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頭上、遥か彼方の空。
澄み渡る青のグラデーションが地平から深みのあるコバルトへと滑らかに移ろい、まるで巨大な宝石の内側を覗き込むような幻想的な輝きを放っていた。
陽光が雲の隙間から差し込み、街の埃を金色に染め上げる中、そこに白銀のオーロラがゆるやかに揺れ、淡い光のヴェールが風に舞うように淡雪のごとき粒子を散らし、時折紫やエメラルドの閃光を走らせる。
その壮大な天幕を背景に、漆黒のカラスが一羽、孤高に舞っていた。羽根の表面は黒曜石のように艶やかで、その小さな影は、まるでこの都市において己の存在を証明するかのように力強く羽ばたき、錆びた鉄骨がむき出しになった高層ビル群――ガラスの断片がキラキラと散らばり、風に揺れる看板の"ネオン"が昼間でもぼんやりと残光を放つスラムの街――を縫うように飛び越えていく。
かぁ、とカラスの鋭い鳴き声が遠く響き、風が運ぶ埃の粒子がその羽を優しく撫でる。
カラスが自身の影を長く引きずりながら、一直線に向かうのは白亜の巨塔――全長およそ10万キロメートルにも及ぶ、都市の中枢を貫く構造体だ。塔の表面は雪のように純白で、微かな振動音が地響きのように伝わり、そこから落ちる影は、まるで都市そのものの"呪い"を覆い隠すかのように濃く、広く、街の地表を冷たく染めていた。
塔の基部では、NEØNの青い粒子が微かに漏れ出し、地面を幻想的に照らし、住民たちの日常を無情に支配する存在感を放っていた。
「……あ、思いついた!」
昼下がり。
陽光が斜めに差し込むスラム街『マルクト』のストリートには、人影もなく、風だけが空き缶を転がし、カラカラと乾いた音を立てて埃を巻き上げる。
ひび割れたアスファルトはひんやりと冷たく、遠くの廃墟ビルから剥がれた風俗店の広告チラシ――胸元を手で隠し妖艶な笑みを浮かべる全裸の女性が映った扇情的なそれは風に舞い、地面に張り付いてはまた剥がれる。
少女ニコは、そんなざらついた地面に寝転がった姿勢から、突然の閃きに体を電撃のように震わせ、勢いよく跳ね起きる。
毛先を鮮やかな水色に染めたピンクのツインテールが空気を切り裂くように激しく翻り、LED表示で猫の顔文字がピカピカと点滅するベースボールキャップがずれたのを、慌てて被り直す。
キャップの下から覗く紅色の瞳は興奮で輝き、頰に付いた埃もエネルギッシュな少女らしさを強調していた。
心の中で、ニコは閃いたイメージを反芻する――黒いカラスが青い空を駆け、自由を掴む姿。それが、彼女自身の渇望を象徴しているようで、胸が熱くなった。
「あら〜やっとやる気になったの? このまま昼寝でも続けて、仕事が終わらないままご飯をタカられると思ったわよ。子猫ちゃん?」
ニコがマゼンタカラーのオフショルダーにしたジャケットの土埃を手で叩いて落としていると、鮮やかなバラ色の髪が炎のように揺れ、体のラインを誇示するようなユニセックスのファッション――タイトなパンツとルーズなジャケットのコントラストが中性的な魅力を放つ長身の人物、スカーレットが、愛猫であるメスの三毛猫・ゴールデンタマ子を抱きながら現れた。
肉体的には男性でありながら、母性的な眼差しや一挙一投足すべてどこか中性的な雰囲気を纏い、柔らかな笑みがスラムの荒涼とした空気に不思議な温かみを添えていた。
「スカーレットさんひど〜い! アタシだってサボってる訳じゃなくてインスピレーション待ってたんだからね?」
ニコの声には、悔しさと弁解の色が滲み、ツインテールが不満げに揺れる。彼女はいつもこうだ――自由奔放だが、芸術への情熱は本物で、それが遅れを生む原因でもある。
「ニコ様に前金込みで依頼を出してから、すでに2週間が経過しております。そろそろ本気で『KARAS』に泣きつこうかと考えていたところでしたが。――ええ、ペナルティの恐怖を味わうのも刺激的かと。タマ子もそう思いますよね?」
「にゃ〜」
「ちょちょっ! それはマジで勘弁! ペナルティ入ると美味しい案件が来にくくなるからさ、マジ死活問題だからレトリー!」
スカーレットの隣に控える犬耳メイド少女・レトリーがスカーレットの抱くタマ子を撫でながらにこやかに告げる言葉には、遊び心と本気の警告が同居し、ニコの背筋を冷たくさせる。
しかし犬耳と尻尾はふわふわと風に揺れ、メイド服のフリルが軽く舞い、マキナらしい機械的な精密さと人間らしい温かみが混在した笑顔は、スラムの中ではとても鮮やかに映る。
「そんじゃ始めるとしますか〜! ”芸術は爆発”ってね」
『にゃ~ん』
ニコは、近くに停めていた、かわいらしく返事する相棒とも呼ぶべきバイク『ソニック』の荷台から、スプレー缶を数本ガチャガチャと取り出す。バイクのボディはキャンディピンクに輝き、エンジンの残熱が金属の匂いを放ち、タイヤの溝に詰まった埃が物語るように、ニコにとっての足となる宝だ。
