09.6.夕映えのやきもち
午後四時を回り、斜面を滑り落ちる西日が、雑木林の木々を長い影へと変えていた。
小川での瑞々しい「仕入れ」を終えた三人は、再び図書館のグループ学習スペースへと戻っていた。冷房の風が、火照った肌に触れた水分を優しく奪っていく。
円卓の上には、ひまりの自由研究ノートが広げられていた。
そこには、もはや午前中のような、行き場を失ってぐちゃぐちゃに淀んだ文字の塊はどこにもなかった。結衣がレポート用紙に引いた『宝探しの地図』に導かれ、ひまりの鉛筆は、迷いのない軌跡を描いて紙面を走っていた。
「……できた!」
ひまりが、手にした鉛筆を机の上にコトリと置いた。
完成したノートのページには、美しい論理の骨組みが通っていた。
冒頭には、桜ヶ瀬川にはきれいな水にしか住めない生き物がたくさんいるという明確な「結論(問題提起)」が掲げられている。それに続くのは、図鑑のコピーではない、ひまり自身の身体が覚えている具体的なエピソードだ。水面を滑るアメンボが作った小さな丸い波、光を跳ね返す鏡のような水面。そして、ひっくり返した石の裏で見つけた、怒ってバンザイをする力強いサワガニのチクチク、カサカサとした確かな感触。
さらにノートを彩っていたのは、文章だけではなかった。
ひまりの小さな手によって描かれた、色鮮やかなスケッチが余白を埋めていた。泥の奥で見つけたサワガニの甲羅は、結衣が呟いた言葉の通り、まるで『桜ヶ瀬の夕焼け』のような深い赤色の色鉛筆で丁寧に塗られている。川べりで見つけた名もなき夏草の青さや、水面を渡る風のきらめきまでが、ひまりの素直な感性で視覚化されていた。
「完璧ね」
結衣がそのノートを覗き込み、短く、しかし最大限の賛辞を口にした。その瞳には、一人の書き手が自らの本音を完全にデリバリーしきったことに対する、ジュニア校閲者としての深い敬意が浮かんでいた。
「ひまりちゃん、本当にすごいよ。僕が最初に書いた記事なんかより、何倍もロジックが通っていて、何より読んでいてワクワクする」
湊が本心から褒めると、ひまりは少し照れくさそうに、でも誇らしげに胸を張った。
「うん!湊と結衣が教えてくれたから、私、自分が何にびっくりして、何が楽しかったのか、ちゃんと分かったの。これなら、新しい学校の先生にも、クラスのみんなにも、絶対に伝わると思う!」
荷物をまとめ、図書館の重厚なガラス扉を出たとき、街にはちょうど午後五時のチャイムが響き渡っていた。
どこか物悲しい、でも温かいメロディが、夕暮れの桜ヶ瀬の街に優しく溶けていく。
太陽はすでに西の山並みへと傾き、昼間の容赦のない白熱光は、街全体を燃やすような、濃密なオレンジ色の夕映えへと上書きされていた。アスファルトの熱もいくらか和らぎ、川下から吹き上げてくる風が、三人の髪を柔らかく揺らす。
ひまりの自宅は、図書館から住宅街に入ってすぐの場所にあった。
まだ新築の匂いが残る一軒家の玄関の前まで送り届けると、ひまりは大切そうに両手で抱えていたリュックサックをきゅっと握りしめ、二人の正面に向き直った。
「湊、結衣。今日は本当にありがとうございました!」
小さな体を深く折り曲げて、ひまりは丁寧にお辞儀をした。新しい街での孤独と、終わらない宿題への不安に泣いていた午前中の面影は、その笑顔のどこにも残っていない。
「ううん、僕たちの方こそ楽しかったよ。新学期、自由研究を出すのが楽しみだね」
湊がひまりの目線に合わせて、優しく微笑みながら腰を落とした、その瞬間だった。
「うん!私、湊のこと、だーい好き!」
無邪気な声と共に、ひまりが小さな体を弾ませて、湊の胸元へと飛び込んできた。
「えっ――!?」
突然の肉体的な衝撃に、湊の思考が真っ白に染まる。ひまりの小さな両腕が、湊の首のあたりにぎゅっと回され、彼女の麦わら帽子から香る、夏の草と太陽の匂いが鼻腔をいっぱいに満たした。最後まで自分に寄り添い、宝探しの言葉を一緒に探してくれた湊への、小学生らしい、一切の計算のない純粋な好意の証明。
湊は、両手をどうしていいか分からず、空中で泳がせながら真っ赤になって硬直してしまった。
「ふふ、じゃあね!」
ひまりは満足したようにパッと体を離すと、今度は結衣に向かって可愛らしく手を振った。
