Act.10 琥珀色の彼女〜想い合う果てに〜
棗編、終了です。
更新が遅れたことについてお詫びさせていただきます。
特に特別な事情は無く、ただ単にバイトから帰って泥のように眠っていただけだったんですから。
本当に、眠気には勝てません。
すみませんでした(たぶん、これからも負け続けます)。
棗は目の前の光景に震える。沸き起こるのは言い表しようの無い、恐怖。
―――アイツの、鈴月の右腕から咲いた、漆黒の茨。
怖い。蠢くそれを、怖いと思う。本能的な恐怖心を刺激する、暗い、昏い存在感。
そして、不安を覚える。
―――鈴月が、酷く朧気に霞んでしまいそうで。何処かに消えてしまいそうな、根拠の無い不安。
あの茨は。鈴月にすら、凶を齎す。そのように思う。その今まで見てきた、どんな色よりも深い黒を目の当たりにして―――棗は体の震えを抑えきれない。
「・・・・・・なんだ。何なんだそれは!」
鈴月と対峙する男―――棗の兄が震える。短刀を絡め取られ、酷く狼狽している。
「・・・・・・なんだよ、これ」
鈴月本人ですら恐怖している。いや、鈴月が恐怖しているのは目の前の茨に、ではないのかもしれない。まるで、自身の中に存在する何かに怯えているような。
「!? 何で・・・・・・何で斬れないんだ! 斬れないはずが無いだろう!」
そこで、気付く。兄は自分と同じ功刀の血筋。自分よりも濃い血を継ぐ、純血の功刀。それなのに、何故あの短刀の刃は茨を切り裂いていない―――?
「咬め! 咬めよ! 『餌食み』!」
―――『餌食み』。それは功刀の秘宝の一つ。蔵にて管理される、蛇の如く蠢く刃。呪具の中でも高位に属する代物。『災具』とも呼ばれるそれ。
功刀の異能と、高位の呪具の権能を以ってしても、茨を斬ることが出来ていない。
―――あの茨は、一体何だ?
ギリギリと。ミシミシと。聞く者に不安感を与えるそれは、短刀の刃を軋ませる。
―――まさか。そんな、馬鹿な。
その茨は―――短刀を。功刀の秘宝を。高位の呪具、『餌食み』を。
―――圧し折ろうと、している。
バキリと。何かが壊れる前兆、その音が響く。それに続いて明らかにそれと分かる破砕音。
「嘘、だろ・・・・・・」
―――漆黒の茨が、呪われた刃を砕く―――
その瞬間。在り得ないはずの光景の中に、棗は見た。
『餌食み』を砕いた刹那。茨の纏う漆黒が、あからさまにその濃度を増したのを―――。
続いて、再び何かが壊れる音が響く。硬質な何かがひび割れる音。
「あ・・・・・・」
鈴月が、息を溢す。次の瞬間。
―――漆黒の茨が凍り付き、音を立てて崩壊していく。
まるで、黒水晶。透き通ることの無い、混じり気の無い漆黒が宙を舞い、地面に落ちるよりも早く分解され、大気に溶ける。その光景の美しさに、棗と男は見惚れてしまう。
「―――っ!」
その中で、鈴月が動く。地に落ちていた刀を拾い上げると、漆黒の雪が舞う中を駆け抜けて―――
呆然と立ち尽くす男の首筋に、その峰を叩き込んだ。
「万事解決とはこのことかな?」
風見伊吹は不敵な笑みを浮かべてそこに立っていた。
―――広がるのは延々と黒。
“かたち”を無くした影達が黒い雫を飛び散らせて消えていった後。やがてこれらも消えるのだろう。
「・・・・・・きっと僕の仔猫も上手くやってるさ」
最早形骸と化した黒を踏みつけ、伊吹はその場を後にする。
「僕の道を邪魔して何がしたかったのは知らないけどね」
恐らく王を語る男はこのゲームで自分を謀りたかったのだろう。だが、逃れて見せた。王の意図を挫いてやった。そしてこれから、王の望まぬ、想い人が望むだろう結末を作りに行くのだ。
「―――レオン。今回のゲームは僕の勝ちだ」
「・・・・・・で?」
「はい? 何でしょう?」
「・・・・・・どうしたの? 鈴月」
「どうしたの? じゃなくてさ・・・・・・アンタらもっと早く来て手伝えよ!?」
細く暗い路地裏に鈴月の声が木霊する。既に彼の胸中では、二度と路地裏に入らないという誓約が為されていた。
