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第4話 宅配司書ができるまで ⑳

 モミの木のざわめきをきいた気がして、ダイアンは半歩足を止める。

 ゴルディ氏の元からの帰り、アパートに近づく度、強まる違和感。

 転がった少女の靴を扉の前に見つけ、息を呑む。

「ラヴェンナさん」

 速足で扉を明け、ダイアンは拳を扉に叩きつける。

 もぬけの殻である部屋。

 確認した直後には、ダイアンは踵を返していた。

 ――心当たりと言えば、一つだけ。



「商品の代金をいただいていませんが」

 数キロ先の高級住宅街。豪奢な住まいの応接間に、ほとんど有無を言わせず押し入って。

 撫でつけた髪にバスローブ姿でくつろいでいたシルベステを前にダイアンは切り出した。

 同時に胸中で呟く。いただいていたとしても同じことだが、と。

「彼女をお返しください」

 部屋は豪奢だが、金の装飾にはそこここに錆がつき、掃除も行き届いていないところが持ち主の精神状態を物語る。

 商品を依頼したものの賊に支払う金が思うように工面できず強硬手段に出たのだろう。



「知らんな」

「知っているはずです」



 バスローブの上の顔は揺らがない。

「知っていたからといってどうだと言うんだ? あれはただの道具だろう。お前らにとっても。商品を失ったのならまた補充すれば――」

 ダイアンは標的の面前から背後に位地を変えると、その鳩尾に手刀を落とし込んだ。

「うっ……なっ」

 状況が飲み込めず目を回す相手に、容赦なく告げる。

「素直に言うことを聞いた方がいい。あいにくオレは今虫の居所が悪い」



 いや。もうずっとだ。

 内側からの激しい声を、初めて、ダイアンは聞いた。

 この世の底辺にいる虫どもがこの頭上を覆いつくし。

 生きる意味なんて思考の片鱗にも触れないままここまで来て。

 今ようやく、ウィスタリア色の小雨でそれが晴れて。

 盲目だったこの目が見始めている。

 世界を覆うこの空の真の姿を。

 雨をもたらしたのはあの少女だ。



 冷や汗を吹き出し、シルベステはもんどりって逃れようとするがダイアンの片足で蹴り上げられ宙を舞う。

「どうしますか。シルベステ殿」

 なんの身分も肩書も。

 戸籍にその名すらない。

 もう『ビスクドール』の一員ですらない。

 一人の男は、冷然と告げた。

「――二度、忠告はしない」



 彼女の名を叫びながら、ダイアンはシルベステに明かされた場所――地下牢の扉を開けて回る。

「ラヴェンナさん!」

 どこからかかすかに血の匂いがする。

 心臓が鼓動を打つその感触が、くっきりと胸に感じられた。

 四つめの扉を開け放った時、嫌な予感は確信に変わる。

「――ラヴェンナ」



 少女はテーブルに向かっていた。

 ビスクドールのような繊細なドレスで飾られ、机に向かい、書物を書かされている。

 おそらく、とある書物の内容がほんとうに記憶に入っているかどうかの実験。

 唇を噛み、ダイアンは万年筆を動かすその手をとった。

「帰りましょう、ラヴェンナさん」

 だが、少女はその手を無言で振り払う。

 そして激しく首を振った。

 脅されたのか。

「帰るのです」



 ならばそれすら凌駕する手段を行使するのみ。

 ダイアンは少女を抱きかかえた。

 だが少女はじたばたと暴れ、机にしがみつこうとする。



「やめなさい。何を言われたのか知らないが、あなたはここにいるべきではない」

 あくまで部屋にとどまろうと少女は奇声を発しダイアンの腕をすり抜ける。机の上からインク壺が落ちて、少女の鼻の先を黒く染めた。

「シルベステ氏に、何を言われました」

 少女の傍らのインクに混じった赤がダイアンを正気に戻した。

 抱き起し、確認する。

 全身に傷なし。

 口の中を確認すると、舌に少量の傷。

 命に別状はないことを認識したが、衝撃はあまりに深かった。

 この傷をつけたのは他者ではない。

「なぜ。……何故だ、ラヴェンナさん」



 朦朧と閉じた瞳が――ウィスタリアが哀しく、きらめく。

 この世で一番愛らしい声は答えた。

 うられても、しねばいいとおもった、と。



「わだ、しを。しるべすてさんにうることがだいあんさんのしごとです」

 雷の一打のごとくそれはダイアンから動きを奪う。

「わだしをうればもう、おしごとがおわるから」



 時も音も、心臓すら止まったかのような錯覚。



「いたいいたいに、なりません」



 力なく少女の傍らに落とされた膝が、呆然の情を示す。

「愚かだ。……愚かです」

 手当てを施しながら譫言のように呟く。

「シルベステ氏に売ると思ったんですか。僕が、あなたを」

 それで舌を噛み切り、不要になった自分を処分しようとしたのか。

 自分に見放されたと思ったから。

 そして、自分が痛みから解放されるのならばとそれを受け入れ――。

 この少女は。



「ぼろぼろになってそんなことを言う、きみを」

 何かが、少女の頬に堕ちた。

「だいあん、さん……?」

 熱を持った液体を不思議そうに触れる少女に、言う。

「ラヴェンナさん。今後、舌を噛み切ろうとすることを、禁じます」



 なぜ、とウィスタリアの瞳は問う。

 不要になったら処分する。当然のことなのに。

 そうだ。

 彼女はそれが、当然の世界で生きてきた。

 自分だってそうじゃないか。

 それでも。

 歯を食いしばって出した答えといえば。



「僕が嫌だからです。あなたにそうされては」

 答えになっていない。

 自分には彼女のように豊かな書物の知識もないから。

 だが、言わずにいられなかった。

「こういとき人は、哀しい、というかもしれません」

「……」

「いつか、わかる日が来ます」



 そう祈りたいだけかもしれない。

 だが祈らずにいられない。

 手当てを終えたダイアンは無意識に目を閉じていた。

 かつてさんざんに呪った神とかいうもののために。

 だがそこは、腐っても元盗賊。

 世間の垢にまみれた性なのか。



「ただ一方的に命令するのはフェアではないので、代わりに一つ、要望を聴きましょう」

 再びその目が彼女を捕らえた時、口にしたのは極めて現実的な取引の台詞だった。

「望みは、なんですか」

 少女の求める視線に応じて、本を近付けてやる。

 小さな指が手繰った言葉は。



 TREATED WELL



「優しく、されたい」

 まだ続きがあると要求するラヴェンナの手元に、本を近付ける。

 

 AS YOU DID.


 あなたがしてくれたように、されたい。

 ラヴェンナを抱きしめダイアンは言う。

「優しくされたければ、あなたがあなたに優しくありなさい」

 少女の小さな耳に届いたかどうか。

 ラヴェンナはゆっくりと、目を閉じた。


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