十二話 <挿絵>
「おーす堤くん」
文芸部室の扉を元気よく開け、元気よく挨拶してみたものの、堤くんはいなかった。あたしの手の中で、さっき購買で買った缶コーヒー二本がぶら下がる。コーヒーいかがすか、みたいな売り子のポーズ。
「おい、邪魔だ。どけ」
いつの間にか、堤くんが後ろにいた。そそくさと道を空ける。彼は長机に原稿用紙を置き(かなり乱暴に)、特有の炯眼をあたしに一度向けて、黙って執筆作業を始めた。
「あの、お詫びと言っては非常に慎ましいものですが……」
言葉通り慎ましく、缶コーヒーを手渡す。堤くんは何故か缶の成分表を眺めて、眼鏡越しの探るような目であたしを見返した。
あたしはへらへら笑いながらその視線と対抗する。
「ごめん。もう無断でさぼったりしないから」
堤くんは眉間にしわを寄せ、黙り込む。扉の向こうから慌ただしい足音が聞こえた。たぶん真由だろう。数秒後に扉が叩き開けられる。
「すみません堤さん!」やっぱり真由だ。「日直当番が長引いて、遅れました!」
真由には一目もくれず、堤くんはあたしのにやけ面を見つめていた。やがて缶を机に置き、ふん、と鼻で笑う。
「笑えるな、その顔」
さっと愛想笑いを下げ、その辺のパイプ椅子に腰掛ける。真由は首を傾げる。無言のまま、それぞれが静かに作業を始めた。
あたしの笑顔なんてこんなもんだよ。くそ。
吉村くんの召集メールを受けて裏門に行く。しかし見当たらない。ならばと正門側に行くと、吉村くんの方が先にあたしを見つけ、手招きをした。
「珍しくこっちからなんだ。今日はソレイユじゃないの?」
彼は首を振る。
「今日は向かいのクレープ屋。新商品が出たんだってさ」
横断歩道を渡ってクレープ屋台へ行く。
見ると、立て看板に追加の張り紙があった。『業界初! たこ焼き320円』と、自信満々に大きく書かれている。
バンダナ店員が馴れ馴れしくあたしたちに話しかけてきた。
「おたくら、たこ焼き猫捜してたっすよね。そんで俺、ピーンときたんですわ。クレープ屋でたこ焼き売ったらウケるくね、みたいな。なにげに業界初じゃね、つってさ。どうすかねこのアイデア」
吉村くんは特にコメントせず、にこやかに「たこ焼き二つ」と指を二本立てた。バンダナ店員も同じくらいにこやかに「二パック640円ね」と接客した。
ベンチに座ってオーソドックスなたこ焼きを食べる。あんまり美味しくないけど、冷凍食品よりはましかなと思った。
隣の吉村くんが振り返って「そこそこです」と感想を言うと、バンダナ店員は頭を掻いてはにかんだ。そこそこなのに嬉しそう。でも、味なんてどうでもいいんだろうな。要は目新しさの提供だ。
「そういえば吉村くん、あんまり落ち込んだ感じじゃないよね」
小声で話しかけると、吉村くんは「なにが?」という顔をした。
「静香さんのこと、色々とさ」
「あー」
「平気なわけ?」
「別に平気じゃないけど、なんていうのかな」
そして彼はたこ焼きを口に入れる。目を細め、しばらくして口ずさむ。
「だって完敗したらさ、悔いもなにも残らないよ。そういうものでしょ」
「そういうものかな」
「ほら、柔道できれいな一本背負い決められたら、気持ちよく『負けた』って思えるよね」
「あー、そういうものか」
それからあたしらはたこ焼きに集中した。穏やかでいて、なんとなく空気がもやついていた。食べながら、互いに校舎の向こうの雨雲を見つめた。
「咲子さん」
唐突に、あたしの口元すぐにたこ焼きが差し出される。あたしは横目で吉村くんを見た。
「あーん、ってしてみて。咲子さん」
「あぁん?」
「いや、そんな睨み利かせた感じのじゃなくて」
あたしは少し考えて、彼の手を遠ざける。
「悪いけどね、吉村くん」
行き場をなくしたたこ焼きが空中で寂しげに揺れた。
「傷を舐めあうような恋愛って、あたし良くないと思うな。どれだけ互いが傷を抱えていてもだよ。確かに過去の感傷に浸った方がドラマチックかもしれないけど、二人の関係は深まるかもしれないけどさ、そんなの、周りから見放されるだけだ」