―――教訓その一。安易に路地裏に入るべからず。
「だって走るのにも限度がありますし・・・・・・」
「・・・・・・怪しいですね」
「・・・・・・鈴月、本当に男?」
「アンタも喧嘩売ってんですか? 今、関係性が欠片も無いでしょうが。それは」
かくいう鈴月の背中には棗、右手には刀。
「・・・・・・ごめん、みんな。迷惑掛けて」
何でも棗から聞くに、男は彼女の兄だったらしい。名を功刀義隆。さらには何か別人格に操られている可能性もある、と。正直言ってかなり危うい状況だったのは分かった。
そして―――彼女が涙し、謝罪した理由も。
鈴月にとってはそれが分かっただけでも救われる気分だった。いつかの過ちを繰り返さずに済んだから。それでも―――まだ、終わってはいない。鈴月は救われたが、棗達はまだ救われていない。
「私達も役に立てると思いますよ」
千歳が口を開き、携帯電話を取り出す。彼女が言うには、【協会】のネットワークにアクセスするのに特化した作りなのだとか。
「千歳さんって横文字苦手なのに携帯は使えるんですね?」
「・・・・・・鈴月。よく見て。これが扱えなかったら今の世の中・・・・・・生きていけない・・・・・・」
栞に言われ、千歳の携帯を注意深く見つめる鈴月。
やたらとごついフォルム。大きなボタン。まるで老人向けの機種を思わせる。
「・・・・・・確かに」
「そ、そんなことはどうでもいいんです! 画面を見てくださいよっ!」
液晶画面。そこには【憑き蟲】とある。
「憑き蟲とは魔物で言う蟲の一種です。読んで字の如く人に取り憑く蟲なんですけどね。この蟲に取り憑かれた人間は本能などを解放させ、さらに蟲自身の強要する感情に振り回されるといいます。厄介極まりない能力なんですよ、これは」
つまり。その名がここで出てくるということは。
「そしてこの蟲が確認されたのは某N県の稲穂町という町です。棗さん。聞き覚えがありませんか?」
―――何故か、その町の名前に違和を覚える。何処かで、聴いたことがあるような。
「・・・・・・功刀の、本家がある町」
「そうです。つまり、この蟲が感知された時期と棗さんのお兄さんがああなった時期が重なるんですよ。人はいきなり狂いだすような真似はしません。なら考えられることは一つですよね?」
「・・・・・・憑き蟲が、憑いた?」
鈴月は恐る恐る千歳に尋ねる。人に取り憑く蟲。それに嫌悪感を抱く。
「はい。ですから、上手くいけばお兄さんの無罪を証明できるかもしれませんよ」
「? どうやってです?」
仮にも人を何人も殺しているのだ。それが操られていたとはいえ、周囲がどう思うか。
「人と人は当然の如く、無機物や魔物妖物との間にも、触れ合えば『縁』が出来るんです。それは触れ
合った軌跡。絆の表明―――たとえそれが憑依などという行為によるものでも」
袖触れ合うも多少の縁。そういうことだろうか。
「・・・・・・つまり、その蟲と義隆さんの『縁』を証明できれば・・・・・・」
栞が普段の小声に喜色を滲ませる。
「ええ。確実に無実の証明が可能でしょう。そこで蟲の死体が必要となってくるわけですが・・・・・・」
そこで、千歳が棗を見る。鈴月の背中で、彼女はビクリと震えて。
「・・・・・・お兄さんの罪悪感までは消せません。もしかすると、一生それに苦しむことになるかもしれません」
そう。憑き蟲に憑かれている間も、彼は時折泣いていた。意識は残っていたと考える方がいいだろう。
「そしてお兄さんは逃亡時に当主―――棗さん。貴女の父親の功刀司さんに重傷を負わせています。本家には帰れない。貴女は彼を傍で支えることが出来ますか? それらを理解し、すべて決意した上で、お兄さんを救いたいと思いますか?」
背中から、温もりと震えが伝わってくる。そんな彼女に、鈴月は何も言えない。これは彼女の決めるべき問題であり、余所者が口を出すものではない。
「あたしは・・・・・・」
