第三章 聞けば嘲笑ってしまうようなライトノベル 003
003
おっぱいを揉んだ時の正しいオノマトペとは一体何だろう。
多くは「ムニュ」とか「もみもみ」とか「ふにっ」とか、他に思い付くところだと「はしっ」とか「ぽよん」とか「たぷん」とか「ムニィ」とか、まあそんなところが妥当だろうか。小説の中だとあまり擬音語で表されている描写は少なく、例えば「手に柔らかな感触が伝わってくる」とか「小振りなメロンくらいの大きさの胸を鷲掴みにしてしまった」とか「指先が肌に沈んでいくのを感じる」みたいな比喩表現が多く、擬音語と言うのは漫画で主に使われるものだろう。
では戻って、おっぱいを揉んだ際の正しいオノマトペとは何なのだろうか。その答えを見つけるために我々はオノマトペの語源であるフランスへと飛び立――ったりはしていない。オノマトペを忌み嫌った森鴎外はドイツに留学していたそうだが、生憎小心者の俺にはフランスにソロで行けるような度胸はない。そもそもフランスではおっぱいを揉んだ時、どんな効果音が出るのだろうか。「猫」の漢字の中に「苗」と入っているのは中国では猫の鳴き声が「ミャオ」と聞こえるからであるように、まさかフランスでもおっぱいを揉んだ時に「モミィ」と現地の人に聞こえてはいないだろう。推測の域を出ないが、「モミュウ」とか「モーメ」とか、きっとそんなところだろう。そもそもその擬音語を使う漫画家や作家たちは、全員が全員おっぱいを揉んだことがあるというのだろうか。揉んだことがある人ならばその時感じた音で表現するのが正解だろうが、揉んだことがない可哀想な人たちは、やはり彼らも推測の上での表現しかできないはずだ。先人の真似をするも然り、自分の尻で代用するも然り、時速百キロで走る車の窓から腕を出して、風を切る感触に想像するも然り――しかし俺は、その答えを今日見つけることができた。なのでその偉大なる結果をここに記そうと思う。
ぽむりん。
そんな感触が掌全体に伝わってきたところで意識が覚め、目が覚める。
目を、醒ます。
「おや?」
と声を発したのは、俺ではない。寝ぼけ眼に映る童顔、やたらと低い前身、それにそぐわない豊満な胸、見た目の需要を理解しているとしか言いようがないツインテール――そう、夜叉神羅刹。
夜叉ちゃんが、目の前にいた。
馬乗りになっていた。
「おはよう、ろっか君」
「通報しなきゃ」
空いた左手でスマホを取る素振りを見せると、「おいおいひどいじゃないか」と憚られた。
「第一、この状況で通報したら捕まるのは君だろう」
「いいえ、未成年の男子宅に不法侵入し剰えセクハラを強要したあなたが捕まるべきです」
「不法侵入とは、勘違いも甚だしい。私はちゃあんと玄関から入ってきたさ」
「どこから入ったかじゃなくて、無断で入ったことを今問題に揚げているんですよ。レスバに弱いオタクみたいに論点のすり替えをしない」
「ほほう、言うじゃないか」
夜叉ちゃんは胸から俺の腕を離し、ひょいとベッドから降りる――不可抗力とは言え胸を触ってしまったことを有耶無耶にしている俺の方がよっぽど通報されて然るべきなのだが、流石は大人と言ったところか、その胸のように器も大きい夜叉ちゃんは許してくれたらしい。
「でも、来る前にちゃんと連絡したんだよ? 返信がないから寝てるんだろうとは思ったけど」
「え、そうなんですか?」
それは余計な攻めをしてしまったと思い、改めてスマホを見る――だが、バイトの休みを連絡したのが最後のやり取りで、夜叉ちゃんからの返信は来ていなかった。
「ちょっと、返信来てないじゃないですか。嘘つかないでくださいよ」
「嘘じゃないよ。ちゃんと送ったって」
「でもLINEに履歴ないですよ? まさかツイッターのDMですか?」
「いや、ディスコード」
「やってねえわ!」
インストールすらしてねえわ!
