01.6.リライトされる明日
校舎の廊下に、夕闇が静かに降り積もっていた。
部室を後にした湊の耳の奥には、まだ涼香の「合格よ」という柔らかな声が残響として響いている。それと同時に、隣を歩く結衣が放つ、張り詰めたような沈黙の重みも感じていた。
昇降口へと続く階段を下りる二人の足音は、静かな校舎に不揃いなリズムで反響した。
先に口を開いたのは、結衣だった。
「……納得いかないわ」
その声は、一歩ごとに床を叩くローファーの音よりも鋭かった。彼女は正面を見据えたまま、一度も湊と視線を合わせようとはしない。
「部長が何を意図してあなたを認めたのか、私には理解できない。あなたのあの文章は、読者に対する配慮が欠けている。ただの独りよがりな独白よ。それを『問い』だなんて……あんなの、ライティングとは呼べないわ」
湊は、言葉に詰まった。彼女の言うことはもっともだった。自分の書いたものは、技術的にも論理的にも、結衣の完璧な文章とは比べものにならない。
「……そうだね。自分でも、あんなのでいいのかなって思ってる」
「思っているなら、直しなさいよ」
結衣が不意に足を止め、湊を射抜くような目で見つめた。
「言葉を外に出すということは、誰かの時間を奪うということ。中身のない言葉を垂れ流すのは、暴力と同じよ。……でも、部長が合格と言った以上、あなたは私の同期になる。足を引っ張ることだけは許さないから」
彼女はそれだけ言い捨てると、スカートを翻して先に校門へと向かっていった。その背中は、夕日に照らされて長く伸び、どこまでも真っ直ぐだった。
湊は、自分の胸の中に残った熱い感触を確かめるように、制服のポケット越しにタブレットに触れた。結衣に突き放された冷たさよりも、自分の言葉を「あなたがいる」と認められた喜びが、今はまだ勝っていた。
校門を出ると、桜ヶ瀬川の堤防沿いは、街灯に照らされた夜桜の並木道へと姿を変えていた。
羽明橋の袂まで来ると、昼間に別れた柏木が、スマホをいじりながら街灯の下に立っているのが見えた。
「おーい、湊!遅いぞ、どこ行ってたんだよ」
「あ、柏木……。ごめん、ちょっと寄り道してて」
「寄り道って……お前、そんなに真剣な顔して、もしかしてどっかの部活に勧誘されてたか?」
柏木は湊の顔を覗き込み、不思議そうに首を傾げた。
「なんか、入学式の時より少しだけ、顔つきがマシになった気がするぜ」
「そうかな」
「ああ。空っぽな奴は、そんな風に誰かに怒られたみたいな、悔しそうな顔はしないもんだ」
柏木の無邪気な言葉が、湊の胸にすとんと落ちた。
悔しい。確かに、自分の中にそんな感情が芽生えていることに気づく。結衣に否定されたこと、自分の技術が追いつかないこと。けれど、それは「何もない」ことよりも、ずっと確かな手応えだった。
「柏木……僕、部活決めたよ」
「マジか!どこだよ、サッカー部か?それとも……」
「ライティング部。文章を書く、部活なんだ」
柏木は一瞬、きょとんとした表情を浮かべ、それから「お前らしいな」と豪快に笑った。
「よくわかんねーけど、お前が自分で決めたならいいんじゃねーの。翠明は『自主自立』なんだろ?」
二人は、夜の桜並木を歩き出した。
家路につく足取りは、朝よりも少しだけ軽かった。
湊は、ポケットからタブレットを取り出し、歩きながらメモアプリを開いた。そこには、先ほど入部テストで書いた「自分自身の声」が残っている。
(この文章を、リライトしなきゃいけない)
それは、自分自身を書き直す作業でもあるのだ。
結衣という厳格な赤ペンと、涼香というミステリアスな導き。そして、この桜ヶ瀬という街の情景。それらがこれから、自分の白紙の日常をどう彩っていくのか。
見上げた夜空には、散り始めた花びらが雪のように舞っていた。
昨日までの湊なら、それをただ「綺麗だ」と、誰かの言葉で片付けていただろう。
けれど今の彼は、その風景に似合う自分だけの言葉を探し始めていた。
明日になれば、またあの部室で、結衣の冷たい視線と向き合うことになる。
けれど、その視線さえも、今の湊にとっては自分を磨くための砥石のように思えた。
世界には、まだ僕に聞き取れない「音」が溢れている。
けれど、いつかその音を、僕だけの正しいリズムで書き留められる日が来るかもしれない。
佐倉湊の、長いリライトの物語が、今ここから始まった。




