のオルトンの方が先代に似たのか―――を睨み上げていたハリエットは、そこであることに気が付いた。思えば先代公爵の顔をきちんと正面から見たことはない。あるにはあるが、こうもまじまじと長時間観察していたことはなかった。オルトンに似た顔だったから、彼をそのまま老けさせたような顔を脳内で勝手に作り上げていたのだ。それは間違ってはいなかったが、同時に正しくもなかった。

肖像画の中の公爵は、赤毛に青い目をしている。オルトンと同じだった。ずっと同じだとばかり思っていた。


「………違う………?」


零れた音は譫言のよう。見上げた先、澄ました顔の故人は赤毛に青い目をしている―――――正確には青とも緑ともつかない、深みのある不思議な瞳をしている。

描いた者の技量が高かったのだろう。青と緑を重ねて塗ったその色は見入ってしまうくらいに美しく、同時に肌が粟立った。よろめいた身体に合わせて自身の長いピンクブロンドが揺れる。ピンクブロンド。珍しい髪の色。ピンクと呼称されてはいるものの、厳密には赤毛と金髪が混ざり合ったが故の発色であるそれ。世にも珍しいピンクブロンド。赤毛と金髪の混在による発現は確かに珍しいだろう。だって、この国ではそもそも赤毛が珍しい。少なくとも、ここ数代では遠い異国から婿入りしてきた先代公爵とその息子しか持っていない色だった。誰もハリエットが()()であるとは認識してすらいなかった―――――社交界で会ったことのある人々や、他ならぬ姉のミュリエルでさえ。

ハリエットはそっと、自分の顔を両手で覆うように撫でた。その目は暗黄色でありながら不思議と緑を帯びている。整っていると評判の顔。可憐な花の妖精のような、絶世の美形と名高いオルトン・ブラウニングに()()()()()()()()、エヴァンスの名を持つ双子の片割れ。


「―――――私と、貴方は、一緒にはなれない」


人の気配を感じて紡いだ言葉は思いの外に落ち着いていて、何故分かったのかと聞かれれば第六感としか言い様がない。そうだよ、と返ってきた声は予想通りオルトンのもので、ハリエットは肖像画を見上げたまま呆然と、思い付くがままに口を開く。


「ブラウニング家の婚約者には『ミュリエル』を」

「そうだよ」

「オルトンの婚約者には『ミュリエル』を―――――『ハリエット』はいつも選ばれない」

「そうだね」

「オルトンと『ハリエット』は兄妹にはなれても、けして夫婦にはなれない」

「その通り」


ハリエットは振り向いて、亡羊とした顔を引き攣らせた。オルトンはただ笑っている。今なら欲しい答えがもらえる。その確信が恐ろしい。なのに訊かずにはいられない。

そうだ。

私は本当は、彼らにずっとこう聞きたかった。


「どうして私だけが“エヴァンス”なの?」

「お前が女に生まれたからだよ―――――だから私が選ばれた」


ミュリエル・エヴァンスのための私たちには、それだけで十分な理由だった。

オルトン・ブラウニングと名付けられたハリエットの双子の片割れが、ほんの少しだけ寂しそうに肖像画を見上げて呟いた。

ハリエットのせいで今はもう物言えぬ平面の絵の具に過ぎない父は、やはり何も言ってくれない。



時間がかかるにつれてすごく馬鹿みたいなノリのものが食べたくなってしまう病気に名前を付けたい今日この頃。

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