第五十七話 箱の中の命 ~Epilogue
四年前。
梅雨の日の夕暮れ時。わたしは白い傘を挿しながら、自宅近くの線路沿いを歩いていた。
ふと、線路脇の覆い茂った草むらに視線を落とす。すると灯り始めた街灯の光の先に、小さな白いダンボール箱がひっそりと置かれてあることに気が付いた。
足を止めて箱に目を配ると、表面には『どうか親切な人の元へ届きますように』と黒いマジックで書かれてある。その脇には可愛らしい子猫のイラスト。どうやら捨て猫だ。
先日から降り止まぬ雨模様。そのせいか箱は随分と萎びている。跳ね返りの土で汚れてみすぼらしい。
わたしは身をすぼめながら、眉をひそめて口篭った。
「誰かに見付けて欲しいなら、もっと目立つところに置けばいいのに」
線路沿いとはいえ、周囲にひと気の無いひっそりとした場所だ。中央線のない道路に、車だけがまばらに行き交う。
どうにかしてあげたいな。幸い我が家は一軒家だから、両親に頼めばペットは飼える。
「だけど――」
箱の中から子猫らしき鳴き声が聴こえない。捨て猫は生きているのか、それとも既に息絶えているのやら。
安否を確認したいところだが、恐くて身が竦む。まるで、あの時の自分と同じように――。
「箱の中の猫……か」
ふと以前、佐山くんが言っていた『猫』の話を思い出す。
『シュレーディンガーの猫』。理屈っぽい彼の言うことだ。難しいことは理解し難いけど――。
死んでる猫と生きてる猫。箱を開けた瞬間に、世界線が分岐され、ふたつの未来に枝分かれする。そんな量子力学の思考実験における定理だとか言っていた。
分岐する世界線。いわゆるSF映画やアニメなどで言われるパラレル・ワールド、並行世界ってやつだろうか。
三年前の秋の校舎の屋上。あの日の佐山くんとミチルの台詞が、わたしの中でリフレインする。
『全ての事象は観測された瞬間に確立される。しかも、こうやって各瞬間ごとに枝分かれする世界というのは無数に存在するんだ。だからさ、織原さん』
『そうよ、みお。だから、きっと――』
わたしの肩にそっと手を添えながら、遠い目をしてミチルは言った。
『並行世界でジュンくんは、きっと今も生きてるよ……』
放課後、校舎の屋上。足元に長い影を落とす秋空の下で。
あの時、わたしは美術部の仲間である部長のミチル、佐山くん、後輩のあやちゃんの三人に呼び出された。
ジュンの居ないこの世界を、抜け殻のように彷徨うわたしに向かって。佐山くん特有の、ちょっと理屈っぽくて分かり難い慰めの言葉を掛けてくれた。
三年前の高校二年生の七夕の日。わたしは美術部の仲間である星野淳を失った。死因は部活帰りの交通事故、即死だったそうだ。
彼はわたし、織原美緒の幼馴染でもあった。そして、わたしの大切な――大切な人だった。
通夜の席で彼の眠る棺の前に立った時から、ジュンを失ったあの瞬間から。世界は止まった。わたしの時間は、完全に凍り付いてしまった。
その数ヶ月前。たしかあの日も、こんな薄暗い梅雨の夕暮れ時だった。
あの時、わたしは彼の眠る白い棺の蓋を開けなかった。生死を確認する勇気がなかった。世界を分岐させる勇気がなかった。だから――。
「はあ……」
もう一度、白い箱に目を配るわたし。箱の中の命は、もう息絶えているのだろう。
「ごめんね、早く見つけてあげられなくて……」
その時。
「チイ……」
箱の中から、ちいさな鳴き声が聴こえた。
降りしきる雨音で、かき消されてしまいそうな。細い糸のように切れてしまいそうな、か弱い声。
わたしは傘を挿したまましゃがみ込み、白い箱をそっと開けた。
「チイ……チイ……」
中には子猫が入っていた。
サファイアのような蒼い瞳をした一匹の白い子猫。艶やかなプラチナブロンドの毛並みが、箱から漏れた雨に濡れている。
「よかった、生きてたんだ……」
わたしは子猫を、そっと抱いた。
「生きてた……よかった……本当によかった……」
寒さでふるえる子猫を、胸元に寄せて暖める。
「よかった…………」
「チイ……チイ……」
今にも消えてしまいそうな、まるで線香花火の紅い玉のような。微かな光の糸を煌かせながら、儚く揺らめくちいさな命。
けっして地面に落とさぬよう、消してしまわぬようにと。わたしは自分と天国の彼に約束した。
「ねえ君、一緒に帰ろっか?」
「チイ……」
わたしは子猫が濡れないように、傘の柄をしっかりと握って雨の線路沿いを立ち去った。
<Fin>
最後まで読んで頂き、本当にありがとうございました。心より感謝致します。
【2018年 秋 初稿:約11万6000文字 執筆期間:1ヶ月強】





