04-1
■04■
草の匂い、土の匂い、風の温度――に導かれ、陽成は目を開けた。
目の前に草原が広がる。
緩やかな丘が幾つか重なり、その奥に森が見える。
空は灰色に曇っていて、風は結構冷たかった。
そこは絵本の中でリスがウロチョロしていた原っぱだった。
だが、絵本で見た時よりも随分、天気が悪くて色彩が落ちて見える。
暗くて、今にも雨が降り出しそうだ。
足下の草は、黄緑と黄色が混ざったような、枯れかけた色をしている。
これから冬に向かうのかな。日本で言えば初冬くらいだろうか、と陽成は思った。
本で見た動物達が……今は見えない。突然現れた人間に驚いて隠れちゃったかも。
――リス、見たいのにな。噂のクソうさぎってのは? 他の動物でもいいんだけどな、キツネとかさ。クマはカンベンして。怖いのはイヤだ。
どこかに動物が居ないか、と陽成はキョロキョロする。
その隣で小坂が不満そうな声を出した。
「あぁあ……もっと小春日和で可愛らしい場所かと思ってたのになぁ。ガッカリ」
「仕方ないよ、天気悪いんだし。雨降りそうだよ」
「そうねぇ。風も冷たいしねぇ」
小坂の髪もスカートも、風に煽られてバサバサしている。裾を押さえたりして、少し大変そうだ。
「小坂さん、寒くない?」
――寒いなら、ジャケットを貸してあげてもいいんだけど。
「うん、平気。ありがと」と笑って小坂はこっちを見た。
そして目を見開き、驚いた表情を見せる。
「えっ! 湯山くんっ」
「は、はいっ?」
「マスクは? 痣は? 腫れはっっっ?」
小坂の両手に顔を持たれ、ガクンガクンと前後に揺すられる。
「なっ何言って……あれっ?」
さっきまであんなに疼いていた顔が、痛く無い。
「痛くないっ!」
「だよね、だよねっ? 綺麗だもんっ」
「巳央っ?」
「あー、はしゃぐなはしゃぐな。今はアストラル体だから」
巳央はこちらに興味が無さそうに、地面を見ながらキョロキョロしている。
何か落とし物でもしたのだろうか。来たばかりなのに。
「ね、アストラル体って何?」
小坂に顔を持たれたまま。真正面から質問を突き付けられる。
「僕も詳しくは……」
答えなど、陽成は知らない。
「マインド、みたいなモンだ」と巳央。
「マインド、って何よ」
やはり質問は陽成に突き付けられた。
「心、みたいなものかな……気持ち、とか?」
「それくらいなら私にだって分かるわ。単語の意味じゃないの、あの人の言ってる事が分からないの、湯山くんのケガが完治している事もねっ」
「お前、そんな単語が出て来る本なんか読んだ事無いんだろ? なら予備知識が無いって事だ、諦めろ。一言二言で説明出来るような事じゃない」
目の前にある小坂の顔が、悔しそうに歪んでゆく。
「あっあのね、えっと。人の心は肉体を離れて星の世界も旅するんだよ。その時の状態がアストラル体って聞いたような、記憶違いのような……ねぇ? 巳央っ」
「星の世界ィ~?」
小坂の声が低くなる。
――うわぁ、怒らせたかもっ。子供騙ししてるって思われたかもっ。
「何よそれ、ロマンティックじゃない。どこの神話の話?」
「……へっ?」
「星座の世界を旅するの?」
「いや、僕は本当に詳しくは知らないから」
「なんだ。読んだ事無いのね?」
「う、うん……」
そう言う事にしておこう。
こちらの口論を無視して、巳央はスッとしゃがみ込む。
その右手を伸ばして、地面に触れた。
「何してんの」
「挨拶しておこうと思って。礼儀だ」
巳央は目を閉じて数秒、小さな声で何か呟いた。
すると少し遠くの方に、ゆらりと人影が姿を現した。
三メートルほど先、だろうか。
黒い開襟シャツを着た黒髪の男だ。
シルエットは、巳央に劣らずスラリとしている。
切れ長の黒い瞳に、微笑みを浮かべた口元。
顔色は、青白かった。少し不健康そうにも思える。陽射しのせい、だろうか。
「ようこそ、チャットウィンフィールドへ」
男の低音ボイスが聞こえる。素敵な声だ。舞台俳優みたいだ。
その人が歩いてこちらへと来る。足が長くて一歩一歩が広い。
巳央も彼に向かって歩き出した。
陽成も慌てて巳央の後を追う。小坂も付いて来る。
「日本、と言う国から来ました。三名です。陽成、小坂、そして私が巳央」
「私はデズモンド。遠い国からようこそ。歓迎します」
歓迎します――とは、本当だろうか。
うさぎはこの、絵本の国から来たはずだ。
この人は、敵対的だったあのうさぎのバックなのだろう? 本当に歓迎してくれているのか?
いや、挨拶だと巳央も言ったし。
これは多分本当に、単なる挨拶なのだろう。
「うさぎから報告は届いてますよ。そちらのお嬢さんの事ですがね」
小坂が「うっ」と小さな声を漏らす。
「彼女を必要とする理由を、教えてください」
「それは――」と、デズモンドは苦笑いを浮かべた。
「〈ここ〉を、ある事から解放させるため」
「侵略でもされているのか」
「似たようなものです。その元凶と真反対の〈波動〉を見つけた、それをぶつけてみよう――と言うのがうさぎの主張です」
「ぶ……ぶつけ……?」
小坂の顔が引きつっている。
「この土地に彼女を〈貰えばいい〉と言う事ですよ、乱暴に説明するならね」
「へぇ? 生贄にでもするってわけか」
「さ、それは。その時になってみないと分かりませんが。それよりもせっかく遥々来ていただいたんです。よかったらこの国を見聞されませんか」
――油断させてパクリ、とか?
袖が強く引っ張られ「ちょっと」と小坂が小声で耳打ちして来た。身体が引き寄せられる。
「な、なに」
「私を生贄にしようって国に、長居したくないよっ。断ってくれるよね、あの人っ」
「おい、聞こえてるぞ小坂……だが却下だ。お前、このまま原因を始末しなくていいのか? あのクソうさぎ、簡単には離れんと思うぞ。そのたびに同じ事の繰り返しだ。お前の家庭は壊れて、ウロチョロしてる陽成がまた通りすがりの奴らにボコられんだ。いつかは生命を落とすかもな。てか、きっと巻き添えを食らうのは陽成だけじゃ済まないぞ。それが日常になってもいいのか、お前」
「いいわけないじゃん!」と小坂は叫んだ。
「私もあいつは、あなたに執着すると思いますよ。何年も探し歩いて、やっと見つけたのだと言ってましたから」
小坂の頬がピクピクとしている。
「ヨーロッパからユーラシア大陸を東に、本を利用して出現出来る場所をしらみつぶしに探して、探して……何年も、何十年も、あいつは解決策を探して。日本にたどり着いたのも数年前です。『あの国にはどんだけ本屋があるんだ!』とキレてましたけどね」
デズモンドは嬉しそうに微笑んだ。それを受け、小坂の表情が更に複雑そうになってゆく。
「バカなうさぎですけど、一生懸命なうさぎなんですよ。でも、大変ご迷惑をおかけしたみたいですね。私から謝ります」
謝罪を受け、小坂は黙り込んでしまった。