11.1.文化祭前の喧騒
九月上旬の風は、まだ真夏の気怠い熱をたっぷりと孕んでいた。しかし、私立翠明高校の校舎を通り抜ける空気は、一週間前とは明らかに異なっていた。
夏休みが明け、二学期が始まった途端、学校全体が目に見えない巨大な磁場に引きずられるようにして、一気に加速を始めていた。
廊下のあちこちには、まだ印刷の匂いの新しい段ボール箱がうずたかく積み上げられ、放課後のチャイムが鳴り響くと同時に、あちこちの教室からガムテープを引き剥がす乾いた音が響き渡る。ブルーシートを広げてペンキの缶を囲むクラス、ラジカセから流れる大音量の重低音に合わせてステップを踏むダンス部の面々。翠明祭という年に一度の祝祭を前にして、等身大の高校生たちが放つ熱気が、ネイビーのポロシャツの襟元をじりじりと焦がすようだった。
そんな喧騒から一線を画すように、校舎の一角にあるライティング部の部室には、規則正しいタイピング音だけが静かに響いていた。
「いいか湊、翠明祭は、ウチの部にとっての勝負どころだぞ」
自作PCのディスプレイに向き合っていた二年生の小野寺拓海が、キーボードを叩く手を止めて振り返った。快活で自信に満ちた声が、部室の静寂を小気味よく揺らす。
「今年も『Writia』に特設ページが開設される。全校生徒、それから当日やってくる一般の来場者や保護者、そのすべての視線が、そこに集まるんだ。データの裏付けから言っても、祭りの期間中のアクセス数は通常時の十倍以上に跳ね上がる。つまり、俺たちの言葉が、文字通り学校中のスマホをジャックするってことだよな」
その言葉に、パイプ椅子に腰掛けていた湊は、手元のタブレット端末を握る手に少しだけ力を込めた。
「僕たちの言葉が、そんなにたくさんの人に……」
「当たり前じゃん!だからこそ、今年のライティング部は、模擬店も展示も一切やらないんだからね」
窓際の長机で、スマートフォンの画面で熱心にトレンドをチェックしていた二年生の三村陽菜が、身を乗り出すようにして会話に加わった。賑やかで社交的な彼女の瞳が、悪戯っぽく輝く。
「他の部活やクラスが必死に店を回してる間、ウチの部は全員が『特化型メディア』として動くの。運動部から文化部、有志の同好会まで、翠明祭のすべての熱量をリアルタイムで取材して、記事として切り出す。これって、めちゃくちゃ責任重大だけど、最高に楽しそうだと思わない?」
「……撮る。現場の瞬間は、俺が全部押さえる」
部屋の隅で一眼レフカメラのレンズを丁寧に拭いていた高城陸が、極端に短い言葉で、しかし確かな意志を込めて呟いた。
「そういうこと。だから、下書きを担当する一年生は、今からしっかり牙を研いでおいてもらわないと困るわけ」
それまで静かに資料をめくっていた二年生の早乙女志乃が、冷静沈着な、事務的なトーンで告げた。彼女の手元のタブレットには、すでに分刻みで構成された取材タスクのスケジュールが淡々と並んでいる。
「タスクを確認します。湊くんに結衣ちゃん。あなたたちには、各部活の事前紹介記事の執筆から入ってもらうわ。締め切りは厳守。いいわね」
「はい、わかっています」
湊の隣で、毅然とした論理的な口調で応じたのは、結衣だった。背筋をすっと伸ばし、乱れのない黒髪を揺らした彼女は、すでに自分の端末のエディタを開き、隙のない構成案を組み立てている。
夏休みの様々な出来事を経て、湊と結衣の距離は、以前とは確実に変わっていた。互いに「湊」「結衣」と下の名前で呼び合うようになったのは、この部室の中に流れる、二人だけの小さな、けれど確かな変化の証だった。
ふとした瞬間に視線が交差すると、どちらからともなく微かに視線を外し、耳の裏を少しだけ赤くする。そんな恋人未満の不器用な空気感が、周囲の喧騒から切り離された二人の間にだけ、静かに漂っていた。
「……あの、志乃先輩。事前紹介記事のことで、ちょっと確認したいデータがあるんですけど」
結衣が少しだけ眉をひそめ、志乃のデスクへと歩み寄った。
「何?結衣ちゃん」
「各部活の昨年のPV数の推移と、今年の出店場所の相関データです。動線によって記事のリード文の切り口を変えたいのですが、サーバーの共有フォルダにアクセス制限がかかっているみたいで」
「ああ、それなら情報系のセキュリティーを更新したから、一時的に閲覧制限がかかっているわ。解除パスワードのトークンは、拓海くんの端末からじゃないと発行できないのよね」
拓海が頭を掻きながら言った。
