1.制服と小さな髪飾り
九月、桜ヶ瀬の街を包む空気は、まだ真夏の忘れ形見のような強い日差しを残していた。けれど、私立翠明高校の正門をくぐった瞬間に押し寄せる熱気は、決して気候のせいだけではなかった。
校門には、美術部と建築有志が夏休みを丸ごと投げ打って組み上げたという、巨大な木製のアーチがそびえ立っている。色鮮やかなペンキで描かれた『第42回 翠明祭』の文字が、青空に向かって誇らしげに胸を張っていた。
一歩、校内へ足を踏み入れれば、そこはもう祝祭の坩堝だった。中庭を埋め尽くす白いテントからは、焦げた醤油や甘いクレープの匂いが風に乗って鼻腔をくすぐり、スピーカーから流れるBGMをかき消すほどの呼び込みの声が飛び交っている。廊下を走るクラスTシャツ姿の生徒たち、模擬店のチラシを配るお化け屋敷の案内人、普段の厳格な進学校の面影を木っ端微塵に打ち砕くようなエネルギーが、学校全体を眩しく震わせていた。
そんな喧騒のなかを、湊はいつものネイビーの夏用ポロシャツという、寸分の着崩しもない制服姿で歩いていた。
今年のライティング部は、模擬店や展示の出店を一切行っていない。学内メディアである『Writia』での「翠明祭・リアルタイム速報キュレーション」にすべてのリソースを投入しているからだ。そのため、部員たちは全員、学校公式メディアとしての品格を保つために制服での稼働を義務づけられていた。
「ちょっと、湊。何をもたもたしているの。タイムラインは秒単位で流れているのよ」
前を歩いていた結衣が、ローファーのヒールを小気味よく響かせながら振り返った。
彼女もまた、湊と同じネイビーのポロシャツ姿だった。けれど、その姿はいつも部室で見せるものとは、明らかに異なっていた。いつもなら後ろで無造作に一つに結ばれている黒髪が、今日は丁寧に編み込まれ、サイドに小さな、琥珀色をした花の髪飾りが揺れている。いつも通りの毅然として論理的な口調ではあるものの、その佇まいには、お祭りの空気にほんの少しだけ背中を押されたような、特別な気合いが滲み出ていた。
「あ、ごめん、結衣。人が多すぎて、カメラとタブレットを庇いながら歩くと、どうしてもペースが落ちちゃって」
湊は、実直で控えめな口調で応じながら、人混みを掻き分けるようにして彼女の隣に並んだ。「湊」「結衣」とお互いを下の名前で呼び合い、同級生としての親しさを保ちつつも、ふとした瞬間に彼女の横顔、特に西日に透ける琥珀色の髪飾りに視線がいってしまうと、湊は胸の奥がくすぐったいような、妙な緊張感を覚えてしまう。
「言い訳はノイズよ」
結衣はそう言ってぷいっと顔を背けたが、編み込まれた髪の隙間から覗く耳の裏が、微かに赤くなっているのを湊は見逃さなかった。彼女は胸に抱えたタブレットの画面を指先でトントンと叩きながら、早口で続ける。
「今回のミッションは、一日目の午前中における飲食系模擬店の動向を『速報ファーストドラフト』としてWritiaに配信すること。拓海先輩のアクセス解析によると、十一時半から十二時半の間にフード関連の検索数が爆発的に跳ね上がるわ。だから、今から一時間で中庭の主要な店を取材し、ペルソナが求めるベネフィット――つまり『今すぐ並ぶべき美味い店』の一次情報を言語化しなければならないの」
「うん、わかってる。まずは3年D組のクレープの店から行ってみようか。この近くだし、動線的にもちょうどいいと思う」
「……そうね。論理的な選択だわ」
結衣は短く頷くと、湊を先導するように中庭のテント群へと向かった。
中庭は、調理用の鉄板から上がる白い煙と、油の爆ぜる音で満ちていた。二人が向かったクレープの店は、三年生のクラスが出している模擬店で、すでに女子生徒たちを中心に長い列が作られている。
「すごい並んでるね。これは期待できそう」
「ただ並ぶだけじゃライター失格よ、湊。ほら、見て」
結衣は鋭い視線をメニューの看板に向けた。
