10.1.潮風と未完成の下書き
八月下旬の鎌倉駅前は、容赦のない太陽の光と、どこか湿り気を帯びた熱気に包まれていた。夏休みも終盤に差し掛かっているというのに、観光客の波は途切れることがなく、周辺一帯の騒めきが蝉時雨と混ざり合って、じりじりと鼓膜を刺激してくる。
いつもなら翠明高校の狭い部室で、冷房の微かな稼働音と軽快なタイピング音だけを背景に原稿と向き合っているライティング部の面々が、今は江ノ電の改札前に集まっていた。
「みんな、揃っていますね」
三年の長谷川澪が、おっとりとした丁寧な口調で一同を見回した。彼女の周囲だけ、まるで涼しい風が吹いているかのような錯覚を覚えるほど、その佇まいは柔らかい。
「佐倉くん、慌てなくて大丈夫ですよ。まだ集合時間ではありません。ゆっくりで」
集合場所へ滑り込み、額の汗を拭っていた湊に向かって、澪は寄り添うように微笑みかけた。
「あ、はい……ありがとうございます、澪先輩。すみません、遅れそうになって慌ててしまって」
湊は実直な口調で頭を下げた。手にしたショルダーバッグのストラップを握り直す彼の視線は、どこか控えめだ。
今回の二泊三日の鎌倉・江の島合宿は、Webメディア「Writia」の活動の集大成として企画されたものだった。部室という日常の空間を離れ、完全な異郷の地で、限られた時間内に記事を作り上げる。それはライティング部にとって、かつてない大きな挑戦だった。
「おーい、湊!相変わらず真面目だなぁ。そんなにガチガチにならなくても、これから始まるのは最高の夏合宿だぞ!」
湊の肩をがしっと掴んだのは、同じく一年生の中野太陽だった。日焼けした健康的な肌に白い歯を覗かせ、フランクな笑顔を浮かべている。
「おいおい太陽、ただの遊びじゃないんだ。今回の合宿には、Writiaの今後を占う重要なミッションが課せられているんだからな?」
そう言ってハキハキとした自信満々の声を響かせたのは、二年の小野寺拓海だ。彼は手元のタブレット端末を軽く叩きながら、メンバーに視線を送った。
「鎌倉と江の島のデータはすでに用意してある。あとは現地でどうハメ込むかだよな」
「……撮れた。いい被写体が多くて撮りがいがある」
拓海の隣で、二年の高城陸が黙々と一眼レフカメラのファインダーから目を離し短く呟いた。彼の言葉数は極端に少ないが、その視線はすでに鎌倉の街並みの陰影を捉えている。
「にぎやかでいいわねぇ!ね、結衣ちゃん、凛ちゃんも、この男どもの暑苦しさに負けてられないわよ?」
二年の三村陽菜が、お節介な姉御肌らしい賑やかな口調で一年生の女子二人の肩を組んだ。
「陽菜先輩、移動だけで体力を消耗しては意味がありません。まずは冷静に目的を確認すべきです」
毅然とした論理的な口調で応じたのは結衣だった。背筋をぴんと伸ばし、乱れのない髪を揺らしながら、彼女は手帳に目を落としている。その涼しげな横顔には、一切の妥協を許さない知的な光が宿っていた。
「ウチ的にはさー、鎌倉の映えスポットとかマジでテンション上がるんだけど!結衣、ちょっと硬すぎだって。もっとリズム上げていこうよ!」
凛が、今どきの女子高生らしい感性で、速いテンポの口調で笑った。彼女の明るい声が、駅前の重苦しい熱気をわずかに和らげる。
「タスクを確認します。今は鎌倉駅前での集合、このあとのスケジュールも予定通り行う予定なので、皆さん、ハメを外しすぎないように」
事務的で簡潔な声が全員の視線を集めた。二年の早乙女志乃が、感情をあまり表に出さず、淡々とスケジュール表を掲げる。
緊張感が一気に高まる中、改札の向こうから、穏やかでありながら独特の重みを持った声が響いた。
「みんなおはよう。準備は完璧?佐倉くん、慌てていたみたいだけど大丈夫?」
