結
〇廃工場
鈍く滑車が回る音がする。天井に吊るされた金具が鈍い音をたてる。不安になるが大丈夫だろう。事前に試したとき、百キロ近くまでいけた。
外から星明かりしか見えない。うっすら長くのびる影はただ波のように緩やかに揺れている。
ここで数日干してあとは加工しよう。もう十年近く前に夜逃げしたらしいこの工場に立ち入る人間はいない。転がった機材とスプレー缶にたまに小動物の糞が落ちている。
不衛生な場所に、それはぶら下がっている。揺れるだけで動かない。あまりにあっさりしすぎて面白くない。せいぜい後ろからしめるときに、首を左右に動かしたくらいだ。まとまった髪がばらけ、それが一瞬からみつくようだった。
先生と呼んでいたその人はまだまだ若かった。特別待遇とかなにかとか言っていたけど、そんなの中津屋には関係なかった。
ただ、自分の中の蜘蛛が獲物を欲しがっているのだから、それを与えなくてはいけなかった。
事の発端は幼稚園の頃だった。
まだ、今よりずっと身体が弱かったころ、遠足なんて行事に参加するのが初めてで浮かれていたと思う。
面倒見のいい、春ちゃん、当時は先輩じゃなかったのでそう呼んでいた女の子と遊んで楽しかったのを覚えている。
だけど、森や山の中を走り回るアウトドアは自分には向いてなかった。すぐ息切れする子どもは自然と取り残される。
気が付けば春ちゃんは他の子とかくれんぼすると言っていた。
走らなくてもいい遊びは彼女なりの配慮だったのだろうが、その当時の中津屋には理解することができず、あとから混じってきた子を恨みがましく見ていた。
そんな、些細なことだった。
春ちゃんが鬼でみんなが隠れる中、一人中津屋と同じ場所に向かう子がいた。
「じゃまだからあっちいって」
ぐずでのろい中津屋にそう言った女の子は森の奥に向かっていた。距離としてはそう離れていない、でも、木々の間で隠れていて周りから死角になっている場所。
その子は、坂になっているその場所を降りようとしていた。
別にそんなつもりはなかった。ただ、そのとき、顔に虫がくっついた。思わず手で払おうとぱたぱたと動かした。それが偶然、その子の背中を押した。
バランスを崩したその子は坂道ではなく、そのまま段差がある方へと落ちた。
普段なら柵がある場所なのに、今日はそれが引き抜かれていた。木製で老朽化しており反対に危ないと思ったからだろう。
大人なら足がついた場所、だけどその子は木の枝と枝の間に首が挟まった。枝を指でつかみ必死に抜け出そうとしているのがわかる。
ここで手を伸ばしていたらよかっただろう。もしくは、あがいているその子の代わりに誰か大人を呼んで来ればよかった。
だが。
中津屋の手には小さな蜘蛛がくっついていた。その蜘蛛がはった巣だろうか、それがあがく子と重なって、まるで虫がもがいているように見えた。
蜘蛛が中津屋の身体を上る。それを振り払うことはできず、ただ呆然とその場にいた。口の中に蜘蛛が入ってきた。中津屋はそれを噛みつぶした。
自分のせいじゃない、そう言い聞かせながらその場から消えた。
それから数年、あのことはいたましい事件として終わった。子どものためと親たちは口に出すことを避けて、中津屋も変わらず暮らすことになった。ただ、春ちゃんはそのときのショックが忘れられないのか、以前と比べずいぶん大人しい子になった。
おかげでよく遊んでくれるようになった。その影響かどうか知らないが、弱かった身体はだんだん健康になっていった。
ただ、不思議なことが一つだけあった。
彼の周りに蜘蛛が現れるようになった。最初は不気味だと思っていたそれは、存外便利なものだった。
家の鍵を落として探し回っているとき、一匹の蜘蛛が糸を付けたまま中津屋の手にのってきた。その糸をたどると、鍵が見つかった。
蜘蛛は味方だった、少なくとも中津屋の――。
その後、教師や上級生の自殺の発見をした春ちゃんはどんどん暗くなっていった。心無い人から土蜘蛛だと影口を叩かれていた。地元はその伝承が残る地域だったからだろうが、なんでもつなぎ合わせるのはよくない。
そんなわけがない。その二人は自殺だった。
ただ、普段、許可がなければ持って行けない体育倉庫の鍵を教師の前に置いたのは中津屋の蜘蛛だった。上級生も同様に、偶然手に入れた鍵を使ってそこで首を吊っただけなのだ。
そして、それをまた偶然発見したのが、春ちゃんだっただけだ。
