終幕 そうして今日も、僕は
十八歳のニーナの誕生日に、深い緑の石のペンダントを贈った。
ずっとつけていてね、と言うと、それまでとてもうれしそうにしていたニーナは、途端に表情をくもらせた。
「ルイスは結局、私を信じる気なんてないんだわ」
ツンとそっぽを向きながら、ニーナは唇を尖らせる。
隣でお行儀悪くソファーに身体を沈めてお茶を飲む彼女に、僕は苦笑するしかない。
僕の不用意な一言は、どうやら彼女の不安を刺激してしまったらしい。
誕生日を祝うガーデンパーティーの前に作った二人の時間は、ニーナの機嫌を取るために使うことになりそうだ。
昨年、彼女の姉であるエレの結婚式でもらった花冠が、ドライフラワーになって壁に飾られている。
次の花嫁はあなたよ、と引き継がれた乙女の夢。
エレがニーナに手渡すとき、一瞬だけ僕に向けられた視線は、仕方がないからあなたにあげるわ、と言っているようだった。
大事な妹を託されたというのに、この体たらく。
僕が将来の義姉たちから真実認められる日は、きっとまだまだ先だろう。
「信じたいとは思っているよ。信じる努力もしているつもりだ」
おねがいルイス。彼女の願いが僕を良くも悪くも戒める。
私の気持ちを信じて。時を積み重ねてきた深みのある声が、全身に行き渡っていった感覚は忘れられない。
ニーナの気持ちを恋ではないと、ただの刷り込みだと決めつけてしまわないように。
不安も、疑心も、勝手に自己完結してしまわないように。
あきらめるくらいなら、ずっと好きでいてもらえるように。まずは彼女の言葉を素直に受け取ろうと。
たしかに、プレゼントをいつも身につけていてほしいというのは、不安の現れなんだろう。
本当に信じているのなら、たとえ身につけることなくしまい込まれていても、大切にしてくれているんだと思えるはずだ。
首にかけるペンダントは、ともすればペットにつける首輪のようにも映る。
ニーナは僕のものだと思いたいがための、自分の心の平安のためのプレゼントだという自覚はある。
それは逆に言えば、信じられる要素を作ろうという努力の一端でもあるわけだ。
我ながら勝手すぎる論法だけれど、信じることを放棄していた以前と比べれば、進歩と呼べる気がする。
「信じるって、努力が必要なこと?」
「僕にとってはね」
横目で睨んでくるニーナに、僕は正直に答える。
嘘はつかない。ごまかしも口にしない。
それも、今の僕にできる努力のひとつだ。
本音と向き合うというのは、時にとても恥ずかしく、そしてとても惨めなこと。
自分自身すらも欺き続けていた僕には、普通なら簡単なことが難しかった。
けれど、偽りで固めた心で、ニーナに寄り添うことはできない。
少しずつ、少しずつでも、彼女の想いにふさわしい自分になりたいから。
「疑うことなんて、何もないのに……」
伏せられたまつげが、頬に悩ましげな影を作る。
どうということはない仕草ひとつ表情ひとつに、惹きつけられる。目が離せなくなる。
抱きしめて慰めてあげたいけれど、彼女を傷つけているのは他でもない自分。
触れることすらためらっていると、ニーナの濃緑の瞳が、まっすぐに僕を射抜いた。
「私、ルイスが好きよ。誰より一番好き。恋だとか、好きの種類だとか、たしかに最初はわかっていなかったかもしれない。でも、ずっと一緒にいたいっていう気持ちは、十歳のときから、ううん、もっと前から変わっていないの。これが恋でないのなら、私は何を恋と呼べばいいの?」
じわりじわりと、彼女の声に呼応するように、胸に熱が広がっていく。
ひたむきすぎるそのまなざしに、甘やかな夢の続きを告げるその唇に、何度僕はすくわれただろうか。
ずっと、ずっと昔から。
それこそ婚約を結ぶよりももっと前から。
僕はニーナの言葉に、ニーナの想いに支えられてきたのだと。
僕が、僕であれたのは、ニーナのおかげなのだと。
今ではそう、痛いほど実感している。
「うれしいよ、ニーナ。僕も、君のその気持ちが恋であるよう願っている。もう君から逃げたりしない。それ以上は……もう少し、待ってくれないかな」
どれほど言葉を尽くしてもらっても、完全に信じることができない自分が情けない。
