3.彼と彼女の物語
ここで一旦終わりです。
「………おかしいわ」
絞り出した声は震えていた。
先代ブラウニング公爵の肖像画の前でオルトンと会話した後、あれからどうやって戻ったか分からない自室で、寝支度もすっかり整えてあとは眠るだけという段階になって。
ハリエットは矛盾に気が付いてしまった。それが引っ掛かって仕方がない。
「おかしいじゃない」
オルトンとハリエットが双子の兄妹であるのなら、なるほど結婚など望めないだろう。同じ胎から生まれた者同士の婚姻は認められていない。それは分かる。けれど、おかしい。
「そもそも、どうして私をエヴァンス家の人間として育てる必要があったのよ」
最初から“ブラウニング家に生まれた双子の妹”として『ハリエット』を育てておけば何の問題もなかった。オルトンの妹としてブラウニングを名乗らせればよかったのだ。そうすれば、少なくとも未来の義姉として、早くに両親を亡くしてしまった不運で憐れな兄嫁としてミュリエルのことを受け止められた。こんな複雑な感情を拗れに拗れさせることもなく―――――何より、ごくごく普通に当たり前に、ただの彼らの“妹”として家族の輪に加われただろうに。
エヴァンスの名に連ねたからこんな面倒なことになったのだ。
なんだってそんなことを?
苛立ちは素朴な疑問に変わり、謎があるなら解きたくなった。自分のルーツが気に掛かる。どうしてこんなことになったのか、どうしてそうせざるを得なかったのか。
頭の回転数を上げるためにワインボトルに手を伸ばす。普段は酒など嗜まないが、オルトンとミュリエルの結婚が正式に決まった祝いとあって上質なワインが振る舞われたのだ。体調不良を理由に晩餐の席をすっぽかしたハリエットにもボトルごと届けられたそれは、二人が生まれた年に作られた最高級の品だという。
「私とも同い年なのね」
冗談めかして囁いて、グラスに注いだワインを呷る。酒の味などよく分からないが高揚感は心地良い。軽くなった思考回路がオルトンとのやり取りを思い出す。
ブラウニングに生まれた双子の男女。男だから選ばれたオルトンと、女だから選ばれなかったという自分。男児は跡取りとして必要だから残されるのはまぁ分かる。けれど女児を手放したのは何故だ。エヴァンス家に跡取りが居ないから養子に差し出したというならまだしもあちらの家にはミュリエルが居る。
―――――ミュリエルが嫁いで空く家の跡継ぎとして事前にハリエットを差し出した?
だとしても、ハリエットに最初からエヴァンス姓を名乗らせる必要はない。直感的に違うと否定して、次々とグラスにワインを足してはぐびぐびと飲み干していく。淑女にあるまじき勢いだったが見咎める者は誰も居ない。
「………私が男だったなら、“ブラウニング”を名乗れたのかしら」
浮かんだ仮説を口にして、詮無いことだと自嘲した。男だったから選ばれた、とオルトンは自身で表現していたが、家を継ぐための男児が選ばれるのは至極当然のことである。だからそれはその通りだと―――――何度目かの納得をしかけたハリエットの思考が、ふと看過出来ない引っ掛かりを覚えた。
肖像画の前で交わされた、実兄とのやり取りを思い出す。
『どうして私だけが“エヴァンス”なの?』
『お前が女に生まれたからだよ―――――だから私が選ばれた』
其処だけを切り取れば、何処までも当たり前の理由。男だから選ばれた。ブラウニング家の跡取りになるから双子の兄オルトンが選ばれた。ハリエットはそう捉えたし、なら仕方が無いと納得もした。
けれど。
だけど。
オルトンは―――――そのあと、彼は、なんて言った?
『ミュリエル・エヴァンスのための私たちには、それだけで十分な理由だった』
ミュリエル。
双子の姉だと思っていた人。
ブラウニング家に輿入れすることが最初から決まっていたエヴァンス家の娘。
“ブラウニング”のためではなく『ミュリエル』のための自分たち。
オルトンは確かにそう言った。大切なのはミュリエルだった。主体にすべきはミュリエルで、鍵は彼女にこそあった。
そうすればすべて辻褄が合う―――――答えは『ミュリエル』だったのだ。
「女の私じゃ『ミュリエル』と一緒にはなれなかったから………だからオルトンが選ばれた………?」
愕然とした呟きに応えてくれる声はなく、しかしハリエットには確信がある。
ミュリエルが女だったから、相手にはオルトンが選ばれた。
重要なのはそこだけで、故にハリエットは選ばれなかった。
しかしその仮説にもまた疑問が残る。
「なんだってそこまで『ミュリエル』を―――――」
ごふ、と。
唐突に逆流したワインが派手に寝間着を彩った。
真っ赤に染まった胸元あたりを呆然と見つめること数秒、いつの間にか床に落ちていたワイングラスに目を瞬く。僅かに残った赤ワインの色は寝間着に散ったそれよりもいくらか落ち着いた色合いで、遅れて鼻腔を突き抜けた鉄錆に似た異臭に気付いたハリエットの顔から一切の感情が抜け落ちた。
臓腑が内側から灼けるような不快感に歯を食いしばって耐えながら、最後に残った気力を振り絞って猛然と前方を睨み据える。
部屋と廊下の境目に、オルトン・ブラウニングが立っていた。
心なしか淋しそうな顔をした“兄”は困ったように首を傾げている。
「さてはハリエット、淑女にしては早いペースでワインを飲んでしまったね?」
