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放課後ノート〜翠明高校ライティング部〜  作者: やた
11.夕暮れのダンボール

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11.5.不機嫌なインク

 初夏の兆しを孕んだ風が、翠明高校の渡り廊下を吹き抜けていく。夕方の校舎は、部活動に励む生徒たちの活気と、どこか気怠い放課後の空気に満たされていた。


 結衣は、タブレット端末を胸に抱きかかえるようにして、生徒会室からの帰り道を歩いていた。Writiaの学内公式チャネルに関する事務的な調整を終え、あとは部室に戻って湊が提出してくるはずの下書きをチェックするだけ。頭の中で今日のタスクを論理的に並べ替え、効率的な手順を組み立てていた。


 しかし、中庭に面した大きな窓を通り過ぎようとした瞬間、結衣の足がピタリと止まった。


 ガラス越しに見下ろす中庭のベンチ。そこに、見覚えのある背中があった。湊だ。いつも少し猫背気味で、どこか自信なさげに周囲の空気を窺っている彼が、今は真剣な表情で誰かの話に耳を傾けている。


 彼の隣に座っているのは、長い黒髪をきっちりとまとめた女子生徒だった。湊のクラスメイトであり、生徒会で庶務を務めている名取くるみだ。真面目で几帳面な彼女は、腕にたくさんの印刷物を抱え、困惑したような表情で湊に何かを熱心に訴えかけている。


 湊は、彼女が差し出した書類を覗き込みながら、小さく頷いた。それから、自分のタブレットを操作して、何かを彼女に示している。くるみの表情がぱっと明るくなり、湊の顔を覗き込むようにして笑った。二人の肩が触れ合いそうなほどに近づく。


 くるみは少し首を傾げ、照れくさそうに、けれど心から信頼しきったような笑みを湊に向けていた。苗字で呼び合う初々しい距離感でありながら、その周りに漂う空気は、単なるクラスメイトのそれよりも遥かに親密な色彩を帯びている。湊もまた、少し耳の後ろをかきながら、実直で優しい笑みを彼女に返していた。


 結衣は、端末を握る指先に思わず力が込めるのを感じた。


 胸の奥が、冷たい水に浸されたようにじりじりと収縮していく。


 四月以降、狭い部室で、二人きりで何度も何度もリライトを重ねてきた日々。そして、言の葉公園で一緒に大輪の花火を見つめた夜、鎌倉の海岸で、正直な気持ちを伝えた時間。まだ、お互いに好意を伝えた訳ではない。しかし、下の名前で呼び合うようになったのは、自分と湊の間に築かれた、誰にも踏み込めない特別な境界線の証だと思っていた。


 それなのに。


「……何よ、それ」


 結衣の胸の奥で、カチリ、と小さな音がした。


 それは、彼女が最も嫌う不条理な感情の引き金だった。論理的には説明がつかない。湊がクラスメイトの、しかも生徒会の仕事で困っている人間を手助けしているだけだということは、状況から容易に推測できた。何の問題もない、むしろ推奨されるべき健全な交流だ。


 それなのに、視界の端で弾けた二人の笑顔が、結衣の網膜に不快な残像として焼き付いて離れない。胸の奥を細い針でキリキリと引っ掻かれるような、説明のつかない焦燥感が広がっていく。


 結衣は無意識のうちに奥歯を噛み締め、抱えたタブレットを強く握りしめた。ローファーのヒールをいつもより激しく床に打ち鳴らしながら、中庭の景色を振り切るようにして歩行速度を上げた。部室へと続く階段を上る彼女の耳の裏は、初夏の暑さとは違う理由で、微かに赤く染まっていた。


 その頃、湊は、中庭でくるみとの会話を終えて、ようやく息を吐き出していた。


「ありがと、佐倉くん。他部活への連絡書類、どう書けば伝わるか全然わからなくて。結論を先に書く、だよね?」


「うん。僕も部活でいつも叩き込まれてるんだ。PREP法っていうんだけど、まず結論を最初に持ってくると、読む人が迷子にならないから」


 くるみは何度も頷き、感謝の言葉を述べて生徒会室へと走っていった。湊はそれを見送りながら、自分が誰かの役に立てたという小さな充実感を覚えていた。いつもライティング部で結衣から受けているスパルタな指導が、図らずも他人の悩みを紐解く鍵になったことが嬉しかった。


 その余韻のまま、湊は部室棟にあるライティング部の部室へと向かった。


 引き戸を開けると、部屋の中には西日が斜めに差し込み、埃の粒子がオレンジ色の光の中で静かに躍っていた。


 部屋の奥、いつもの席に結衣が座っていた。


 しかし、部室に入った瞬間に、湊の肌がピリリとした拒絶の気配を察知した。


 カタカタカタカタ、ターン!