彼女が、口を開く。震える声。鈴月には、振り返ることが出来ない。表情は分からない。
「・・・・・・ずっと。ずっと嫌われて育ってきた。当主と使用人の間に生まれて、役立たずの厄介者で。皆が、あたしを見る。蔑んで、生まれて来なかった方がいいって。そう、言われながら育ってきた」
―――過去の傷痕。やはり、僕には何も言えない。何か言うには、僕という人間はあまりに薄っぺらすぎて。
「そんな中でも・・・・・・稽古の時間は大好きだった。いつも、あたしを優しい目で見てくれる人がいるから、大好きだった」
「・・・・・・それは」
鈴月の口から零れた言葉。それに棗は強く頷く。
「一回だけ。頭を撫でてもらった。凄く暖かくて・・・・・・あたしが、あの家で初めて貰ったもので・・・・・・それなのに、あたしは欲しい物を全部持ってる兄貴が、羨ましくて。妬ましくて。好きに、なれなくて」
そこで、途切れ途切れの言葉が、止まる。何か、言葉を探しているようでもあった。
「あたし、返せてない。馬鹿みたいに勝手に羨んで、兄貴を遠ざけて。だから、今度はあたしが―――」
その先の言葉は無かった。やはり、鈴月に表情を窺うことは出来ない。
―――でも、分かる。首筋に落ちる雫。温かなそれは、きっと彼女の決意の証でもあって。
「ごめん。力貸してくれ・・・・・・あたしは、兄貴を救けたい」
―――今の彼女の瞳は、きっと強いに違いない。
俺は漂う。
―――夢の中を? そう、ここは記憶の海だ。
ずっと昔。そう、妹が自分の下を去って行った頃。
―――功刀は男系の一族であった。
故に二人の姉と一人の妹を、父は子を産む道具として扱った。
ただ、二人の姉は何より貴重な道具であり、それこそ物語のお姫様のように育てられていた。二人の姉はそれで満足していた。世界が変わることなどあってはならない。二人の姉は幸せだった。
―――妹は、父と母の間に生まれた子ではなかった。
妹はただ生まれてしまった厄介者に過ぎなかった。父が女中を床に引きずり込み、その過ちの形骸として生まれてしまっただけだった。
―――特殊な血や異能。それは、希少であるからこそ、貴重でもある。
だからこそ、二人以上の道具は不要だ、と父は口にした。産みすぎては功刀の血の価値が薄れてしまう、と。
―――そう。奴は言った。妹は不要だと。本人にそう言い聞かせて育てた。
仕方の無いことだった。ただ、不運なだけだった。幼い自分は酷いな、と思っても何も出来はしなかった。
だから妹が過酷な環境で、忌み嫌われながら育てられ、二人の姉とは雲泥の差の扱いを受けていたにも関わらず、自分には何も出来なかった。
―――そう。たった一度だけ。俺は妹の頭を撫でた。
それだけが俺に出来た、与えることの出来た唯一の安らぎ、救い。無力な俺が、親に逆らうのを恐れた俺が、家訓に背くのを恐れた俺が出来た唯一の背徳。
―――酷く嬉しそうに微笑んだ妹の顔を、俺は覚えている。俺は忘れなどしない。忘れてなるものか。
それは何も出来なかった俺と母と。自分さえよければ、とその存在を顧みもしなかった二人の姉と。娘を娘として扱わなかった父との。
―――罪だ。罪の証だ。だからこそ、俺は忘れない。忘れてはいけない。
だからだろうか? 先日、漏れ聞いた父と誰かの会話。
『アレはようやく役に立つのだな。稲葉と小日向とパイプを結ぶとは』
―――家を出た妹は、その友人をとても誇りに思っていることを、俺は知っていた。
『アレか? アレはもういい。顔だけはよいからな。そこそこ名の知れた家にくれてやるさ』
―――利用するだけして捨てるのか。どうせ芽吹かぬ絆の為に、お前は娘を捨てるのか。
『どうでもいいさ。どうでもいいなら少しでも役に立てた方が、いいだろう?』
限界だった。怒りが頂点を越えた。
―――それでも父に、一族に背くことが出来ない自分が腹立たしかった。父の狂った思想に自分まで染まっているのかと忌々しくて仕方がなかった。だからこそ、俺は決意を求めた。
―――妹ヲ、助ケタイカ?
