第184話 跡を継ぐ者
総主教様が亡くなったと言う知らせが届いた晩、フィリスは夫の厚い胸板に顔をうずめながら、言った。
「あの狸ジジイ、死んだのね」
それは言い過ぎではないかと思ったが、彼女は続けた。
「私のことを嫌ってた」
嫌っていたのではない。ロドリックは知っていた。
「フィリス、君を終生愛してくれと言っていたよ」
フィリスの目が大きく見開かれた。
「本当だ」
不意に、ロドリックはフィリスを抱きしめた。
それなら、彼にもできる。彼の愛が彼女を守ることにつながるなら、きっとロドリックはボロボロになるまで、彼女を守るだろう。
王宮ではフリースラントが、残された高僧の中から、次代の総主教にふさわしい人物の人選に頭を悩ませていた。
「同じくらいの高位の僧は多い」
「いずれも人物、生まれ共に、甲乙つけ難うございますな」
マルギスタン公爵が勿体を付けた様子で言った。
フリースラントの大ファンだった老マルギスタン公爵は亡くなり、今のマルギスタン公爵は息子のガジエ子爵だ。
「ピオス6世のような傑出した人物と言うわけにはいくまい。あれほどまでに、高徳の方でありながら、国家運営まで目端が利くお方はいなかった」
「目端が利き、国政の状況を把握していただくのは構わぬが、教会の勢力を伸ばし国政に影響力を行使されるのはいかがなものかと」
バジエ辺境伯が、リストを指で確認しながら言った。
「王家が口出しすることを教会は嫌がられるであろうが……」
「ヌーヴィーの主教はいかがであろうか。ルストガルデ殿の縁者に当たられる」
偉大な人物がこの世を去ったが、俗世は感慨にふける間もなく次の幕を開けていた。
「よし、それでいいだろう。王家の意見として具申しよう」
フリースラントは決定した。
今日は、娘の誕生日だ。会議を早めに切り上げて、ルシアと娘にキスしよう。もちろん上の息子もかわいかった。齢より大柄でたくましい。
昔、ヴォルダ家の庭で駆け回っていたように、兄と妹は泥んこ遊びに熱中していた。振り返り、父を見てニコリと笑った娘のあまりにかわいらしい顔を見て、フリースラントは心配になった。
「大丈夫だろうか? 妹に手を出すとか」
「本当の兄妹はそんなことしません!」
おなかの大きなルシアがフリースラントを叱った。
「いや、あの……」
自分だって、本当の兄妹だと信じていたのだけれど、かわいらしすぎて、どうしても欲しくなってしまった。
彼は今は実質的に国を率いている。ルシアのおまけだ。
「賢明な王だ」
バジエ辺境伯がぽつりと言った。
同じ頃、サジシームは、主だった首長の娘たちを全部取りそろえた巨大な後宮の持ち主になっていた。ネジドは、満足げだった。後宮の巨大さは、その首長の勢力の大きさを表すものなのだ。
サジシームにとって意外だったのは、彼の忠実な部下だったはずのマシムが、いつの間にかネジドの立派な家来になっていたことである。
最初はいがみ合っていたはずだった。
ネジドの方が一枚も二枚も上手だったのだ。
だが、サジシームはそのネジドにとっても扱いやすい首長ではなかった。
彼は、多くの首長たちと違って、酒や宴会を好まず、気難しく、陰謀をめぐらす深慮の男だった。
そこまではネジドにもわかった。
ネジドはマシムから、ダリアにいた頃のサジシームの自由で生き生きとした姿を聞いた。
『サジシーム様は、いつも笑っておられました。流行の服を好まれ、女たちが夢中になっていました。でも、一番生き生きとしていたのは策略を練っている時でした』
彼は、今は、ハルラットの首長だ。賢くて忍耐強い。
逃げようと思えば逃げられたが、仕方なく受け入れた。そしてネジドは、ロンゴバルト人なら誰もが喜んで受け入れるその地位をサジシームがちっとも喜んでおらず、義務として受け入れたのだと理解するようになった。
「サジシーム様はお偉い方です。勇敢で賢い。ハルラットにとって素晴らしい首長でございます」
「ネジド、世辞などいらん。ダリアの侵攻には失敗したのだ」
ネジドは、丸い、一見無邪気そうにさえ見える目でサジシームを見ていた。ネジドの目には明らかにサジシームに対する尊敬の念と好意が見てとれた。
「お世辞などではございません。今のロンゴバルトに必要なのは圧倒的な力を持つ部族長でございましょう」
「そんなことはずっと昔からみんなが知っている」
「サジシーム様は、ダリアに攻め込むことで、ほとんどの首長を始末されました。快挙でございます」
こんなに口軽に、サジシーム以外にこの話をしたらどうなるか。他部族の連中に咎められるだろう。ネジドはサジシームを脅しているのか、それとも本気で感心しているのか。
「ハルラットのダリア侵攻に勝手に割り込み、失敗して打撃を受けたのは他部族の自業自得でございます。ハルラットの責任ではございません。一方で、サジシーム様は少なからぬ身代金を手中に収め、ダリアを大混乱に陥れ、国土を荒廃せしめた」
ニコニコと人のよさそうな微笑みを浮かべながら、ネジドはえげつない言葉をつづけた。
「敵国に打撃を与えるとは、何とすばらしい。その上、国内の反対勢力に打撃を与えた」
「ネジド、そんなことは話して歩くな」
サジシームは呆れて初めて部下に真面目に注意した。
「もちろん、マシムにも言いません。マシムにはわかっていないからでございます」
ネジドは本気だった。
「サジシーム様がロンゴバルトの王となれば……」
ロンゴバルトの王!