「悪いけど、いまWritiaの特設サーバーの負荷テストの真っ最中でさ、手を離すとセッションが切れちゃうんだよな。誰か、部室棟一階の共用倉庫にある、予備の認証キーが刺さったノートPCを取ってきてくれないか? あれがあれば、そっちの端末からでも直接承認できるから」
「あ、僕が行きます」
湊がすぐに立ち上がった。
「待って、湊。どの端末か、あなただけでわかる? 私が一緒に行くわ」
結衣もまた、自分のタブレットを机に置き、湊の後に続いた。
「助かるぞ、二人とも!」
拓海のハキハキとした声を背に受けながら、湊と結衣は部室の重い扉を開け、廊下へと出た。
部室を一歩出ると、再び騒がしい熱気が二人を包み込む。階段を下り、部室棟の一階にある薄暗い共用倉庫へ向かうにつれて、喧騒は少しずつ遠い引き波のように小さくなっていった。
重いスライド式の扉を開け、二人は倉庫の中に入る。高い窓から斜めに差し込む夕方の西日が、空気中に浮かぶ微細な埃を黄金色に染め上げていた。様々な部活の備品がひしめく独特の匂いと、少し冷えた静寂が部屋を満たしている。
「確か、拓海先輩が言っていたのは、あのスチール棚の上のケースよね」
結衣が部屋の奥を指差した。湊は頷き、棚へと近づく。
「うん。僕、取ってくるよ」
少し背伸びをして、湊は棚の最上段にあるプラスチックのケースに手を伸ばした。しかし、指先がかすかに届かない。
「……っ、あと少し」
「無理しないで、湊。私が下を支えるから」
結衣が自然な動作で一歩踏み出し、湊のすぐ隣に立った。その瞬間、ふわりと、彼女の髪から洗練された微かなシャンプーの香りが漂い、湊の鼻腔をくすぐった。
あまりの距離の近さに、湊の心臓がどくりと大きく跳ねる。
「あ、ありがとう、結衣。でも、大丈夫、届いた」
どうにかケースを引き寄せ、胸に抱えるようにして床に降り立つ。振り返ると、そこにはすぐ目の前に、結衣のまっすぐな瞳があった。西日を浴びて、彼女の瞳が琥珀色に透き通っている。
「……取れたみたいね」
結衣はそう言ったものの、なぜかその場から動こうとはしなかった。いつもなら理路整然と「じゃあ、早く部室に戻りましょう」と言い放つはずの彼女が、少しだけ潤んだ瞳で、湊の顔をじっと見つめている。
「結衣?」
「……夏休みが終わって、学校が始まってから、何だかすごく慌ただしいわね」
結衣は、いつも湊に文章を指導するときの鋭さを少しだけ潜め、同級生としての、どこか頼りなげな口調で呟いた。
「部活のミッションも大きいし、みんな翠明祭に向けて浮き足立っている。……私、時々、置いていかれそうになるの。自分の書く文章が、本当にこの喧騒の中で、誰かに届くのかしって」
それは、かつて鎌倉の取材で彼女が覗かせた、自信の裏側にある繊細な本音だった。
「そんなことないよ」
湊は、抱えたケースを強く握り締めながら、実直な口調で、けれど真っ直ぐに彼女の言葉を肯定した。
「結衣の文章は、すごく綺麗で、論理的で、僕なんかじゃ逆立ちしても届かない。底にある意志の強さを僕は知っているから。……僕が迷子にならないように引っ張ってくれたみたいに、きっと、たくさんの読者にも届くよ。僕が、保証する」
結衣は一瞬、驚いたように目を見開いた。それから、急速に頬を朱色に染め、ぷいっと顔を背けた。
「……バカね、湊。あなたが保証したって、何の説得力もないわよ」
言葉こそいつものように少しツンとしていたが、その声は微かに震えており、背けた耳の先まで真っ赤になっているのが、西日の光の中で隠しようもなく透けて見えた。
「でも……まあ、あなたのその『空っぽな視線』が言うなら、少しは信じてあげてもいいわ。だから、これからも私の隣で、しっかりリライトの素材になりなさいよね」
「うん。よろしく、結衣」
湊が少し照れくさそうに笑うと、結衣もまた、恥ずかしさを隠すように、けれども嬉しそうに小さな笑みを漏らした。二人の間にだけ流れる、甘酸っぱくも心地よい沈黙。
ノートPCを抱えた二人は、お互いの距離感に少しだけ照れながら、再び階段を上ってライティング部の部室へと戻った。
「先輩、持ってきました」
湊が部室のドアを開け、結衣と共に中へ一歩足を踏み入れた、ちょうどその瞬間だった。
トントン、と背後から規則正しい、硬いノックの音が響いた。
二人が驚いて振り返ると、同時に部室の扉が静かに開く。そこに立っていたのは、夏用ポロシャツを寸分の乱れもなく着こなした少年だった。腕には「生徒会」と染め抜かれた腕章が光っている。
二年生の生徒会副会長、滝沢怜央。
一見すると丁寧で物腰が柔らかそうな、けれど議論の核心では一切の妥協を許さない実務派の秀才が、部室の入り口に佇み、眼鏡の奥の冷徹な瞳を、戻ってきた二人、そして室内の部員たちへと向けた。