そこまで毒が回ってしまったら解毒剤ももう効かないじゃないか。
ワインに毒を仕込んでおいてそんなことを平然と宣う男の神経を疑う。遠回しに手遅れであると告げられたハリエットはいっそ笑うしかなかった。
こんな酷い話があるか―――――こんな、酷くあっけなくてくだらないオチが。
「秘密を飲み込めるか飲み込めないか、君自身に選び取ってもらう予定だった。確かにその選択如何によっては先に逝ってもらうつもりだったけれど………これは、こんな終わり方は、私の本意ではなかったよ」
「………は、よく言う、わね」
声を出すのも億劫だったが、口を開かずにはいられなかった。食道からせり上がる血は容赦なく喉に絡み付き、兄を嗤おうとした唇は痙攣するばかりで思い通りにならない。
あまり時間が無いのだろう。
油断すると意識が飛びそうで、瞼の裏にちらつく暗闇の向こう側では永遠にハリエットを離さないであろう睡魔がゆるゆると緩慢な手招きをしていた。
聞きたいことはたくさんあった。確かめたいことも山ほどあった。けれどすべては問い質せない。答えを聞いている時間はない。ばらける思考が纏まらない。これまでの人生が走馬灯のように目まぐるしく頭の中を駆け巡って―――――罵詈雑言をぶち撒けたあれが最後になってしまった、ミュリエルに謝りたいと思っても叶わないことが口惜しかった。
もう、すべては今更だけれど。
どうしてこうなってしまったの、と薄れゆく意識の中で足掻きながら、ハリエットの死に様から目を離さないオルトンの顔の輪郭が次第にぼやけてほどけていく。
『それが彼女の望みだったからだ』
思い出の淵から声がして、赤毛の背中が遠退いた。最期に見た先代ブラウニング公爵―――――父の姿はオルトンとほとんど同じもので、記憶と時系列が混濁したハリエットはあの日の疑問を途切れ途切れの言の葉にのせる。
「ねぇ、彼女って、だれのこと?」
とうさま。
音にならなかった一言を最後に、ハリエットの双眸から光が消えた。
かっくりと脱力した華奢な身体に数秒間の黙祷を捧げ、オルトンは片割れの死を悼む。
こうなる可能性はあったけれど、こうなって欲しいわけではなかった。
「さようなら、ハリエット・エヴァンス嬢。君を妹と呼べる日を、これでも楽しみにしていたのだけれど」
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「信じる信じないは君の自由だよ」
語り終えたオルトンは大仰な仕草で肩を竦めた。あまりに荒唐無稽だったので全力で嘘だと決めつけたいが、そうだと断ずる証拠がない。謀られているような気もするが、存外筋は通っている。だいぶ認めたくはないけれど。
ミュリエルは止めていた息を吐いた。
「先に言っておくわね、オルトン。私は貴方を信じます」
「おや。信じてくれるのかい?」
「ええ。だって貴方、嘘を言っているわけじゃないもの」
あの子に全部は言わなかっただけで。
端的にそう告げたミュリエルに、オルトンの気配が僅かに変わる。知っていたのかい? と問い掛ける目を淑女の微笑みで曖昧に流して、妹だったハリエットの墓に向き直って膝を折った。
「知っていたって何をかしら。例えば貴方とハリエットのこと? そんなのずっと側で見ていたら分かるわ。貴方たちそっくりだったもの。あの子の髪も目の色も、一見分かり難いだけで公爵様とよく似ていたもの」
「知っていなくても推測は出来たわ。あの子がなんで私の妹にされたのか。そんな可哀想なことになったのか。きっと私と貴方のせいよ。私たちが取り替えられたせい」
「もっと言えば私のせいよ。貴方がしたこともハリエットが死んだことも全部私が『ミュリエル』だったせい―――――なんて、悲劇のヒロインぶったところでハリエットは戻ってこないものね。せめてきちんと振る舞うわ。そう望まれて此処に居るんだから、やり遂げなければ嘘でしょう?」
溌剌と笑った自分はきっと、薄情なのだとミュリエルは思う。全部知っていたくせに、察しがついていたくせに、こうなるまで知らないフリをしていた自己保身の結果が目の前の墓だ。憎たらしくも可愛らしかった生意気な妹はもう居ない。悲しいと思う資格さえ、本来ならばないのだろう。
「それでも今日くらいは言わせてちょうだい。どうせ最後なんだもの。私が『ミュリエル・エヴァンス』で居られる最後の一日なんだもの」
明日からは“ブラウニング”を背負って立たなくてはならない。
そう望まれていたように、そう定められていたように。
本来あるべき名を名乗るのに、二十年近くも要してしまった。
なんて馬鹿げた話なんだろう。
「ねぇ、オルトン・エヴァンスだった筈の貴方。どうしてこんな馬鹿げたことに私たちは振り回され続けるのかしらね?」
「さぁ、それは本当に分からないな。詳しくは知らされていないんだ。答えは先代たちが文字通り墓まで持って行ってしまったから」
「それでも私は愛しているよ。おかえり―――――ミュリエル・ブラウニング」
これでやっと、約束が果たせる。
翌日結婚式を挙げたオルトンとミュリエルは密かに肩の荷を下ろして、ハリエットの墓に花を手向けた。ピンクを基調にした花束は、何も言わずに穏やかに風に吹かれて揺れていた。
分かり難い話にお付き合いいただきまことにありがとうございました!
蛇足がちょっとだけ続きます(正直そっちが本編な気もしてきた