 結衣がキーボードを叩く音が、いつもより明らかに激しい。まるでプラスチックのキーの向こう側にある何かを、力任せに圧殺しようとしているかのような、硬く鋭い打鍵音。部屋の空気は冷え切り、窓から入る温かい風さえも拒むような静寂が支配していた。


「あの、ただいま、結衣」


 湊は、おずおずと声をかけた。


 結衣は画面を見つめたまま、微動だにしない。数秒の空白のあと、視線すらこちらに向けないまま、冷淡な声が返ってきた。


「おかえりなさい」


 その一言だけで、湊の背中に冷や汗が流れた。実直で嘘が苦手な湊にとって、他人の感情の機微、特にこのような明確な拒絶のオーラに対処するのは至難の業だった。何か失敗をしたのだろうか。下書きの締切は破っていないし、クラスの手伝いだって黙って出ていったわけでもない。


「あの、結衣。……なんだか怒ってるみたいっていうか、いつもより不機嫌そうに見えるから……。僕、何か悪いことしちゃった?」


 湊が言葉を選びながら、ストレートに尋ねた。


 その瞬間、結衣の手がピタリと止まった。彼女はゆっくりと顔を上げ、冷徹な、しかしどこか焦燥を孕んだ瞳で真っ直ぐに湊を睨みつけた。


「別に怒ってなんかいないわよ。あなたが誰とどこで何をしていようと、私の知ったことじゃないもの」


 毅然とした、いつもの論理的な口調。けれど、その言葉の節々からは、隠しきれないトゲが溢れ出ていた。彼女はペン立てから一本の赤ペンを抜き取り、手元にあるノートの余白に意味のない直線を引いた。


「ただ、今週末の締め切りが迫っているのに、下書きの担当者が随分と余裕そうに校内を『取材』しているのね、って思っただけよ」


「えっ……」


「同じクラスの名取さん……だったかしら。生徒会の庶務の子。ずいぶんと親しげに買い出しや書類の相談に乗ってあげていたみたいだけど、ライティング部のミッションより、あっちのサポートのほうが優先順位が高いのかしら?私にはその行動の論理的整合性が理解できないわ」


 一気にまくしたてられた言葉に、湊は完全に圧倒された。結衣がなぜくるみのことを知っているのか、そしてなぜそこまで怒っているのか、彼の朴訥な思考回路では結びつかなかった。


「いや、それは名取さんがクラスと生徒会の板挟みで困ってたから、少し話を聴いて整理してただけで……」


「ふーん。ずいぶんと親切な『取材』なのね、湊」


 結衣はそう言い捨てると、耳の裏を微かに赤くしたまま、ぷいっと顔を背けて再び画面に向き直ってしまった。完全に会話をシャットアウトする構えだった。部室に漂う赤ペンの独特なインクの匂いが、今は二人の間の決定的な距離を象徴しているようだった。


 あまりの剣幕に、湊が完全に立ち往生していると、部室のドアが勢いよく開き、賑やかな声が飛び込んできた。


「ハロー!戻ったぞー!って、うわ、何この空気感? 部屋の中だけマイナス二十度くらいになってね?」


 入ってきたのは凛だった。彼女のリズムの速い声が、張り詰めた沈黙を破る。その後ろから、陽菜がクスクスと楽しげな笑みを浮かべながら続いてきた。


「ねえねえ、湊くん。さっき中庭で生徒会の名取くるみちゃんと話し込んでたでしょー?遠くから見てもずいぶん仲良さそうだったから、ウチらの間でも噂になってたんだから」


 陽菜がお節介な姉御肌の本領を発揮し、確信犯的な笑みを浮かべて助け舟を出した。いや、それは湊にとってはガソリンを注がれたようなものだった。


「三村先輩、違うんです!本当にただの相談で、名取さんが書類の書き方に悩んでたから、僕が知ってる範囲で教えてあげてただけで……」


「くるみちゃんって、生徒会のメンバーの中でも真面目で可愛いって評判だし、あっちこっちの部活の調整でいつも頑張ってるよね。でも、結衣ちゃんがこんなに分かりやすくツンツンしちゃうってことは……ねえ?」


