9.後夜祭に打ちあがる火花
ローファーのヒールが床を叩く、規則正しい音。
現れたのは、ネイビーのポロシャツを寸分の乱れもなく着こなし、速報用のタブレットを胸に抱えた結衣だった。彼女の黒髪は、一日目のあの特別な編み込みのまま、琥珀色の小さな髪飾りが夕暮れの微光を反射して揺れている。
さらにその背後からは、同じ制服姿のライティング部メンバーがぞろぞろと続いてきた。「お、大炎上案件の現場に到着ー」とリズムの速い口調で面白がる凛。快活な笑みを浮かべながら「湊、お前データの裏付けのない修羅場を作ってんじゃないぞ」とハキハキ話す小野寺拓海。その後ろには、太陽や、爽やかで体育会系の遠藤駆、そして一眼レフカメラを構えて「……いい構図だ」と呟く高城陸や、姉御肌の笑みを浮かべる三村陽菜までが揃っていた。
制服姿のライティング部の一行と、クラスTシャツ姿の1Cのメンバー。その中心で、湊、くるみ、結衣の三人が、完全に正面から遭遇した。
「……やっと見つけたわ、湊」
結衣の声は、低く、そして今にも震え出しそうなほどに張り詰めていた。彼女の耳の裏は真っ赤に染まっているが、その瞳は「言葉の門番」としての冷徹な武装で固められている。
「二日目はクラスのシフト優先とは言え、ずいぶんと楽しそうな『日常』を過剰に消費していたみたいじゃない。Writiaの速報キュレーションは、まだ後夜祭の速報が残っているのよ。あなたのファーストドラフトが遅れたら、タイムライン全体の整合性が崩れる。私の隣という特等席を空けさせておいて、何をしているのかしら?」
いつもの、鋭い口調。けれど、その言葉の裏側には、剥き出しの独占欲と、相棒を奪われたような激しい嫉妬の炎が渦巻いていた。
いつもなら、結衣のその圧倒的な正論の前に気後れしてしまうはずのくるみだった。しかし、今の彼女は違った。グリーンのクラスTシャツに身を包み、五線譜の熱狂の中で本音を言語化したくるみは、結衣のまっすぐな瞳に正面から視線を返し、掴んだ湊の袖をさらに強く引き寄せた。
「瀬戸口さん、それは部活の理屈でしょ?」
くるみは、その名前を真っ直ぐに呼んだ。
「瀬戸口さんがライティング部のメンバーとして、佐倉くんと凄い言葉を作ってきたのは知ってる。でもね、文化祭の二日目は、クラスのみんなで頑張る日なの。私は、佐倉くんにたくさん助けてもらった。だから、後夜祭の最後まで、佐倉くんと一緒に過ごしたい。瀬戸口さんだけに、佐倉くんを連れていかれたくないの」
「な、名取さん……!?」
くるみの口から放たれた、宣戦布告とも取れる直球の言葉に、結衣の頬が一気に紅潮した。
「な、何をおっしゃるの、名取さん!私はあくまで、Writiaのキュレーションというオフィシャルな任務の、論理的な整合性の話をしているだけで……」
「論理なんて関係ないよ。私は、佐倉くんと一緒にいたいの」
どちらのヒロインも、一歩も引かない。
夕暮れから夜へと移り変わる校舎の昇降口で、制服姿の結衣と、クラスTシャツ姿のくるみ。二人の視線が交差する真ん中で、パチパチと熱い火花が激しく飛び散る。右からはくるみの健気で純粋な好意の熱量が、左からは結衣のツンデレな武装の奥にある激しい嫉妬の炎が、湊の心身を猛烈に挟み撃ちにした。
「わ、わわ、二人とも、落ち着いて……!」
湊は、両者の視線の強烈な質量に完全に押しつぶされ、言葉の型を組み立てる余裕すらなく、ただオロオロとするしかなかった。
そのとき、グラウンドからドーン、と大きな和太鼓の音が響き渡り、キャンプファイヤーに火が灯ったことを告げた。それと同時に、後夜祭の始まりを告げるフォークダンスの、軽快なオクラホマミキサーのメロディがスピーカーから鳴り響く。
「あ、フォークダンスが始まった!佐倉くん、私と踊ろう?」
「待ちなさい、湊!あなたは私と全体の取材を進めるのが先決よ!」
くるみと結衣が、同時に湊の両腕を掴んで引っ張り合う。その完全に「二人のヒロインに奪い合われる主人公」という王道のラブコメシチュエーションを、周囲の人間は面白そうに見守り始めた。
「ヒュー! 湊、お前マジでWritiaのトップニュース確定だな!」
「陸、今の結衣ちゃんの嫉妬顔、サイコーの構図だから絶対逃しちゃダメよ!」
柏木や斉藤、そして陽菜や凛たちが大騒ぎしながら、その様子を煽るように見つめている。
「……撮れた。傑作」
いつの間にか一眼レフを構えていた陸が、至近距離からその緊迫した修羅場を何枚も連写し、言葉少なに親指を立てた。液晶画面には、真っ赤になって怒る結衣と、掴んだ袖を離さないくるみ、そして目が点になっている湊の、完璧な青春の構図が収まっている。
しかし、その賑やかな喧騒から少し離れた場所に、二人の影が静かに近づいてきた。
ライティング部部長の神崎涼香、そして、その隣には生徒会長の葛城鏡花が並んで歩いていた。学校公式メディアと、学内最大自治組織のトップという二人の三年生。
涼香は、いつもの包み込むようなミステリアスな微笑みを、今は少しだけ曇らせていた。彼女の重みのある丁寧な佇まいの奥に、微かな困惑の色が滲む。
隣の鏡花もまた、長い髪を揺らしながら、腕を組んでその修羅場をじっと見つめていた。生徒会の最高責任者としての彼女の鋭い瞳にも、どこか割り切れない、複雑な懸念の影が宿っている。
二人のリーダーが何故、今まさに可愛らしい小競り合いを演じている一年生たちを前にして、そのような困惑した眼差しを向けているのか、その本当の理由は、この場にいる誰にも分からなかった。
ただ、二人の三年生の視線には、今はまだ微笑ましいラブコメとして消費されているこの対立が、これから先、生徒会とライティング部という組織全体の、本格的な歪みへと繋がっていくのではないかという、不穏な予感が潜んでいるかのようだった。
そんな上級生たちの思惑など露知らず、グラウンドからの音楽は激しさを増し、生徒たちの歓声が夜空を震わせる。
緑色のクラスTシャツのくるみ、ネイビーの制服の結衣。二人の強い視線に挟まれたまま、佐倉湊は自らの感情のファーストドラフトを書き直すこともできないまま、ただ贅沢なパニックのなかで立ち尽くしていた。
恋の三角関係の火花は、一切の決着を見せないまま、最も熱く、最も緊迫した熱量をはらんで、翠明祭のフィナーレとともに、次なる物語へと引き継がれようとしていた。