「まぁ、それは……」
「そういうのって誰が得する? どうして他人に理解できるっていうのかな、ねえ。たとえ理解してもらえたとして、それがあたしらのためになるわけ?」
「いや、そんなに怒らなくても」
「怒ってないし。ただこういうのが嫌だってだけ。なんだろ、このどうにもならない感じ。えーと、なんだ」
「無力感?」
「そうそう、それ」
「自分に出来ることは何もなかったんだなっていう、無力感。あるいは寂寥感?」
「それよそれ」
吉村くんは前方に向き直り、最後の一個を頬張った。長い時間、感慨にふけるように味わう。
「僕には否定できないよ。ドラマもなにも、そういう恋愛は実際にあるんだから」
「でも嫌じゃん、そんなの」
「分かってあげようよ。彼らが何年もかけて出した結論なんだから。それに、僕らが今更けちつけたって、どうにもなることじゃないんだし」
「それはそうだけど……」
冷える前に、あたしも最後の一個を口に入れる。でもやっぱり冷えてしまっていた。割り切って咀嚼する。
頭上を覆い尽くしていく雨雲を見上げながら、ふと、あたしって子供なのかな、と思った。
帰り際に吉村くんから渡されたのは、見覚えのあるA4判の茶封筒だった。岡本さんの手紙に書かれていた、『この後ある人と合流する』の意味が今になって分かった。
「記念写真、と言うにはちょっと不謹慎だけど、岡本さんが言うには記念写真らしいよ」
「またあの変態写真家が撮ったわけ?」
「あとで梶原さんに言っとくよ」
「勝手にどうぞ」
封筒を透かしてみようとしたが、夕日が曇り空に隠れていて、うまくいかない。
「手紙とペンダント、僕の家に置いたままでいいの?」
「いいよ。あたしが持って帰っても、どこに仕舞っとけばいいか分かんないし」
諦めて、鞄に封筒を入れる。
「それに、どうせあたしには理解出来ないんだし」
吉村くんは肩をすくめる。「拗ねちゃったよ」と呟いていた。むかついたけど、聞かないことにした。
自室に入ると同時に、外で雨が降り出した。階下から兄貴の悲鳴がこだます。洗濯物がどうとか言ってる。
部屋の電気を点けてベッドに転がった。手を伸ばして机の上の飴缶を掴み、一個取り出して口に含んだ。
鞄を開く。茶封筒から写真を抜き取り、枕に頬を押し当てる。A4サイズの写真を広げ、あたしは瞬きもせずにそれに見入った。
岡本さんは太い梢に粗縄で吊されていた。どこかの山中なのか、背景いっぱいに木々が写っている。縄は定規で引いたようにピンと伸ばされ、ところどころに血痕が付着している。テレビや新聞では、静香さんは絞殺されたと報じられていた。彼女の血だろう。殺害に使ったロープはそのまま岡本さんの自決にも流用された。
岡本さんには眼球がなかった。左目は空洞、右の眼球は、彼の指に刺さったまま。人さし指の先に赤い球体がある。そこから視神経の管が垂れ下がっていた。
ある不審な箇所に気づき、あたしは目を凝らす。岡本さんの顔だった。どこかがおかしい。皮膚がたるみ、節々が不気味に歪んでいる。その正体に気付くのに、しばらく時間がかかった。
彼は自分の顔の上から、さらに別の皮を被っているようだった。血色の失せた顔の皮膚。まるで仮面のように、岡本さんの素顔を隠している。ふいに猫の皮剥死体が頭をよぎる。次に、静香さんの顔面が剥がされていく光景を想像した。
静香さんは言う――具体的な方法で、彼/彼女を手に入れる。
岡本さんは手紙に綴る――僕の考えた、静香と繋がる具体的なやり方。
いつの間にか止めていた息を吐き出し、身震いをひとつする。一度目を離し、自分の頬を撫でてみた。唇を触り、その形状を確かめる。そのまま写真に目を戻した。
二人のオカモトシズカは顔を共有し、同時に微笑んでいた。その笑みは人工性を一切感じさせず、むしろ神秘的でさえあった。見る者の脳髄を浸食するような不可思議な力を持っている。
あたしは自分の口もとを触る。自然と吊り上がっていく口角を、何度も確かめた。