便利だって噂は聞いてたけどグループを作る相手がいないから無視したわ!
「なんだよ、折角こんなロリ可愛い彼女がお見舞いに来てやったんだから、もう少し感謝してよ」
「いつから彼女になったんですか。ディスコード使いこなしてるロリとか見てるだけでお腹いっぱいですよ」
「田舎おっぱい?」
「はっはっはっ、元気そうだなあこの合法ロリは」
具合が悪いはずなのに、夜叉ちゃんと会話していると自然に生きのいいツッコミが出てくる……眠る前の気怠さが僅かに改善されているような気さえしたが、それを言うと調子に乗りそうなので絶対に言いはしない。
「ところで、今何時ですか?」
「そうねだいたいね」
「伝わらないってば」
「五時だよ。十七時」
「はあ……うそ、マジ?」
「マジマジ、大マジさ。って言うか今、スマホ見てたじゃん」
言われてから思い出し、スマホの右上に目をやる……うわ、マジで夕方の五時だ。ジャストだった。
九時間ぐらい寝てたってことか?
公務員の就業時間を丸々寝て過ごしてしまった……別にずる休みをしたわけではないので堂々としていればいいのだが、なんとなく後ろめたい気持ちがあることは否めないな……。
「……それで、単身丸腰で男の家に乗り込んで、一体何の用なんですか? その様子だと、店も閉めてきてるみたいですけど」
「なんの用とはご無体だなあ。正真正銘、ただのお見舞いだよ。ほら」
夜叉ちゃんが指さした先には、ローテーブルの上に無造作に置かれているレジ袋がいくつかあり、よく見ると中には、飲料や果物、野菜なんかが詰められていた。
「大切な後輩が――いや、大好きな人が風邪を引いたって言うんだ。お見舞いの一つや二つ、大人ならするのが当然ってもんだろう? 君の看病の方が、仕事よりよっぽど重要だよ」
これでも結構心配してるんだぜ? と夜叉ちゃんはヘラヘラ笑ってみせる。
「…………」
「ん? なんだよまじまじと見つめて? さては惚れたかい?」
「はい」
「わお」
本当、見た目はロリだとか中身は成人だとかその癖ロリコンだとか、その辺の面倒くさい事実を取っ払ってしまえば、マジでただの可愛い人なんだよな。しっかりするとこではしっかりしてるし、趣味も合うし、思考も近いし、パートナーとしてはこれ以上ないって感じがする。
超可愛い幼女だ。
何を俺は、わざわざ同級生の中から友達を、延いては彼女を作ろうとしていたんだ。こんな素晴らしい相手が一人いれば他に何もいらない、それ以上を望むのは贅沢が過ぎるってもんだ。
「夜叉ちゃん。僕と付き合ってください」
「わお!?」
生まれて初めて女性に告白をした。
意外にも夜叉ちゃんは面食らったように驚いて見せる――が、やはりそこは大人なのか、決して取り乱したりするような真似はなく、
「うん、気持ちは嬉しいけれど、その言葉は風邪が治ったら改めて聞くよ。病人の弱みに付け込んでいる感が否めないからね」
と、先送りにするのだった。
「弱みに付け込むだなんて、そんな……」
「それに」
と、夜叉ちゃんは入口の方へ眼を向ける。
「私なんかにブラを売っている場合じゃあ、なさそうだしね」
「は? ブラ?」
なんでブラ?
胸を触ったことを、ひょっとして根に持っているのか?
「ああ、間違えた。油を売っている場合じゃないって言いたかったんだ」
「そんな都合の言い間違え方があるか!」
思春期か!
頭の中が下ネタでいっぱいの中学生か!