「この店、ただのクレープじゃなくて、桜ヶ瀬の特産であるイチゴのジャムを隠し味に使っているわ。ファクトを揃えるのよ。単に『甘くて美味しい』なんていう独独よがりのポエムじゃ、タイムラインの塵になるだけ。読者が本当に知りたいのは、その甘さが他の店とどう違うか、という明確な理由よ」
「なるほど……。じゃあ、まずは実際に食べて、一次情報を五感で確かめないとね」
湊がそう提案すると、結衣は一瞬だけ言葉を詰まらせ、それから視線を僅かに泳がせた。
「ええ。……それは、仕方のないプロセスね。取材の一環として、購入を許可するわ」
「大袈裟だなあ。じゃあ、僕が二個買ってくるから、結衣は座って待ってて」
湊は列に並び、焼き立てのクレープを二つ手に入れた。香ばしい生地の匂いと、生クリームの甘い香りが手元から立ち上る。中庭の隅にある、大きな木陰のベンチに結衣が座っているのを見つけ、湊はその隣へと腰掛けた。
「はい、結衣。イチゴチョコホイップ」
「ありがとう、湊」
結衣は丁寧な手つきでクレープを受け取ると、少しだけ緊張した様子で、小さな口を開けて一口齧った。その瞬間、彼女の端正な顔立ちが、ふわりと柔らかく弛んだ。いつも部室で湊の文章を酷評するときのような鋭さは完全に消え去り、その瞳はまるで幼い少女のようにキラキラと輝いている。
「……美味しい。生地がモチモチしていて、ジャムの酸味がクリームのくどさを完全に中和しているわ。これなら、甘いものが苦手な人でもベネフィットを感じられるわね」
「よかった。僕のも美味しいよ」
湊が実直に笑いながらクレープを口に運んでいると、結衣が不意に、不思議そうな表情でこちらを見つめてきた。
「何?結衣」
「……湊、口元」
結衣はそう言うと、自分のポケットから小さなハンカチを取り出し、自然な動作で湊の顔へと手を伸ばした。
ふわりと、彼女の髪から洗練された微かなシャンプーの香りが漂い、湊の鼻腔をくすぐる。至近距離で見つめ合う形になり、湊の心臓がどくりと大きく跳ね上がった。結衣の指先が、ハンカチ越しに湊の口元を優しく拭う。
「あ、ありがとう、結衣。生クリーム、ついてた?」
「ええ。だらしないわね。……って」
湊の口元を拭き終えた結衣は、自分の行動の持つ意味――まるで「付き合いたてのカップル」のような親密な距離感であったことに、今さら気づいたようだった。彼女は急に動きを止め、ハンカチを握り締めたまま、顔を一気に真っ赤に染め上げた。
「……いまのは、その、オフィシャルなサポートよ!あなたの顔が汚れていると、ライティング部のブランドイメージに関わるから、論理的な判断として綺麗にしただけなんだから!」
「うん、わかってるよ。いつも助かるな、結衣」
湊が少し照れくさそうに微笑むと、結衣は耳の裏まで完全に朱に染めながら、ぷいっと顔を背けてクレープを大急ぎで口に押し込み始めた。その拍子に、今度は彼女の白い頬の端に、小さな生クリームの泡がちょこんと残ってしまう。
「あ、結衣。今度は結衣の頬についてるよ」
「えっ!?」
「あはは、お互い様だね。ほら、そこ」
湊が指を差して取り拭うと、結衣はパニックになったように自分の頬を両手で押さえ、「か、勝手に顔に触るなんて、生意気よ、湊!」と、いつもの鋭い口調で強がってみせた。しかし、その声は微かに震えており、琥珀色の小さな髪飾りが、彼女の激しい鼓動に合わせるようにして、細かく揺れていた。
騒がしい中庭の喧騒、漂うソースと甘い砂糖の匂い、そして遠くのステージから響く手拍子の渦。その大きな祝祭の風景の片隅で、ポロシャツ姿の二人の間には、他者が決して入り込むことのできない、居心地の良さと甘酸っぱい空気感が、確かに完成されつつあった。
「……さあ、休憩は終わりよ」
クレープを食べ終えた結衣は、いつもの「言葉の門番」としての冷徹な表情を取り戻し、タブレットを起動した。
「次は体育館ね。ダンス部『翠明D-Stars』のステージ取材へ向かうわ。一分一秒を無駄にしないこと。行くわよ、湊」
「うん。よろしく、結衣」
湊は立ち上がり、彼女の凛とした背中を追いかけた。一日目の祝祭はまだ始まったばかりで、彼らの紡ぐ言葉のタイムラインも、また動き出したばかりだった。




