戻ってきた女
その日、夜更けまで庭園に佇んでいた皇帝は、妃の許へは行かず私室へと戻った。
「……何だ?」
部屋へ入るなり何者かの気配をベッドから感じた。
用心深くそこへ寄って上掛けを捲ると女が眠っている。
そこにいるのは消えたはずの凛。
体の右側を上にして横になって寝ている凛を皇帝はじっと見つめた。
ようやく世界から解放されるかと思ったがそうではないらしい。
この女に皇帝を産ませなければならない。
思わず溜息が漏れた。
「消えたり現れたり忙しい女だな」
ピクリとも動かず死んだように眠る凛を見ながら違和感を感じた。
凛から微かに漂う血の臭いがその正体だ。
――まさか……
白いシーツに赤い染みが広がっていく。
凛の体を仰向けにしようとそっと体に手を差し込んだ途端、衝撃と激痛が皇帝の体に走った。
慌てて手を引っ込めると両手がベッタリと赤く塗れて光っている。
「まさか……死んでいるのか?」
今までに死んだ女が呼ばれたことなどなかった。
凛の血の気を失った顔に思わずゾッとした。
次代の皇帝を産むべき女が死んでいる。誰に聞かなくとも凶兆であることは間違いない。
怒り以前に遣る瀬無さが込み上げてくる。
自分の存在が足元から崩れるような感覚――喪失感を強く感じたが、初めて味わう感覚の名を知らない。
「哀れな……」
皇帝がポツリと呟いたのは誰に対してかは分からない。
「陛下!」
恐らく就寝しているであろう主の部屋へと断りもなく転がり込んできたのはアティフ。
「大変です! ……どうなさいました?」
振り返った皇帝は無表情でアティフを見やった。
かなりの興奮状態で転がり込んできたアティフだが、主の奇妙な様子にいくらか冷静さを取り戻した。
「女が戻ってきた……」
「……リン、様が?」
ああ、と無言で頷きながら嘲笑が漏れてきた。
「死んでいるようだがな」
アティフは驚きに目を丸くした。
「そ、それは、月が赤く染まっていることと、関係が?」
皇帝は思い切り顔を顰め、もう一度凛を見た。
「ん?」
先程見たのは幻か。
凛は小さく息をしながら眠っている。血の跡も臭いもない。
小さく舌打ちをしながら窓際に寄りカーテンを開けるが、そこにはいつも通りの濃紺の夜空が広がっている。
そして、銀色に光る月が室内を明るく照らしている。
窓辺に寄ってきたアティフは愕然としながら叩頭して、皇帝の睡眠を邪魔したことを詫びた。
「お互い夢を見たか――それとも凶兆かもしれんな」
そんな遣り取りをしていると凛は小さく呻きながら寝返りを打った。
「ん……?」
薄く目を開いた凛の瞳はぼやけて焦点が合っていない。
その虚ろな瞳で皇帝の姿を捉えると、ホッとしたように微笑んでいる。
涙の跡が薄らと月の光に反射して光っているのが分かる。
「……ま、むらく……ん」
凛ははフラフラと所在なさげに手を伸ばしている。
「また泣いていたのか」
「泣いて、ないよ……あのねぇ、トラックに跳ねられる夢、見たの。痛くて怖かった」
「そうか……それは、大変だったな」
トラックが何か分からないが大変そうだな、と思った皇帝は、気が利かない台詞だと思いながらもそのまま口にした。
それから自分でもなぜそうしたのかは分からないが、皇帝は凛のことを抱き寄せた。
ただ、寝ぼけて舌が回らない弱々しい声と誰かを求めるような姿にそうした。