依頼者スカーレットが営むスナック『ローズ』の周辺――コンクリートの壁面は灰色にくすみ、ひび割れが蜘蛛の巣のように走り、剥がれたペンキの欠片が風に舞う――に向かって、ニコは迷いなく描き始めた。スプレー缶を振るシュシュという音が静寂を切り裂き、缶から噴き出す塗料の化学的な匂いが空気に広がる。色彩が壁に踊り、ピンクの渦や水色の線が絡み合い、都市の灰色に鮮烈な"感情"を刻みつける。
ニコの動きは流れるように滑らかで、息づかいさえもリズムを刻み、興奮と集中が混じり合った表情が、彼女の内なる情熱を露わにする。手際の良さに、スカーレットは目を細め、レトリーはポカンと開けた口を可愛らしく手で隠し、思わず息を呑む。
「はい完成〜! どうよこれ? なかなかイケてると思わない?」
ニコがドヤ顔で披露するグラフィティアートは一匹のカラスを主役としたものだ。荒々しくも繊細なタッチで描かれた黒いカラスが青い空を羽ばたくという、シンプルなモチーフながら今にも動きそうなほどの躍動感があり、羽根の1枚1枚が風を切り、瞳にオーロラの光を宿して見るものの目を惹きつける。ニコの心には、達成感と誇りが溢れ、報酬への期待が胸を膨らませる。
「あらまぁ〜……超大作じゃないの。このカラス、本当に空を駆けてるわ。まさにアタシたち『カラスたちの群れ』にピッタリな作品ね」
スカーレットの声に、感嘆と満足が混じる。
「素敵な作品ですね。レトリーは感激いたしました。色使いが鮮やかで、心がわくわくします」
レトリーの言葉は純粋で、機械的な瞳に温かな光が宿る。
「でしょ〜? もっとアタシを褒めてくれたまえ〜! チップも弾んでくれるともっと嬉しいな~!」
ニコの声は弾み、期待で頰が緩む。
「ふふっ、やっぱりプロに頼んで正解だったわ。それじゃこれが報酬よニコ」
スカーレットがデバイスを操作し、ホログラムのような光でクレドを送金すると、空気に微かな電子音が響く。ニコは自分のデバイスを取り出し、入金されたクレドの額を確認する。画面の青い光が彼女の顔を照らし、
「まいど〜……ってあれ??? なんか少なくない? これ、事前の額よりガッツリ減ってるじゃん!」
しかし事前に提示された額より大幅に少なく、ニコは首を傾げ、ツインテールが不満げに揺れる。
「今までのツケ分、いくらか引かせてもらったわ。ちゃんと『Crowd』にも話は通してるわよ。溜まりに溜まった借金、忘れてたわけじゃないでしょう?」
「利子無しどころか今までの積もりに積もったツケは特別に3割引ですニコ様。というわけで今後もスナック『ローズ』を、ご愛顧のほどよろしくお願いいたします。レトリーもマスターもお待ちしております」
ニコにとってそれは無慈悲な回答だった。もちろん自業自得だが。
「そういうワケ。それじゃご苦労さま~♪」
「にゃ〜ん」
スカーレットはタマ子の前脚を優しく持って手を振る動作を取らせながらバラ色の髪をなびかせてレトリーと共に店の出入り口に向かう。
「そんな〜! アタシの壮大なる『スーパーアルティメットスペシャル・ソニック』の夢が遠のく〜! これじゃカスタムパーツ買えないよ〜!」
力なく項垂れるニコに対して、スカーレットとレトリーは振り返らず、「っていうか"マスター"はおよしって何度も言ってるじゃないの~? "ママ"か"お姉さま"とお呼び!」「それはマスターの命令であっても従うことはできません」「んきーっ! んもうっ強情なんだから!」などと言い合いながら閉じられていくドアの隙間に消えていく。スラムの風がニコのツインテールを慰めるように撫で、それがむしろ虚しさを加速させる。
「ん? メール?」
するとデバイスから「にゃーん」という猫のかわいらしい鳴き声の通知音が鳴り、ホログラムディスプレイがピンクの光で展開する。
「ええと、なになに……? 『拝啓麗しの運び屋ニコ様。あなたの腕を見込んで依頼いたします』――へぇ、なんかフォーマルじゃん。続きは……」
ニコはしばらくメッセージを読み進め、指でスクロールするたびに興奮が高まり、しばらくするとわなわなと歓喜に肩を震わせた。
「やった! 新しい依頼! しかも報酬めちゃウマ!? これで夢に一歩前進! スーパーアルティメットスペシャル、近づいたよ〜!」
ニコはルンルンと鼻歌でも歌い出しそうな軽快な足取りで、傍らに停めていた『スーパーアルティメットスペシャル』ではないソニックに跨った。シートが熱を帯び、エンジンの振動が体に伝わる。
「よーし行こうソニック! 楽しい楽しい仕事の時間だよ! アクセル全開でゴー!」
『にゃーん!』
ニコの言葉に反応してフロントのLEDの猫の顔文字が笑顔になるとともに可愛らしい鳴き声が発せられる。
唸るエンジン音はさながら歓喜の雄たけびのようだった。原動力たる『NEØN』の煌めきがスラムに広がり、ピンクのバイクが埃を巻き上げて疾走し、陽光に輝くツインテールが風を切り裂く。
こうして新たに『Crow』が1羽飛び立った。