「今は私なんかより――よっぽど話さなきゃいけない相手がいるだろう?」
つられて俺も視線を送る。
果たして、そいつは――濫読詩織は、扉の陰から姿を現した。
「ら、濫読……」
「……いつまでほったらかしにしておくんですか」
腕を組んだまま、実に恨めしそうな声を上げて彼女は部屋へと入ってくる。表情や様子を見る限り、昨日ほどの怒りは垣間見えなかった――ある意味、いつも通りのぶっきらぼうっぷりとでも言っておくべきか。
「ごめんごめん、ろっか君と話し始めるとどうしても長くなっちゃうね」
掌を立てて平謝りする夜叉ちゃんを尻目に、俺は濫読に問うた。
「まさか……濫読もお見舞いに?」
「はあ? 馬鹿じゃないの? 思い上がらないでくれる?」
一蹴された。
なんなら一周回って一笑されたような清々しささえ覚えてしまうほどの切れ味で一刀両断されてしまった。
「そう落ち込むなよろっか君。一応弁明しておくと、先に連絡したのは私なんだから」
「え? そうなんですか?」
「まあね」
私に対してもあんな感じだったけどね――と夜叉ちゃんは付け加えた。
「でも、濫読ってディスコードやってるんですか?」
「何言ってんの。普通にLINEに決まってるじゃん」
「お前、今普通って言ったか? 普通でないことを俺にした自覚はあるんだな?」
うっかりぶん殴りそうになる右手を抑え、怒りを散らすために濫読の方へと向き直る。
「……じゃあ、どうして濫読はうちに?」
「ん」
平仮名一文字で完結してしまうような短い返事と共に濫読は手を振りかざし、数枚のプリントが部屋の床に放り捨てられた。
「席が隣だからって理由で、これを届けるのを押し付けられただけよ。ラノベとか漫画でよく見るけど、休みの人間の家までわざわざ配達する風習って、いざその立場になるとこうもしんどいのね――で、たまたま夜叉神さんからLINEが来てたから、あんたの家の場所を聞いたってわけ」
「はあ……」
起き上がれるくらいまでに体力は回復していたので、床に散らばったプリントを回収していく――が、その内容はクラス通信と保健からの連絡、生徒会からのお願いくらいのもので、差し当たってクラスメイトをわざわざ顎で使ってまで急遽伝達しなければいけないような内容は見当たらなかった。
「じゃ、あたし帰るから」
用が済んだのだろう、それだけ言って濫読は部屋を後にしようとする――が、すんでのところで夜叉ちゃんが濫読のスカートを掴んで引き留めた。
「ひゃっ!? な、何するんですか!」
「おおっと、ごめんごめん」
無理に引っ張ったせいで当然のように下着まで丸見えになってしまったのだが、それにホイホイと興奮するほどの体力は残っていなかった。
ああ、やっぱパンツは白だよなあ、と達観することしかできなかった。
「いやさしーちゃん。折角こうしてお見舞いに来たんだ、何もそんな急いで帰ることないだろう――ほら、私もスーパーで随分買い込んじゃったし、とてもじゃないけど病人と二人で食べきれる量じゃないからさ。ろっか君がこんなんだから、立派なものは作れないけれど、君も食べていってくれないかな?」
「いや、でも……」
夜叉ちゃんの無垢とも言えるお願いに、濫読がたじろいでみせる。そしてそのまま、俺の方へと視線を送ってきた――てっきり家主の許可を待っているのかと思い、別に構わないという旨を伝えようとしたが、すぐさま濫読は視線を夜叉ちゃんの方へと戻し、
「……わかりました。そういうことでしたら、頂いていきます」
俺が何かを言う前に、夜叉ちゃんの要望に承諾したのだった。
俺がいない者のように話が進んでいる気がする……。
こんなんじゃ小説の主人公とか絶対になれないぞ。いや、なれなかったけどさ。
「そうかいそうかい株主総会。それは嬉しい返事だ。じゃあろっか君、台所借りるね」
「あ、はい……」
思わず二つ返事で受諾してしまった――そのまま夜叉ちゃんはレジ袋をひっさげて部屋を後にする。
その際、俺の方へと寄ってきて、
「後は上手くやれよ」
小さく耳打ちをした後、「んじゃ、あとは若い子たちでごゆっくり~」と適当に言い残して去って行ったのだった。
「…………」
「…………」
残された若い子たちの気持ち考えたことあんのかあいつ。
状況を知った上でこの場面を作り出したとするならば、なんとも憎たらしいことしかしやがらない。
「……なんか悪いな。巻きこんじまって」
「別に」
……………………。
気っっっっまず!