ロンゴバルトの王と言う概念を持つ人物が自分のほかにもいるとは思っていなかった。
ネジドのかわいらしく見える丸い目の奥には、おそらくメフメトの下では発揮できなかった実力が潜んでいるのだろう。それは暗くて強くて、目的のためには手段を選ばない。
なぜなら、この寄せ集めの、ちっともいうことを聞かないバラバラの連中を統一するためには恐怖政治を敷くこと以外方法がないからだ。逆らう者の命はない。
「いや、道程は長い」
ネジドの丸い目は計算と正確な判断を秘めていた。顔付きとは裏腹に、彼は無邪気でも人がいいわけでもないのだ。
「サジシーム様なら……」
「ロドリック、いいことがあるのよ?」
フィリスがある朝ロドリックに嬉しそうに話しかけた。
「なんなの?」
フィリスは本当に美しい。目を細めてロドリックは妻を見つめた。
二人でこうして暮らすようになって何年たつだろう。
いたずら好きで気まぐれな猫を飼っているような気分になっていた。人目がある時は毅然としてるが、二人きりだと、彼の膝に乗ってくる。甘えてキスをねだるのだ。(ロドリックからキスしようとすると、ツンツンして逃げて行ったが)
「子どもができたの」
ロドリックは衝撃で、一瞬、聞いた言葉の意味が分からなくなった。
「こ、子ども?」
「嬉しいわ」
フィリスは心底嬉しそうだった。
子どもができるとは考えていなかった。彼が結婚する気になったのは、中年を過ぎていて子どもなんか望むべくもないと信じていたからだ。
手先から血の気が引き、指が冷たくなっていった。
「フィリス、君はいくつだったの?」
「いやだわ。齢は聞かないでと言ってたじゃない」
「俺よりだいぶ年上だよね?」
「いいえ。下だと思うわ」
ずっと、年齢より若く見えると感心していた。
「母に言われたことがあるの」
フィリスは嬉しそうに言葉をつづけた。
「もし、私に子供ができるようなことがあったら、女の子なら母の名前を付けて欲しいって」
「……母上の名前は?」
「ラジェル」
「では、父の名は?」
「知らないわ。でも、男の子だったらサイラムにしてって」
「サイラム? 誰?」
「知らない。私たち親子を助けてくれた恩人の名前だと言っていたの」
「どんな人だったの?」
「私は覚えていないわ。母が言うには、私と従姉妹が住んでいた小さな家はサイラム様が世話してくれたらしいの。母はそこで亡くなって、私たちは別なところに移って、それからヴォルダ家に仕えるようになったのだけど……」
記憶を手繰り、ロドリックは思い出した。
『私は疑問を持った……なぜ、アネンサードだから殺さなくてはならないのかと』
『混血はお前を救った』
「きっときれいな子どもに違いないわ」
『死ではなく愛を残した』
総主教様は、そう言った。
『最後に花を咲かせたようなものだ……』
『フィリスを守れ』
「うれしいわ。ロドリック。私たちの子どもよ」
フィリスは隣に座り、ロドリックに寄り添った。彼の手を取ると自分の頬にあてた。口元は微笑んでいたが彼女の頬は涙でぬれていた……
愛を残したい。たとえ世界を裏切ることになっても。