春ちゃんはもっと俯くようになり、中津屋との時間も増えた。蜘蛛を見ると怯えるとおもって見せないようにしたけど、たまになにかに反応して震えていた。
そんな彼女が可愛いと思った。中津屋は元気になった。
だけど中学生に上がる前だったろうか。彼女がお守りを持つようになった。
それを持った彼女には近づきがたく、一緒にいると気持ちが悪くなった。
蜘蛛が弱り、中津屋の身体も元のように病弱になった。小学校は卒業できたものの、中学に上がると同時に休みが続き、結局、一年休んでしまった。
その間に、春ちゃんは以前のような明るさを取り戻した。中学校は少し離れたところに通い、その学校で春ちゃんのことを知るのは中津屋くらいだったからだ。
だからだろうか、中津屋が復学したとき、春ちゃんは以前ほど親しげにしてくれなくなっていた。思春期特有のそれもあるのだろうし、自分の過去を知る中津屋を疎ましく思っていたのかもしれない。
学年も違うし、中津屋の身体は万全ではなかった。特に、春ちゃんが近くにいると、体調が悪かった。蜘蛛の調子も悪くなった。
自然と、『先輩』と呼ぶようになって距離を取るようになったが、それでも彼女が怯える姿をまた見たいと思った。彼女がすがりつくことで、自分の存在意義が確かめられるような気がした。
彼女が近くにいると蜘蛛が弱ってしまう。ならば、蜘蛛を強くすればいいのだと、奇妙な本を読みはじめた。くだらないばからしいそんなものがあるわけない、そう言われるものがあるのをそのとき、中津屋は理解していた。世界は何枚も層が重なった世界で、普通の人はその中の一枚しか見ることができない。
中津屋は蜘蛛を通して、もう一枚重なった世界を見るようになっていた。
古い文献や新聞を見るうち、中津屋と同じような人間がいることがわかった。特に気になったのは、半世紀前の連続殺人事件だった。
被害者は逆さづりにされて血を抜かれていた事件。
ああ、これだ。
確信した。
あのとき、蜘蛛が中津屋にくっついた理由。それは、生贄が欲しかったのだろう。教師も上級生も同じ、中津屋はそいつらが死ぬとともに元気を取り戻した。
生贄を与えることで、自分は健康になる。そして、春ちゃんも戻ってくるに違いない。
だから、中津屋は蜘蛛男になることにした。
季節は春だが、盆地のためか夜は冷え込む。
携帯電話を見ると、春ちゃんからメールが入っていた。顔文字スタンプを交えながら車の鍵が見つからないと返信する。
大学内の駐車場に車は置きっぱなしだ。出るときは、許可証を通さないと出られないようになっている。
飲み会にしっかり参加していたが、そこで中津屋がいたことを発言するものはいないだろう。可愛い小蜘蛛たちが長老の記憶も処理してくれる。
乗ってきた車も、小蜘蛛が鍵を持ってきてくれた盗難車だ。便利で可愛い子たちのために餌が必要だ。
「さあ、お食べ」
半開きになった口から、かさかさと音がする。可愛い子たちがわらわらと出てくる。
小蜘蛛たちは血をすするわけじゃない、肉を食べるわけじゃない。ただ、もっと違う何かを食べる。
普通の人には見えない、もう一枚重ねられた世界の何かを。
それを食らうことで小蜘蛛たちは元気になる。
先生に恨みなんてない。ただ、ちょうどいい餌だっただけだ。
春ちゃん、先輩に適度に近く、周りの人間から適度に遠い。
ただあえていうなら、お守りの代わりになるものをくれたちょっと厄介な人だと思った。
春ちゃんのお守りの効力は消えていたはずなのに、少しずつ小蜘蛛たちが無力化したのにまた春ちゃんの周りにいると疲れるようになった。
小蜘蛛も恐れて近づかなくなった。
どんな人だろうと少し興味はあったけど、普通の田舎者だった。場の雰囲気に慣れなかったせいもあるけど、そう簡単に男から貰った飲み物をほいほい飲むもんじゃない。
勉強になっただろうけど、生かす機会がないのは申し訳ない。
しかし……。
「どうしたんだい?」
幼児にでも話しかけるように中津屋は言った。蜘蛛たちはいつも通り餌に食らいつこうとはしない。ただ、何かみえない壁に阻まれるように動かなくなった。
春ちゃんがこいつに貰ったものと同じ髪紐はつけていなかった。あれがお守りになっていることはわかったし、彼女の衣服にはそれらしきものは入ってなかったし、彼女の鞄は車の中に置いたままだ。
なにか別のお守りでも持っているのだろうか。
確かめように、ゆっくり前に進もうとした。
しかし、足は地面に縫い付けられたかのように動かない。
どういうことだ?