部長の神崎涼香が、包み込むような話し方で湊に視線を送った。彼女の言葉はいつも、湊の内面を見透かしているかのように深く響く。
「おはようございます。夏合宿だからと言って、羽目を外してはいけません。私たちの文章には責任が伴います」
涼香の隣に立つ顧問の國分悟が、威厳のある厳格な教師口調で、全員を冷徹に見据えた。
「いいですか、今回の合宿は単なる親睦会ではありません。男女の二チームに分かれ、この鎌倉・江の島を舞台に、Writiaの特別企画記事を執筆してもらいます。審査を行うのは私と神崎さんです。限られた二泊三日の期間内に、『取材・執筆・推敲』というライティングの一通りの手順をすべて、高い水準で済ませることが求められます」
國分の無駄のない説明に、部員たちの間に緊張の走る音が聞こえるようだった。
「男子チームのリーダーは遠藤、女子チームのリーダーは長谷川です。宿舎は江の島近くに確保してあります。今から二日目の夜までに記事の形を作り、最終日の午前中にプレゼンテーションを行ってもらいます。言葉の重みを、形にしてみせなさい」
國分の厳格な宣言とともに、Writia夏の合宿の幕が切って落とされた。
「いいか湊、そんなに緊張するな。どんな良い言葉も、届かなきゃ意味がない。でも、戦略を練ればそれが出来る」
三年の遠藤駆が、爽やかで快活な体育会系の口調で、湊の背中をぽんと叩いた。論理的でありながら親しみやすい彼の言葉は、男子チームのリーダーとしての覚悟に満ちていた。
江ノ電の切符を手にし、ホームへと向かう人波の中で、湊は自然と結衣の姿を探していた。女子チームのメンバーとこれからの計画について短い言葉を交わしている結衣は、相変わらず凛としていて、迷いがないように見えた。
その姿を見つめるだけで、湊の胸の奥には、微かな焦りと喪失感に似た感情が湧き上がってくる。
論理的で、いつでも正しい言葉を紡ぎ出すことができる結衣。それに比べて、自分はいつも自分の感情の処理に手一杯で、下書きの段階から言葉が散らかってしまう。今回の合宿で、自分は本当にチームの役に立てるのだろうか。上級生たちの圧倒的な実力を前に、自分の筆力のなさが露わになってしまうのではないかという恐怖が、潮風に乗って心に忍び込んでくる。
ふいに、結衣が足を止め、振り返った。
その視線が、真っ直ぐに湊を捉える。
結衣は一歩だけ湊の方へと歩み寄ると、周囲に聞こえないほどの小さな、けれどはっきりとした声で言った。
「負けないわよ、湊」
いつもの毅然とした口調の中に、微かな熱が混ざっているのを、湊の耳は確かに捉えていた。一年生同士、部活に入ってから何度もリライトの作業を通じてぶつかり合ってきた。彼女のその言葉は、挑発というよりも、湊に対する彼女なりの激励であり、期待の表れなのだと、湊の内面が敏感に察知する。
「……うん。僕も、精一杯頑張るよ、結衣」
実直にそう応じた湊の言葉を聞くと、結衣は満足したように小さく頷き、すぐに凛たちの待つ女子チームの輪へと戻っていった。
彼女の背中を見送りながら、湊はショルダーバッグの中で出番を待つノートの手触りを確かめた。結衣の存在が離れていくことに、胸の奥が少しだけ寂しいと悲鳴を上げる。けれど同時に、彼女の言葉が、湊の心にある「感情的な下書き」に、確かな熱を吹き込んでいた。
緑色のレトロな車両が、ガタゴトと音を立ててホームに入ってくる。鎌倉の歴史ある街並みを抜け、海岸線へと続く線路の向こうには、どんな言葉の戦いが待っているのだろうか。
男子チームのメンバーとともに車両に乗り込みながら、湊は窓の外に広がる夏の終わりの青空を見つめていた。潮の匂いが一段と強くなり、遠くで波の砕ける音が聞こえた気がした。昨日までの頼りない自分を書き直すための、長い二泊三日が、今、動き始めようとしていた。