煮えきらない僕の態度に、ニーナはしょうがないとでもいうように、ひとつため息をついた。
「最近わかってきたわ。ルイスは自分に自信がないから、疑ってしまうのよね。私を信じられないんじゃなくて、私に好かれている自分を信じられないんだわ」
「……そうかもしれないね」
兄代わりや婚約者としての贔屓目ではなく、ニーナは優しく、美しく、賢く。愛嬌も社交性もある。
ニーナは僕にはもったいない婚約者だ。
幼い頃の約束さえなければ、引く手あまただっただろうと容易に想像がつくからこそ、僕でいいのかと考えてしまう。
それは、僕を慕ってくれるニーナにも失礼だと、わかっていながらも。
あきらめがいいのは傷を浅くするための予防線だった。
最初から期待していなければ、裏切られる心配はなかった。
身についた処世術は簡単には直せない。無意識の意識から変えていかなければいけないのだから。
信じようと思って信じられれば、とっくの昔に問題は解決していた。
今、かろうじて僕をニーナにつなぎ止めているのは、魔法のような、彼女自身の願い。
それがなければ、きっと僕はまだ彼女と向き合うことなく、逃げ続けていただろう。
「これだけ何年もルイスだけを想ってきたんだから、少しくらい私の言葉を信じてくれてもいいと思うのだけど」
なじるような言葉と視線に、わずかに反発心が頭をもたげてくる。
たしかに、信じきれない僕がいけないんだろう。自信を持てない僕に問題がある。
けれど、全部が全部それだけではないだろうと言いたくなった。
「それならニーナ。君は今、十歳の子どもから告白されたとして、本気にすることはできる?」
僕が正論を口にすれば、思ったとおり、ニーナは言葉に詰まった。
僕とニーナが婚約を交わしたのは、十七歳と十歳のとき。
つい昨日まで十七歳だった今のニーナなら、あのときの僕の気持ちはわかるはずだ。
ニーナは逡巡するように視線をカップの中の紅茶に向け、それを一口飲む。
「……今すぐは、無理かもしれないけれど。その子が成人してもまだ私を好きだと言ってくれるなら、ちゃんと受け止めるわ。積み重ねた時間は、そんなに軽いものではないはずだもの」
揺れる水面を見つめながら、ニーナは小さな声で告げる。
そこには、今まで重ねてきた時間を感じさせる、想いがこもっていた。
彼女の実体験から、そうあってほしいという意味での言葉だということは理解している。
けれど僕は、彼女のその瞳の向こうに、幼い少年の幻影を見てしまった。
自然と、手を伸ばしていた。
カップをテーブルに置いたニーナが、振り向いて目を丸くする。
きっと僕は情けない顔をしていることだろう。
格好悪い姿を見られたくなくて、彼女を強く抱きしめ、肩口に顔をうずめる。
「ルイス? どうかした?」
ニーナは僕の腕の中で身をよじり、精いっぱい手を伸ばして僕の髪に触れてきた。
なだめるような優しい動きに、心が凪いでいく。
気持ちが落ち着いてくれば、残るのは衝動に身を任せてしまった羞恥心だけだ。
言いたくなくとも、戸惑わせてしまった以上は説明しないわけにはいかないだろう。
「ごめん……。その、架空の少年に、少し、嫉妬を……」
「……呆れた」
耳元でくすくすと笑い声が聞こえた。
それがとても楽しそうに響いたから、僕はどうにか顔をあげることができた。
「ルイスって、実はとってもおバカだったのね」
にこにこと機嫌が良さそうに笑うニーナに、どこまでも格好のつかない僕への失望は見当たらない。
頼りになる兄でなくても、完璧な王子様でなくても。
本当にニーナは僕に恋をしてくれているのかもしれない。僕を、見捨てずにいてくれるのかもしれない。
甘い、甘い希望が、今の僕を照らしてくれる。
「嫌いになる?」
「まさか」
即座に否定したニーナは、僕の不安も恐怖もすべて包み込むように笑ってみせた。
「もっともっと、好きになるわ」
そうして今日も、僕は幸福のぬくもりを知る。
君にすくわれて、君にまた恋をする。
お付き合いいただきどうもありがとうございます。
ルイス視点、書いていてとても楽しかったです。
きっとこれからはなんだかんだで周囲が羨むばかっぷるの道を歩むことでしょう。