足元を見る。
そこには黒い蠢くものがあった。それが中津屋の足にまとわりつき、離れようとしない。
「うわっ!」
思わず間抜けな声を上げた。足をあげようとするが、動かない、ぴたりと張り付きはなれず、それがふくらはぎに膝にと、這い上がってくる。
それは、中津屋を逃がすまいと締め上げてくる。中津屋は小蜘蛛を呼び戻そうと振り返った。
ぷちっ、ぷちっ。
無数の蜘蛛たちが踏みつぶされていく。その足は、小さなミュールを履いており、その上に丈の長いワンピースを身に着けていた。
飲み会には似合わない服装だと思った。不慣れなようなので、経験がなかったのだろう。飲み物に酒と睡眠薬を仕込まれても気づかない。
こきっこきっと、関節が鳴る音がする。首を動かしてその動きを確かめている。ばらばらになった黒髪が広がり、白い服と重なってホラー映画のヒロインを思わせた。
「気持ち悪いなあ。口直ししたい」
のん気なことを口にする彼女は、小蜘蛛たちを踏みつぶし近づいていく。小蜘蛛たちは散らない、散れない。周りを蠢く黒髪で囲まれていた。逃げようとする蜘蛛は髪の毛に突き刺さっていた。
「髪がべたべただ、ワックスかな。しっかり禊しないと。それから、水を飲んで、口直しもしたいな」
普段から少しのんびり構えている先生だと思った。だが、今はけだるそうだ。少し目がすわっている。
「ひどいよ、私けっこう優しいけど、それにも限度があるかな。普通、死んでるよあれ」
口調は変わらない。ただ不機嫌そうなのはわかる。
普段とそんなに変わらない先生、ちょっと近寄りがたい雰囲気の古風な美人。織姫の里の織姫をやっていると調べたが、まさに適任という容姿をしていた。破魔の衣を織ると言われる職人気質の先生だ。
ワンピースよりきっと和装が似合う、派手めな春ちゃんと並んでいるとよく目立った。
蜘蛛たちのいい栄養になると思った。
その美女が小蜘蛛たちを踏みつぶす、突き刺す。
なんだろう、あの髪は。まるで生き物だ。腰までの長さのはずが、中津屋の足元まで伸びていることも異常だ。
「この髪について聞きたい? 私にもよくわからないけど、あれかな。耳とか動かせる人いるじゃない、それと同じだと思って」
「そんなわけないじゃないですか……」
言い返せただけ中津屋は自分をほめてやりたかった。蜘蛛どころか、自分も逃げることができない。血の流れを止める勢いで、髪の毛は中津屋の足を縛り上げる。
なんだ、この状況は。
どういうことだ。
「うーん。直接干渉するつもりはなかったんだけどなあ。せっかく、受講してくれてるし、人数減るのも嫌だったし。半年くらい大人しくしてくれたらいいんだよ。真面目にしていれば単位あげたのに」
この場でいうことでもないのに、先生はとても残念そうな顔をしていた。普段と変わらない、違うのは異常に伸びた髪と、不機嫌そうな目と、そして化粧をして赤く染まった唇くらいだろう。
それなのに、中津屋は全身の震えが止まらなかった。
早く今すぐこの場から離れたい、そればかり心が動く。
「先生、どういうことですか?」
どうにかして時間を稼ぎたかった。口を動かすことは、得意なはずだ、どうにかしろと自分に言い聞かせる。
「あれ? まだ気づかない? そういえば、この間図書館で惜しいこと言ってたけど、気づいてなかったか」
「図書館?」
たしか、先生の実家の話を聞いた。
「中津屋くんの言った話、良い線言ってたんだけど、ちょっと違うんだ」
先生は笑う。
蚕の化身をないがしろにしてしまい、その娘を織姫として祀る、中津屋はそう理解した。
でも。
「娘が身ごもって旦那が死んだ理由、あれは、子どもを産むのに栄養が必要だったから。娘は旦那を食べていたの。少しずつもらって生きながらえていた娘だけど、出産し、食べる旦那もいなくなったから、糸を出せなくなった」
食べる、糸?
