01.噛み合わない三人
十月の上旬、翠明高校を包む空気は、つい数日前までの熱狂を嘘のように吸い込んで、穏やかな秋の気配へと移り変わっていた。
一大イベントである『翠明祭』が幕を閉じ、校舎のあちこちに貼られていた色鮮やかな手作りのポスターや案内板はすべて撤去されている。祭りのあとの静けさ。それはどこか寂しさを孕みつつも、生徒たちを日常のレールへと連れ戻す心地よい装置のはずだった。
しかし、部室棟の片隅に位置するライティング部の部室だけは、およそ心地よいとは言えない奇妙な緊張感に支配されていた。
「ねえ、佐倉くん。ちょっとだけでいいから、生徒会室の方に来てくれないかな?」
放課後の部室に、弾んだ声が響く。
引き戸の隙間からひょっこりと顔を覗かせたのは、湊のクラスメイト、名取くるみだった。彼女は生徒会の執行部に所属しており、小柄な体躯に大きな瞳、そして見る者の心を自然と和ませるような愛嬌を全身から放っている。くるみは、室内でノートパソコンに向かっていた湊を見つけると、その瞳をいっそうキラキラと輝かせ、ブレザーの袖をきゅっと掴むようにして身を乗り出した。
「名取さん。ええと、生徒会室に……?」
「うん!翠明祭の各クラスのアンケート集計結果が、さっきデジタルデータで上がってきたんだけど、数字の並びのチェックとか、ちょっとしたタイピングの手伝いが欲しくて。佐倉くん、タイピング速いし、すごく几帳面だから、どうしても頼りたくてさ」
くるみは少し頬を染めながら、上目遣いで湊を見つめる。その視線には、純粋な作業の依頼だけでなく、明らかにそれ以上の、明確な好意の色が混じり合っていた。翠明祭の準備期間を通じて、湊の直面する誠実さや不器用な優しさに触れた彼女は、今や放課後になるとこうして、なんやかんやと理由をつけてはライティング部の部室へとやってくるようになっていた。
「あ、いや、僕で良ければ……」
向けられた無防備な好意に、湊はドギマギとしながら、座席のクッションの上で身を縮めさせた。自分にはこれといった特技も中身もない、空っぽな人間だという自認がいまだに強い湊にとって、このように女の子から熱烈に頼りにされる状況は、あまりにも刺激が強すぎて脳の処理が追いつかない。オドオドと言葉を詰まらせ、視線を泳がせる。
その時、湊の背後から、室内の温度を一瞬で氷点下まで引き下げるような、硬く冷たいタイピング音が響いた。
タ、タンッ!
キーボードを叩く強烈な打鍵音の主は、湊のすぐ隣の席に座る結衣だった。
夏用ポロシャツを端正に着こなし、背筋をピンと伸ばした彼女は、液晶画面から一切の視線を外さないまま、冷徹極まる声を放つ。
「名取さん。悪いけれど、佐倉くんをそんな雑用で連れ出さないでもらえるかしら」
「え……?でも、瀬戸口さん、これは生徒会としての公的な事務作業の手伝いだよ?」
くるみが少し身を引いて、驚いたように瞬きをする。
結衣はそこでようやく首を動かし、いつもより何倍も鋭く、冷徹な眼差しをくるみへと向けた。その表情は完璧に論理的な武装を固めているようだったが、白皙の耳の裏側が微かに赤く染まっているのを、すぐ隣の湊は見逃さなかった。
「公的だろうと何だろうと関係ないわ。私たちが運営しているWebメディア『Writia』の次期定例記事のプロット、佐倉くんの担当分はまだ提出されていないのよ。彼は今、私と一緒に全体の方向性を固める重要なタスクの最中。相棒としての責任を放棄して、別の組織の手伝いにふらふらと付いていくなんて、部員としての規律を疑うわ」
「でも、佐倉くん、さっきプロットの構成案はだいたい終わったって呟いてたよ?」
「全体の整合性を確認するまでは『終わった』とは言わないの。下書きの段階で満足するなんて、プロ意識の欠如よ」
結衣の口調は徹底的に事務的で、一分の隙もない。しかし、その言葉の奥底には、自分と湊との間に築かれてきた距離感を、新参者のくるみに侵食されたくないという、隠しきれない独占欲と激しい嫉妬の炎が揺らめいていた。
春の入部以降、夏休みや翠明祭を通じて、湊と共に泥臭い執筆作業を乗り越え、ようやく縮まったはずの二人の距離。それを、くるみにあっさりと奪われるわけにはいかないという、頑なな防衛本能が彼女を突き動かしている。
「う、うーん……」
二人の美少女から、それぞれ異なるベクトルの強い視線を浴びせられ、湊は文字通り椅子の水平線の上で完全に硬直していた。くるみの無垢な好意に満ちた熱い視線と、結衣の冷徹かつ執念深い絶対零度の視線。その二つの視線が、自分の頭上で目に見えない火花を散らしている。
「あの、二人とも……僕は、その、どっちの作業も、できる限り……」
「「湊(佐倉くん)は黙ってて!」」
ピシャリと同時に声を揃えられ、湊は「ひゃいっ」と情けない声を上げて、首をすくめることしかできなかった。