気を使って声をかけた感じがもろにバレてしまっていることが明白なくらいにはピリピリとした空気が部屋中に充満していらっしゃる……いや、でも考えてみればその原因は火を見るより明らかか。それは帰ろうとしていたところを引き留めたくせに姿をくらます職場の先輩に対しての怒りもあるのかも知らんが――大半は、やはり俺か。
『二人きりの空間を作らされた』ことよりは、『その空間内にいるのが俺』という点の方が苛立ちを覚えているのだろう。
当然か。
ならばせめて、その大部分を占めるストレスを少しでも軽減させることは、俺がするべき務めだろう。
「……なあ、濫読」
静寂を裂くように、意を決した俺は濫読に声をかける――その時であった。
「本、多いのね」
声をかけられた――当然至極、その相手は濫読である。
うじうじしている間に先手を取られてしまった――だがそれもそのはず、昨日あんな別れ方をしたというのに、まさか濫読の方からそんな自然に声をかけられるなど夢にも思わなかった次第である。
「あ、ああ……そりゃあまあな」
俺も俺で、もう少し話の広げられるような返答ができればいいのだが、どうにも昔からアドリブに弱いせいで、「おう」とか「ああ」とかで会話を終わらす癖が付いてしまっているんだよな。
濫読は無表情のまま俺の部屋を傍観していた――そのままぐるぐるとに、三週ほど見まわしていたところで、
「……あたしの本、ないの?」
と尋ねてきた。
「ああ……それなら、一階にあるよ。妹が昨日まで読んでて」
「そう……」
それに対しても、やはり濫読の返事は短かった。成る程、自分の小説を探していたのか……まあ確かに、俺も濫読の立場だったら気になってしまうことは間違いないだろう。「実は話を合わせるために読んでるって嘘を吐いていたのでは?」とか思われていたのかもしれない。
思われても仕方がないか……と嘆きかけたその時。
「……昨日は、悪かったわね」
驚くことに、濫読から謝罪の言葉が飛んできたのだった。
「いくらなんでも、やりすぎたと思っているわ。家であんたに言ったこともそうだし、その後バイト先でのこともそう……」
おずおずとそう言った濫読は、こちらの方へと向き直る。
じっと、俺の目を見る。
「――ごめんなさい」
頭こそ下げはしなかったが――真摯な謝罪であることに、間違いはなさそうだった。
「い、いや」
話しかけることすらいざ知らず、謝罪まで先に越されてしまい、余りにも男が廃る――ここで謝らなければ、いつ謝るのだ。俺は俺で濫読に対し真っ直ぐに姿勢を正し、それこそ正座に足を組みなおして、
「俺の方こそ悪かった。お前の努力も知らないで、天才とか勝手に決めつけて、頑張りを踏み躙るような真似をして……本当にすまなかった」
頭を下げての謝罪など、一体いつ以来だろうか――なまじいい子ちゃんで育ってきた俺は両親に特段どやされるようなこともなかったので、そう考えると初めてのことなのかもしれない。
同級生に初めてを捧げてしまった――いや、ふざけるような場面じゃないだろ。
「……そうね」
俺の謝罪を受けて、それでも尚濫読の返事は短いものだった。多分、そう言う反応が彼女にとってのデフォルトとしてあるのだろう――だが、それを加味しても、濫読の反応は想像とは少し違うものだった。いや、俺如きの想像通りに世界が進むとは到底思ってもいないのだが、そういう意味ではなく、なんというか、どことなく納得していないような、そんな気がしたのだ。
勘違いかもしれないが――勘違いをしているような、そんな気がした。
なにかを見落としているのか?
「あんた、ラノベは好き?」
と。
それは、余りにも唐突な質問で―― 一瞬、何を言われたのかわからなくなってしまった。
「え? ……まあ、そりゃあな」
「そ」
ここでも短く相槌を打つ――だけかと思いきや、濫読はそのままゆっくりと俺の方へ歩み寄ってきて、どさっと、俺の横に腰掛けた。
「あたしも好きよ、ラノベ」
続けざまに口を開いたかと思いきや、そんなことを濫読は言った。風邪がうつるからあんまり近くに来ない方がいいとか、そんなことを言うべきか悩んでいたところだったのだが、
「あたしね、昔虐められてたのよ」
「はあ……ええっ!?」
それどころではない発言が聞こえてきた。
なんだって?