「結衣も、バイバイ!また図書館でね!」
「ええ……。またね、ひまりちゃん」
結衣はどこか複雑な表情のまま、小さく手を振り返した。ひまりはそのまま、軽い足取りで玄関の扉を開け、「ただいま!」という元気な声を残して、家の中へと滑り込んでいった。カチャン、と静かに扉が閉まり、住宅街に再び十七時の静寂が戻る。
ひまりの姿が見えなくなった後も、湊はしばらくの間、赤くなった顔のまま立ち尽くしていた。心臓の鼓動が、自分の耳に届くほどうるさく脈打っている。
「……いつまでそうしているつもり?」
低く、どこか刺すような冷気を含んだ声が、隣から降ってきた。
湊がハッと我に返って隣を見ると、結衣は日傘を畳み、それを両手で胸の前に抱え込むようにして持っていた。その端正な横顔は、夕日のオレンジ色に照らされているはずなのに、なぜか微かに不機嫌そうな、尖った空気をまとっている。
「あ、いや、その、びっくりしちゃって……」
「ふん。ずいぶんと懐かれていたものね、湊」
結衣は歩き出し、湊の前を数歩先行した。歩調がいつもより少しだけ速い。
「ああいう、小さい女の子の扱いだけは上手いのね。部室ではいつも私の指摘にオロオロしているくせに、今日はまるで頼りがいのあるお兄ちゃん気取りじゃない」
「そんな気取りなんてしてないよ!ただ、従兄弟たちと遊んでいたときのことを思い出しただけで……」
「別に言い訳なんて聞いていないわよ。ただの事実を指摘しただけ」
結衣は振り返ることもなく、ぶっきらぼうに言葉を返した。
二人は、住宅街を抜けて、街を一望できる羽明橋の上へと差し掛かっていた。
川面は夕日の光を全面に浴びて、まるで敷き詰められた琥珀のように、激しく、美しくきらめいている。川風が二人の間を吹き抜け、湊のTシャツの裾と、結衣の薄手のブラウスを同時に揺らした。
結衣は、橋の欄干の前にふと足を止め、夕日に染まる桜ヶ瀬川をじっと見つめた。
その横顔を見た瞬間、湊は言葉を失った。
結衣の白い頬は、夕日のせいだけではなく、明らかに、ほんのりと赤く染まっていた。彼女は小さく唇を尖らせ、自分の日傘の先端で、橋のコンクリートの床をコツコツと小さく叩いている。
それは、部室での論理的な彼女からは絶対に想像できない、等身大の高校生としての、いや、一人の少女としての、隠しきれない「やきもち」の仕草そのものだった。
「結衣……?」
湊が恐る恐るその名前を呼ぶと、結衣は弾かれたように顔をこちらに向けた。その大きな瞳には、いつもの理性の光ではなく、自分の内側のコントロールできない感情に戸惑うような、甘酸っぱい微熱が灯っていた。
「何よ、湊」
「あの……怒ってる?」
「怒ってなんかいないわよ!なんで私が怒らなきゃいけないの?私はただ、ひまりちゃんがあなたにばかり抱きついて、私にはバイバイだけだったのが、その、少しだけ……ほんの少しだけ、納得いかないだけよ」
結衣は早口で捲し立てると、ふいっと顔を背けて、再び川面へと視線を逃がした。
「……ひまりちゃん、結衣のことも大好きだって言ってたよ。ノートを見て、お姉ちゃんすごいって、目がきらきらしてた」
「……本当に?」
「うん。僕の唐揚げを欲しがったのは、単に食い意地が張ってただけだし。ひまりちゃんが最後まで頑張れたのは、結衣が最初に、絶対にブレない綺麗な地図を引いてくれたからだよ。やっぱり、結衣はすごいよ」
湊が飾らない本音を伝えると、結衣の叩いていた日傘の動きが、ピタリと止まった。
沈黙が、二人の間に流れる。
それは、午前中の図書館での気まずい沈黙とは、全く違う色を帯びていた。夏の終わりの始まりを告げるような、夕暮れの風の中で、お互いの体温が、言葉の境界線を越えて静かに交鳴しているような、息の詰まるような、甘酸っぱい沈黙。
「……あなたって、本当に」
結衣は川を見つめたまま、蚊の鳴くような声で呟いた。
「本当に、そういう余計なことを、さらっと言うんだから……」
彼女の耳の縁までが、夕日の赤さに完全に同化していくのを、湊はただじっと見つめていることしかできなかった。
夕方の風が、二人の間を通り抜けていく。
部活動のない、夏休みの静かな一日。しかし、二人の距離は、この長く伸びた影の先で、確かに、そして二度と戻らないほど深く、縮まり始めていた。