「蚕は惜しいな。普通、そっち方面いくよね。でも、たまにテレビとかでない? 動物由来ですごく丈夫な糸を持つ生き物」
「……く、くも」
「正解」
先生は笑いながら、足元の小蜘蛛を一匹つまむ。それを指先でぷちっと潰すと、体液で濡れた指を中津屋に伸ばしてきた、
目を瞑ると指の腹が目蓋をなぞった。指先が異常に冷たく、全身の肌が粟立った。
「目を開けて」
閉じたままいたかった。
でも、逆らえる心はとうに潰えていた。
「!?」
目を開けて声を出そうにも、出せなかった。
中津屋の世界にもう一枚見えないはずのレイヤーが重なる。
そこにいたのは、巨大な蜘蛛だった。複眼を動かし、八本の足と大きな腹が見える。産毛の生えた一本の足が中津屋の頬に触れている。
「残された妖の娘は織姫とされ、村に閉じ込められた。織姫は子を産み、その子孫は村の中に取り込まれていった。しかし、素晴らしい織物を織る娘はその子孫の中でも一握りだった」
巨大な蜘蛛は糸を吐く。美しい絹糸のような、いやそれ以上の糸を。
「要はこの糸作れる娘、より祖に近い娘は限られたってこと」
そして。
「私の織る衣は、歴代でもとても強いものらしいわ。破魔の力があるとかいうけど、笑っちゃうよね。それって、あれでしょ。私より弱い奴は、怖くて近づかないってことなのよ」
くすくす笑った後、先生は少し悲しそうな顔をする。蜘蛛の輪郭の奥でうっすらそんな表情がわかる。
「そういうことで、ごめんね、三下くん。口直しさせてもらうね」
大きく蜘蛛の顎が開いた。
かちかちと歯が鳴る。
身体が動かない、ようやく動くのは口だけだ。
口だけ。
もう時間稼ぎはできない。
もうどうしようもない。
どうしようも……?
「……」
震える口からなんとか絞り出そうとする。
「……さんです」
声をなんとか絞り出す。
「お、おつかれさんです、ごくろうさま」
大蜘蛛の目が残念そうに動いた。
「なんだ、覚えてたんだ。つまらない」
先生の呟きとともに、ちりんと鈴の音がなった。
大蜘蛛の顔が後ろへと向く。
ちりんちりん。
鈴の音が増える。
足元に現れたのは白と黒、二匹の猫だった。
赤い前掛けをかけ、首に鈴をつけている。
「ねえ、帰ったらご飯ある?」
大蜘蛛が黒い猫に聞いた。
「知るか、んなもん準備してねえよ」
黒い猫は甲高い声で答えた。白い猫は後ろ足で首の裏をかいている。
「えー、お腹すいてるのにー。ここでお預け?」
「変なもん、食って腹壊すのお前だろうが。毒気が抜けるまで断食する羽目になっぞ」
「ははは、ダイエットかあ。いいんじゃない?」
白猫が香箱を作っていった。
「それより、その姿のままでいいのか?」
黒猫が呆れたように言った。その足で、小蜘蛛を邪魔そうに弾き飛ばしている。
「別にどちらでもいい気がするけど」
そう言いつつ、目の前の大蜘蛛は、元の黒髪の美女へと戻る。
先生はにこりと笑ったまま、猫たちの向こうを見る。
その向こうには、白い影が見えた。
着流しを着た男だった。鋭い目をした能面のような顔の男で、白無垢に袴を穿いている。
不機嫌そうに見るその男に対し、先生はとても穏やかな笑みを浮かべていた。
「御憑かれさんです」
と、先生は中津屋を手の平で示す。
「御九郎さま」
と、先生は能面のような男を見る。
「なんで毎回、間違った尊敬語使うんだよ、最近の奴は」
ぼやきながら、男は指で印を作った。
〇夢遊堂
ラジオからニュースが流れる。連続殺人事件の犯人が見つかったとのことだ。
正式発表までにかかった時間が丸一日ほど。それは、犯人の初犯が高校生のときやったもので現在未成年だからかもしれない。
大学もそのことで大慌てだろう。急きょ、休校の知らせがきた。
九郎は天井を見ながら、ふうっとため息をついた。御簾の向こうでは朝日が見える。だいぶ高く昇っているはずだ。