虐められてた?
虐め――苛めだって?
「そう驚くことないでしょ。別に珍しいものでもないわ、今のご時世」
「いや、それを言ったら本末転倒だろ……」
受けたという本人がそう言ってしまえばそれまでなのかもしれないが、そんな簡単なものではないだろう、多分。
何があっても許されてはいけないことのはずだ。
「原因だって、あたしの方にあったんだからしょうがないでしょ。それに、騒ぐほど激しいものでもなかったわよ。陰口とか無視とか、その程度が続いただけ」
大見え切ってそう言い張る濫読を――格好いいとは、お世辞にも思えなかった。
それは、違う。
その程度、ではない――暴力を受けていないから軽いとか、そうではない。そもそも虐めの内容に、軽いも重いもないのだ。
重い思いは、重くのしかかる。
虐めを受けたと認識した時点で、それはどんなに軽くても重罪だ。
「……なんで、そんなことを」
「オタクだったからよ。言ったでしょ? 原因はあたしにあるって」
「オタクだからって……そんなことで」
「そ」
思わず声を荒げそうになってしまったところを、お決まりの短い返事で抑制される。
「そんなことでも、虐めは起こる物なのよ――しかも、ただオタクだったからってわけじゃないわ」
「……そうなのか?」
「まあね」
それこそ今の時代、オタクと呼ばれる人種も多いでしょ? と濫読は軽く言ってのける。
軽く言って見せる――その態度が話の重さと対照的で、むしゃくしゃしてしまう。
「あたし、女のオタクだけど、女キャラが好きって昨日言ったじゃない? 美少女キャラとか萌えキャラとか、読む漫画もラノベも男性向けばっかりだし――それが周りから見たら変だったんでしょ。『女のくせに女キャラが好き』とか言われ出して。レズとか言われるくらいなら別に構わないけど、『男子に媚び売りたいから言ってるだけのキャラ作り』って声が聞こえた時は、流石にまいっちゃったわね」
女は男キャラが好きなのはあいつらの『普通』で、そうじゃないあたしは『異常』だったってことね――まるで遠い過去の話でもするかのように、濫読は淡々と語り始める。
「そのままずるずると虐めは続いて、あたしは特に反論も反抗もしないで、相談も演談もしないで――結局、あたしは不登校になったわ」
「ふ、不登校って」
他人事のように語る濫読に対し、俺は馬鹿みたいに言葉を反芻することしかできなかった。
「そりゃ行きたくもなくなるでしょ。あたしはあたしの趣味を認めてもらえなかったんだから――あたしはあたしの存在を、許してもらえなかったんだから」
あまりにも唐突に聞かされた、濫読の過去。
趣味を認めてもらえなかった過去。
存在を許してもらえなかった過去。
好きな物を否定された過去――その辛さは、重く、鈍く、痛く響き渡るほど俺にもわかる物だった。
「学校に行かなくなって、親との会話もなくなって、世界から存在を消された気分になって――いい機会だったから、それを逆に堪能させてもらうことにしたわ。溜まりに溜まってた本を一気に読んで、気になったラノベも片っ端から買って読んで、それでも時間を持て余したから、ネットに投稿されてる小説を読み漁って――そこで、あたしは出会ったわ」
それまで俯き加減で話していた濫読は、そこで上向きに顔を上げる。
「出会えたって……何に?」
「生き甲斐」
俺の問いに、濫読は即答した。
即決即断、即効の潔さだった。
「バイブルと言っても良いわ、それは。今まで読んだどんな漫画よりも、どんな小説よりも面白くて、楽しくて、笑えて、共感できて、萌えて、燃えて――燃えるような熱さを感じた作品だったわ。登場キャラクターが性癖にぶっ刺さるって言うの? 言ってしまえばよくある男性向けハーレム作品なんだけど、そのヒロインが、主人公のことも好きだけど主人公に寄ってくる美少女のことも大好きで、だったらみんなで相思相愛になれるハーレムを作りましょうとか言って――言ってることもやってることも無茶苦茶だったし、現実じゃ絶対に考えられない。本当にそんな奴がいたら、あたし以上に嫌われているでしょうね」