天から、影から、耳元から囁く声を。
―――俺は利用してやると。
愚かであった。悔やんでも悔やみきれなかった。
―――だけど。それでも。その時は、そうするしかない、と。
そう、思えたのだった。
父を殺し損ね、だから違う人を殺して、殺してしまって。望まぬ地獄を俺は見た。
―――あの少年も同じように殺したはずだった。
だが少年は生きていた。何があったかは知らないが、死なずにいてくれた。たまらなく嬉かった。
―――彼は妹を探し回っていたようだった。
だからこそ。
―――俺はこの少年に願うのだ。酷く身勝手すぎる願いを、俺は彼に望むのだ。
妹を、助けてやってくれ、と。
「―――」
倒れた男に向けて千歳は念を送り始める。
栗色の髪と同色の獣の如き耳と尾。それらを頭部と腰部に生やした少女。彼女は決してコスプレイヤーなる人種ではない。由緒正しき妖狐の血筋を継ぐ者としての異能を、常世へと顕現させていく。
―――それは蒼白かった。暗がりを照らす火であり、万物を燃やす炎であり、邪を祓う焔であった。
それらが一気に―――気を失った男の周囲に集束する。
そして、それらは男を燻り始めた。
「―――よし! お願いします! 鈴月さん!」
「はいっ!」
鈴月は一気に走りこみ―――勢いよく―――気を失った棗の兄、功刀義隆へと―――抱き着いた。
妙な意図は無い。ただ、鈴月の“体質”なる異能を発動させる為の布石。
―――浄化の効果を持つ炎、狐火。それらに燻られれば寄生した蟲はどうなるか?
もちろん、苦しむだろう。逃げたいと思うだろう。だが、奴は寄生―――否、義隆に憑依したままだ。
そこで鈴月の出番となる。ただでさえ必死になって義隆の体に憑依している蟲。そこに鈴月が接触し、『憑依する力』なる異能に彼の異能の影響を与えたなら―――
「―――オオオオォォォォォォオッ!?」
「いよっし! 出ましたよ、栞さん!」
逃げ出すだろう。ただ一つの逃げ道へ。
―――意図的に作り出した、狐火の中の空白。つまりは上空へと―――
「―――雲雀・・・・・・!」
不意に珍しい栞の叫び声。それは呼び声だった。何かに対する呼び声。喚起の要請。
―――小鳥が上空から舞い降りた。
ただし、その小鳥は動物ではなかった。動物の姿をしているが、動物ではなかった。
―――そう。それは人形。様々な素材で作り出された、精巧な人形だ。
雲雀の姿をした人形は飛び上がった蟲に対し、捨て身ともいえる勢いで体当たりをかまして見せた。
蟲は異形であった。巨大な蚯蚓のような体躯。太く長い胴体。頭部には鋭い牙は無く、代わりに不気味な眼があった。巨大で、禍々しく、そして妖しく光る、黄色い眼。
―――棗の綺麗な琥珀色とは違う、汚い、色。
鈴月はそれに対し、酷く嫌悪を覚える。
緩やかに落下していく蟲に対し、栞はさらなる追撃を加える。雲雀の形をした人形は既に地に落ちているが、代わりとばかりに彼女の右手には一本の杭が握られていた。
「―――【楔】を打ち込め・・・・・・!」
その杭がまるで意思でも持っているかのように動く。空中を奔り、吸い込まれるように蟲の太く醜い胴体へ。だがそれは傷を与える為のものではない。それは―――喰い止める為の、楔だ。
―――人形師。意思持たぬ人形を操る、小日向栞その人。カタチ持つ物を操る存在。
「―――棗!」
機を見計らい、鈴月が叫ぶ。
「・・・・・・本当に憎い演出してくれるよ」
空中に繋ぎ止められ、動きを封じられた蟲へ向け、棗が駆ける。壁を蹴り、僅かな出っ張りを足場にして高く、高く駆け上っていく。
―――顕現せよ。何を? 決まっている。お前の異能を。
棗は自問し、間髪入れずに自答した。既に迷いは無い。
握り締めるのは二振りの小太刀。柄の先に伸びるのは白刃。
―――顕現する。曇った空からは一切の灯は無い。だが見える。切り裂け。