下宿人が三人減った。もう未練はなく浄化していく道を選んだのだろう。
犯人の男がこの街に来てから、そいつらもここに住みついた。いや、住みつかせた。変に放置しておくと何に変化するかわからない、そのためだった。
そういうのは手もとに置いておく、それが九郎のやりかただった。
だが――。
腹が重い。全身にまとわりつく髪の毛がくすぐったい。
半眼になりつつ自分の胸元を見ると、張り付いている女がいる。薄い寝間着を身に着け、しどけなく横たわっている。
幽霊よりもずっと厄介な、でも有益な女だった。
あの幽霊たちももっと早く浄化できただろうに、この女はそんなことはどうでもよかったらしい。同じ蜘蛛仲間だからと勘繰ったが、そんなことはなくただ受講生徒が減るのが嫌だったようだ。
こちらがずっと探していたというのに。
「おい、起きてるだろ、そろそろどけ」
「いや、今日休みだから」
「飯食ってこい」
いやいやと首を振る。
「毒抜きしろって、シロちゃんがうるさいの。変な蜘蛛男の吸ってないか、口を思い切り引っ張られた」
「拾い食いしようとするからだ」
「たまにはどぎついものもいいかなって思って」
半分、妖であるこの女は、現代的なものは受け付けない。機械系は駄目だし、添加物や化学調味料が入った食べ物も身体に合わない。アレルギー症状がでるというより、精神に乱れが起こる。
自転車に乗るのですら、足がもつれるので駄目だというが、それはただこいつが不器用なだけかもしれない。足が二本なのか八本なのか、たまにわからなくなっているらしい。
食事にはすごく気を使い、シロには苦労をかけている。慣れぬものが多いここでの生活はこいつにとって気疲れの多いものだろう。クロは知らん、あいつはシロさえいれば文句ないのだから。
気を使った食事と上質の生気、そしてささやかな給料を与えたら、最高級の白無垢を仕立ててくれる。困ったことに、この女の作ったもの以外の衣は肌に合わなくなってしまった。
「髪くらい結べ」
「結んでよ」
わがままを言う女の言う事を聞くのも嫌だが、そのままの姿でいられるほうも困る。
手櫛で整え、髪紐で束ねる。この女が織った布に、九郎が術を施している。妖を近づけない効果の上、妖の力を封じる力もある。
元は男の生気を吸う妖だ、そのままにしていれば、知らずに雄を引きつけてしまう。
そんな生き物が、布一枚越しにべったりくっついている状況はなんといえばいいのか想像できよう。
蜘蛛男は、小物だった。力自体大きいものではなく、憑かれていた小蜘蛛の使い勝手がよく上手く立ち回りをしていた。小蜘蛛さえ入ってなければ、普通の人間と大差なく、だからこの女に近づけたのだろう。
そういう奴は捕まえにくい。『言霊』を使われ、呼ばれても感知することができない。
こいつくらい派手な力を持っていれば、すぐ察知して動けるものを。
「……ねえ、大家」
「なんだ、起きるか」
「違う」
この枕を離すまいぞと、さらに九郎にしがみついてくる。
「崎守さん、学校辞めないかな」
崎守という相手がどうかわからないが、蜘蛛男と関係があったのだろう。
「受講者これ以上減ったら困る」
九郎がごり押しで作ったような授業科目だが、一応講師として自覚があるようだ。
「せっかく縄張りに入ったもの逃がしたくない」
「……」
いや、蜘蛛としての本能だったらしい。
九郎は、名前の通り絹のような髪を撫でつけると、寝ろ、とぽんぽん叩いた。
「ねえ、大家」
「なんだ?」
「もう一口、食べていい?」
そう言って、目線を合わせてくる。
「たまには違うの食べたくなるんじゃないのか?」
「あれは、空腹だったから仕方ないの。変なの食べると、体力減っちゃうから本能なんだよ」
「へいへい」
九郎はもう一度頭を叩く。それを了解と、理解した蜘蛛女は、ゆっくりその顔を下ろしてきた。