でもね――濫読は続ける。
楽しそうに、続ける。
「それでいいのよ、ライトノベルなんていう物は。現実とラノベは違うものだもの。現実で爪弾きにされたはぐれ者が、フィクションの中でまで疎まれたら、それこそ生きる意味を見出せないわ」
濫読の顔には、いつの間にか笑顔が浮かんでいるのが見えた。
好きな物を、楽しそうに話す彼女。
辛い過去の話だったはずなのに――それすらも、笑顔に変えられるほどの作品。
「それを読んで、自分が間違っていることに気付いたわ。誰が何を言おうと、好きな物は好きだと胸を張って言うべきなんだって。誰かがあたしの存在を認めるんじゃなくて、あたしがあたしを認めればそれでいいって――あたしは、あたしの信じたものを好きでいていいんだって、それを読んで気付かされたわ」
こんなにも読者に希望を与えられる作品があるんだって感動しちゃったわ――懐かしむように、濫読ははにかみながらもそう言った。
「それで、あたしも思ったのよ。あたしも小説が書きたい、あたしもあたしの考えた物語で、キャラで、世界で、誰かに笑ってほしい、楽しんでほしいって――それからは、早かったわ。勉強もしなきゃいけなかったから、不登校もすぐにやめたし。それに、元々妄想まがいのことはしてたから、自分で小説を書くって言うのも、全然苦にならなかったわ」
濫読はこちらの方へ振り向き、
「それが、あたしが小説を書き始めた一つ目の理由よ」
と、朗らかに言うのだった。
「…………」
唐突に語られた自分語り――だったが、別に悪い気はしなかった。濫読詩織と言う――本堂読子と言う現役女子高生作家がどうして生まれたのか、実をいうと気になっていた部分があったし、その本質は決して美談で片付けられるような話ではなかったけれど、
「見てみたいな。お前のバイブルって奴を」
「……そうね」
そう思った。
本堂読子の誕生の引き金ともなったその作品を、是非とも呼んでみたいと、そう願うのだった。
……ところで、それが濫読が小説を書き始めた一つ目の理由だと先に彼女は言ったが、一つ目ということは、あといくつか、少なくとも二つ目くらいは、他にきっかけがあるのだろうか。そう思い、尋ねようとしたところで、
「次はあんたよ」
「え?」
唐突にそう言われ、虚を衝かれたような反応を見せてしまう。
「あたしが小説家になった理由は、とりあえずここで終わり――だから、次はあんたよ」
その顔に、もう笑顔は浮かべていない。あるのはいつもの無表情――でもなく、真剣な眼差しだった。
その瞳の奥に、熱く揺らめくものが見えた気がした。
「聞かせなさい。あんたがどうして小説を書くようになったのか――そして、どうして小説を書くのを辞めたのか」
「…………」
それは想像だにしていなかった反応で、一瞬、何を言われたのかわからなくなってしまいかけた。
俺が小説苦を書き始めた理由?
俺が小説を書くのを辞めた理由?
なんだ、それは。
そんなもの――聞いて何になる?
「……話さないとダメなのか?」
「ええ。あたしも話したのに、フェアじゃないでしょ?」
「…………」
えー。
それはずるいって。
勝手に話してきたのはそっちじゃないか。
「あたしには、それを聞く権利がある――それを聞いて、あたしたちは初めて和解できると思うわ」
さりげなく濫読は、俺の右手を握ってくる。
その仕草に一々ドキドキしていられるほどの心の余裕は持ち合わせていなかった。
話すまで逃がさないという表れだろうから――。
「……つまらない話しかできないぞ」
「それでも構わないわ」
二つ返事で返す濫読を見て、折れるしかない俺であった。
わかった、俺の負けだ。
そんなにお望みなら――話してやろう。
無力で無能な、一人の少年の話を。
主人公になれなかった、哀れな男の過程と結末を。
この話は――非常にくだらない。