風を刃が切る。蟲の体から迸る邪魔な瘴気を伐る。そして―――蟲を、斬る。
薄暗がりの中、無数の白い軌跡が輝いた。
「―――お前は・・・・・・!」
そこは日本家屋、とも言うべき屋敷だった。広大な敷地に存在する、それは豪邸と呼んでも遜色無いだろう。そしてそこは―――功刀の本家。
その屋敷の主人たる男―――功刀司は一人の男と対峙していた。
「やあ。ご老人。いやに老けてらっしゃるようだけど、君が功刀義隆と功刀棗のお父様かな?」
「! ・・・・・・何処で知った? あの愚かな裏切り者と役立たずのガキの名を」
―――美しい男であった。
背筋の凍るほどの美しさを湛えた、麗人と呼ぶに相応しい存在。同性の司から見ても明らかな美麗さ、そんな美貌に笑みを浮かべ、その男は立っていた。
そして司はかなりの深手を負っている。否、それは男に負わされたものではなく、自身の息子に負わされたものであった。それは父親としての誇りを著しく傷つけ、怒りを助長するものでもある。
「・・・・・・僕にとっては大した価値の無い人物だったんだけどね? 彼が大切だと感じるのなら、それは君達―――そう。功刀の一族全体よりも重宝されるべき存在だ」
「な、何を―――」
「はっきり言おう。今後一切あの二人に手を出すな。縁を切ることをお勧めするよ。功刀司」
「馬鹿なことを! あ奴らには思い知らせねばならん! このまま終わらせてなどなるものか!」
司は激昂する。それに男は、やはり微笑を湛えたままだった。
「・・・・・・それは申し出を聞けない、ということかな?」
「貴様如き若造がそのような口を聞けると思うのか?」
司には勝算があった。この屋敷には手練が十数人は控えている。功刀の一族の精鋭達が集っているのだ。こんな若造如き、数秒で屠れるはずであった。
「―――功刀の刃は確かに鋭い。尊き、貴重な刃だ。だが―――」
男は賞賛を口にするが、目は蔑むように司を見据えていた。
「―――違うな。刃は真なる刃ではない。断ち切ることが出来ない人間ばかりだ。その点では―――」
男が一歩踏み出す。既に笑みは消えていた。確かな、不明瞭でありながら嫌に鮮明な威圧を感じる。
「あの男と少女は断ち切ることが出来たんだろうね? 彼らは真なる刃を手にしたわけだ」
「―――ふん。頭の弱いガキが紛れ込んだだけか」
司はその威圧を断ち切ろうとする。だが、無理だ。断ち切ることは出来ない。それに司は気付かない。
「下らない慣習。下らない倫理。下らないものばかりに囲まれた檻。断ち切ったのはそれらの柵だよ」
「青臭い正義を語るか?」
「事実さ。そしてそれはどうでもいい。僕にとってはね」
―――威圧は敵意に変わる。肌を突刺すようなそれ。
「―――僕の仔猫が彼女の幸福を願った。故に、君に認めさせてやる」
―――無数の気配。それらに意思は無いはずだった。それなのに、一つ一つが司に敵意を向けている。
男の体から迸る何かが、空間を支配し尽くしていく。そんな、錯覚。
「あそこで寝てるよ。君の希望は」
―――その言葉が虚言でないことは容易に分かった。何故なら見えているからだ。
地面に倒れ伏す、精鋭であるはずだった男達が。
もう、一人だ。もう一人しかいない。己の刃を、司は必死に握り締める。
「―――邪魔だね。その刃物。話し合いには邪魔で仕方ない」
―――すぱり、と。己が数十年を掛けて磨き上げた力が。あっさりと。
自分が握り締めていたその刀は、妖刀と呼ぶに相応しい代物であるはずだった。堅固な鋼さえも切り裂くことを可能にした、最強の刃であるはずだった。
それが、ただの―――
「・・・・・・風? そうか! お前、風羽の・・・・・・!」
「気付いた時には既に遅い。よく使われる表現だが、実に的を射ていると思うよ。大抵、悪役が真実に気付いた時には既に遅いことばかりだしね」