「あー、くるみね!」


 凛が自分の机に鞄を放り出しながら、ウチ、と一人称を使って言葉を繋ぐ。


「あの子、マジ真面目だからさ、生徒会の雑用とか全部一人で抱え込んじゃうタイプっしょ。湊が話聴いてあげてたの、ウチはなんとなくわかるよ。でもさ、湊、結衣の顔見てみなよ。インクの匂いよりツンツンしたオーラ出まくりじゃん?怒ってないって言いながら、画面の文字、絶対頭に入ってないでしょ」


「湊くん、私たちのエースを困らせるとか、いい度胸してんじゃん。でもさ、結衣ちゃんも素直に『寂しかった』って言えばいいのに。語尾尖りすぎてて、リライト案件だよそれ」


「ちょっと、二人とも!余計なことを言わないでください!」


 結衣が画面から目を離さないまま、鋭い声を出す。凛は首をすくめて「ほーい」と生返事をした。


 陽菜は二人の様子を交互に見つめ、少し呆れたように、けれど温かい眼差しで息を吐いた。


「ほらほら、ギクシャクしてたらWritiaの記事が捗らないわよ。今回のライティング部のミッション、学内の他部活を紹介する『二〇〇文字の紹介記事』の下書きでしょ?湊くん、結衣ちゃんに早く見てもらいなさい。二〇〇文字っていう極限の短さだからこそ、お互いの息が合ってないとリライトなんてできないんだから」


 陽菜の言葉に促され、湊は意を決して自分のタブレットを持って結衣の机へと近づいた。結衣は不機嫌さを隠そうともせず、しかし事務的な態度で湊の差し出した画面を受け取った。


 少しギクシャクした、不自然な距離感のまま、二人のリライト作業が始まった。


「……何、これ」


 数秒後、結衣の口から冷ややかな言葉が漏れた。


「言葉が多すぎるわ。湊、あなたの悪い癖が全部出ている。他部活の魅力を伝えたいという感情が先行して、形容詞や副詞の羅列になっているわ。結論が最後にあるから、何について書かれた記事なのか冒頭で全く伝わらない。これじゃ、タイムラインをスクロールする読者は一秒で離脱するわよ」


「う……」


「二〇〇文字という極限の制約のなかでは、無駄な贅肉をすべて削ぎ落とさなければならないの。ペルソナが求めるベネフィットを冒頭で宣言して、読み手の迷子を防ぐ。名取さんの話を丁寧に聴く時間があるなら、この一文をミリ単位で削ることに脳の使いなさい」


 辛辣な言葉の端々に、明らかに私情と思しきトゲが混ざっていた。しかし、その指摘自体はぐうの音も出ないほど論理的で的確だった。結衣は手にした赤ペンで、タブレットの画面をなぞるように、容赦なく不要な言葉を削っていく指示を入れていく。


「ここを削って、PREP法を適用する。まずは二〇〇文字の型に落とし込むの。明日までにリライトしてきなさい。完成は次の段階ね」


「わかった。……ありがとう、結衣」


 湊は、彼女の不機嫌さに圧倒されつつも、その指摘の鋭さに改めて強い敬意を抱いていた。自分にはない論理の牙。彼女の赤入れは厳しいけれど、そこに込められた言葉への誠実さは本物だと知っているから、湊は必死に食らいつこうとした。


 窓の外では、桜ヶ瀬の街がゆっくりと夕闇に包まれ、オレンジ色から深い群青色へとグラデーションを変えていく。部室の中に響く、躊躇いがちな湊のタイピング音と、それを先導するような結衣の鋭いペンの動き。


 少しギクシャクした関係のまま、二人は言葉を通じて、ほんの少しずつ、狂ってしまった軌道を元へと引き戻すように作業を続けていった。二〇〇文字の紹介記事が完成を迎えるのは次の章になるが、その短い文字数の中に込めるべき二人の「本音」は、静かに削り出されようとしていた。

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