一世一代の大博打
男は目の前に立ったカナンの足首を素早く掴み、獣じみた雄叫びを上げて力いっぱい腕を振り上げるとカナンを地面に叩きつけたのだ。
壊れた人形の様に地面に臥せたカナン。転がる純潔の槍。
鉄の体を戦慄が走った。
「――カナンっ!!」
見張っていた目をさらに開いて鉄は叫んだ。
だがカナンは鉄の呼びかけに反応するどころか、ピクリとも身じろぎしない。
「ぅ、嘘だろっ!?」
思わず鉄はカナンへと足を踏み出した。
その瞬間、射るような視線に鉄は彼の存在を思い出して息を詰めた。自然と勢いよく出した足がゆっくりと地に降りる。
男はゆらりと立ち上がると鉄に向かって歩き出した。
一歩、また一歩と進む度に肩の傷から流れ落ちる鮮血が腕を伝って指先から滴る。乱れた髪の間から覗く目はぎらぎらとして、その顔は苦しみのためか、はたまた憎しみのためか、ひどく歪んでいた。
――狂った獣。
そうとしか言い表せない。
喉が、口の中がカラカラに乾く。指先の感覚は失っているのに、心臓が痛いくらいに早打つ。
今までの体験してきた様々なトラブルや危険なミッション。
そこでは感じ得なかった腹の底から突き上げる冷たい激情。体が確実に死を予感している。
(俺は死ぬのか? これで終わりなのかっ?)
鉄は自らを詰るように問う。
怖い。目の前の男も、死ぬことも。
あの日、あの夜カナンと出会わなければ、いや、出会ったとしても、当初決めていたように何があっても彼女と関わらないようにしていれば。ミッションに関わって正義の味方のような真似なんかしていなければ。
――何も知らないフリをして、見ないフリをしていれば。今まさにこの瞬間、ここで、この狂人の手で惨く殺されることはなかっただろう。
(……でも、カナンに出会わなかったら……関わってなかったら、俺はいつまで経っても逃げるだけだった)
不穏な成り行きや人を避ける。そうし続けることで鉄は自分自身を守ってきた。そうでもしなければいつか人に、自分自信に絶望してしまいそうだった。
それが怖かった。だから逃げてきた。
だが、鉄はカナンと出会って変わった。共にミッションを遂行するようになって鉄が得たのは危険だけではなかったのだ。
――安らぎ。
思いがけず得たあの暖かな感情、そしてカナンのはにかんだ笑顔が鉄の脳裏に蘇る。
(――俺はっ……)
鉄はギリリと音が鳴る程奥歯を噛んだ。
カナンのダメージがどれだけのものなのかは分からない。もしかしたら意識を失っているのかもしれない。だが、目を醒ます可能性だってある。
もし、どうにかして時間を稼ぐことが出来たなら、その間に誰か通りすがりの人が現れて、倒れている彼女を見つけるかもしれない。カナンは逃げることが出来るかもしれない。カナンは助かるかもしれない。
都合の良すぎる期待。だが、可能性は皆無ではない。
これは賭けだ。万が一の希望に、偶然に希望を託した江川鉄、命を懸けた一世一代の大博打。
鉄は拳に力を込め、男を見返した。その瞳にもはや恐れはない。宿るのはただ一つの決意。
――この男をカナンから遠ざける。できるだけ、遠く。
鉄は大きく息を吸った。
「俺は江川鉄! 四人目のシンズ、俺が相手だっ」