―――腹部に数発。風の塊か何かが、自分を射抜いた。
「目覚めたなら覚えておくといい。僕の忠言を聞かぬ先に、一体どんな未来があるかをね」
司の、薄れゆく視界の先。
―――男が浮かべていたのは残虐すぎる笑みで。何らかの使命感に陶酔しているようでもあった。
「君達は呪いに囚われすぎた。暗い、昏い、『呪』にね」
「やれやれ・・・・・・こんな下らない茶番に彼が死に掛けたという事実が腹立たしくてたまらないね」
男―――風羽伊吹は溜め息を溢す。その背後には地面に倒れ伏す幾人もの男達。
誰も殺してはいない。それが今現在における、伊吹の矜持の一つであった。
「僕が悪役みたいだな・・・・・・まあ、敢えて否定はしないが」
ここに来るまでに電車を何本乗り継いだか。既に夜明けを迎えてしまった空を、伊吹は仰ぐ。
「もう、みんな解決したころだろうね? 僕の可愛い、可愛い仔猫は」
―――そこは星南学園の1−Aの教室。
「・・・・・・平和だなぁ」
星川涼月のそんなぼやきは、あっという間に教室の喧騒に掻き消される。
「―――鈴? どうかしたか?」
「ありゃ? 姫様大丈夫?」
―――友人二人が僕を見る。やはり、いつも通りの光景だ。
「大丈夫だよ。ただ、平穏という名の生活。その有り難味を感じているだけさ」
「お前いつの間にそんな悟りを」
「バックに仏像が見えるよ? 姫様」
―――そう。いつも通り。あれだけの事件があったのに。
第二の切り裂きジャックの再来とまで噂された今回の事件。それは無事に終わりを迎えた。
―――どうやらあの変態が何か仕出かしたらしい。
棗と義隆は結局一族から切り離されたようだった。幾らかの資金提供があった辺り、やはりあの変態の影響力は凄いのだろう。義隆はどうやら棗の住居の近隣に家を借りるらしい。
『―――少し溝があったけどさ。これから埋めていく予定だよ』
これから兄妹の時間を作っていくのだろう。恐らく、それは何より尊い時間に違いない。鈴月は思う。自分も今度は妹に何かしてやろうかな、と。
―――謎は残る。彼女に『兄が狂うぞ』という内容の電話、それを掛けた人物。
その男は王を騙り、獅子を名乗ったという。実名かどうかは分からない。あの変態なら何か分かるかもしれない、と鈴月は彼に尋ねたものの、「君は知るべきじゃない」の一点張りだった。
―――何かが動いている。そう、何か。まるで暗がりで蠢く影のような。
そう。そして。今一番の懸念事項。
―――あの茨は、一体何だったのか?
あの後、どれだけ念じても茨は出現しなかった。もしかすると何か特別な発動条件があるのかもしれないと千歳と栞は言っていたのだが。
「考えても仕方ないか・・・・・・」
「え?」
「何かホントに今日の姫様は悟りを開いてるねぇ」
「うっさい」
不意に視界に見慣れた姿が浮かぶ。
―――黒い髪。琥珀色の瞳。最近よく笑うようになった端整な顔。
「まぁ・・・・・・いいよな、これで」
とりあえず、今回はこれで大丈夫。歯車は元通りではなく、少し良い方に噛み合ったというだけ。
彼女に手を振りながら鈴月は視線を窓にやる。
―――窓の奥には青い空。そこに浮かぶ白い雲。ふわふわとカタチを変えて漂うそこには―――
「鈴月?」
彼女の呼び声で振り返る。やはり、笑顔が似合う気がした。
「何でも無いよ。それよりお兄さんとの調子はどう?」
「―――っと、ここで聞くのか・・・・・・? それにどうって言われても―――」
少しだけ声を潜めて、照れくさそうに話す彼女。それでも、やはり嬉しそうに。
―――疑念は晴れない。そんな僕を笑うかのように雲が動く―――
「鈴月! 自分から聞いたんだからちゃんと聞けよっ!」
「はいはい。分かりましたよ―――」
次回からは少しずつ、この作品のテーマが見えてきます。
キーワードは、『呪』。




