09.1.乾いた街と冷房の海
八月上旬の太陽は、容赦という言葉を知らない。
午前十時を回ったばかりだというのに、桜ヶ瀬の街を包む空気はすでに熱を帯び、沸騰した湯気のように肌へまとわりついてくる。歩道のアスファルトからは陽炎がゆらゆらと立ち上り、遠くの景色を歪ませていた。街を二分するように流れる桜ヶ瀬川のせせらぎも、この容赦のない日差しの下では涼をもたらすには至らず、むしろ湿った熱気を周囲に滞留させるだけの装置になり下がっている。
いつもなら多くの生徒で行き交う翠明高校の通学路も、夏休みに入ってからは人影がまばらだった。ライティング部の活動は、この長期休暇中も定期的に行われている。Webメディア『Writia』の翠明高校ページを維持するためには、常に新しいコンテンツを供給し続けなければならないからだ。しかし今日はその定期活動日ではなかった。
湊は、首筋を伝う汗をTシャツの袖で拭いながら、重い足取りで坂道を登っていた。
本来なら、部活動のない日くらいは冷房の効いた自室で怠惰に過ごしても誰も文句は言わないはずだった。だが、湊のリュックサックの中には、ずっしりと重い市販のライティング参考書が収まっている。手元には、ほんの数日前にもたらされた確かな結果の記憶があった。
結衣と共に幾度もの衝突を繰り返し、文字通り夜遅くまでリライトを重ねて完成させた、桜ヶ瀬川の夏祭りに関する記事。それは『Writia』に公開されるや否や、校内の生徒だけでなく、学外の不特定多数の読者からも大きな反響を呼んだ。読者が最後まで熱量を持って文章を読み進めた証である「栞」の数は、これまでにないほどの数字を叩き出していた。
さらに、二年生の高城陸がファインダー越しに切り取った、暗闇の中、大輪の花火を見上げる湊と結衣の後ろ姿を捉えた一枚は、地元の広報誌の編集者の目に留まり、次号の表紙を飾ることが正式に決まっていた。
思い出すだけで、耳の裏が熱くなるような気恥ずかしさが込み上げてくる。それと同時に、自分の中にある未熟な部分が、その成果の大きさに追いついていないという焦燥感もあった。
あの記事が高評価を得たのは、結衣の論理的な赤入れと、陸の圧倒的な写真の力があったからだ。自分一人の力では、まだ誰かの心を動かすような文章は書けない。
だからこそ、活動のない今日という日を無為に過ごすわけにはいかなかった。ただ純粋に、もっと伝わる言葉を紡げるようになりたい。そのための技術を、少しでもこの手に馴染ませたいという一念が、湊の背中を突き動かしていた。
目指す目的地は、坂の頂上近くに佇む市立桜ヶ瀬図書館だった。
重厚なガラス扉を押し開けると、それまでの不快な熱気が嘘のように消え去り、ひんやりとした冷房の海が湊を迎えた。
静寂、という名の心地よいノイズが空間を満たしている。微かに漂う古い紙の匂い、時折聞こえるページをめくる乾いた音、そして誰かがキーボードを叩く規則正しいタイピング音。それらすべてが、外の世界の喧騒を忘れさせてくれる。
湊はカウンターで利用手続きを済ませると、参考書を開くのに最適な、閲覧室の奥にある個人用の学習スペースへと向かった。仕切りのついた机が並ぶそのエリアは、静かに集中したい人間にとって格好の場所だった。
空いている席を探して視線を巡らせていた湊は、ある一角で、不自然に動きを止めた。
窓際から差し込む柔らかな光の中に、見覚えのある綺麗な黒髪が揺れていた。
結衣だった。
いつも部室で見せる、ネイビーの制服をきっちりと着こなした姿とは違い、私服の薄手のブラウスを身にまとっている。その白さが、彼女の知的な横顔をいっそう引き立てていた。机の上には自身のノートパソコンが広げられ、画面に映し出されたテキストを、いつもの鋭く論理的な眼差しで見つめている。
部活動の集まりがない日に、まさかこんな場所で遭遇するとは思ってもみなかった。
花火大会を経て、お互いを下の名前で呼び合うようになってから、まだそれほど日は経っていない。部室という共通の舞台を離れた途端、どのように声をかけていいのか分からず、湊は数秒間、その場に立ち尽くしてしまった。
そのまま引き返そうかとも思ったが、床の僅かなきしみのせいか、結衣がふと顔を上げた。
視線が、真正面から交錯する。
結衣は一瞬だけ、大きな瞳を丸くして驚いたような表情を見せたが、すぐにいつもの冷静な、すまし顔に戻った。そして、自身の隣にある空席を、顎で小さくしゃくってみせた。座りなさい、という無言の指示だった。
湊は緊張で喉が鳴るのを抑えながら、足音を立てないように注意して彼女の隣の席へと進み、リュックサックを下ろした。
「……奇遇、だね」
周囲の静寂に配慮し、蚊の鳴くような声で囁くと、結衣はパソコンの画面から目を離さないまま、小さな声で応じた。
「私はいつも、夏休みの午前中はここで作業することにしているの。自宅だと、あんまり集中できないから。それより、湊こそどうしてここに来たの?宿題かしら?」
「いや、ちょっと、ライティングの勉強をしようと思って。前の記事、結衣にたくさん直してもらったから、もう少し自分でもロジックの組み立て方を復習しておきたくて」
湊がリュックから市販の参考書を取り出すと、結衣は一瞬だけタイピングする手を止め、その表紙に目をやった。彼女の唇の端が、ほんの僅かに上がったのを湊は見逃さなかった。
「ふん……。その意気込みだけは認めてあげるわ。でも、そんな一般論ばかり書かれた本を頭から丸暗記しても、実戦じゃ使い物にならないわよ」
「手厳しいな。まだ開き始めてもないんだけど」
「事実を言っているだけよ。まあ、分からないところがあるなら、隣に優秀な校閲者がいるんだから、遠慮なく聞きなさいよね」
そう言って、結衣は再び画面へと視線を戻した。ぶっきらぼうな口調ではあったが、その言葉の裏にある彼女なりの気遣いが伝わってきて、湊の胸の奥が少しだけ温かくなる。
お互いにそれ以上の言葉は交わさず、それぞれの作業へと没頭し始めた。
結衣の指がキーボードを叩く小気味よい音が、一定のリズムで鼓膜を叩く。湊も参考書を開き、ノートにペンを走らせる。部室でのスパルタな指導のときとは違う、どこかぎこちなくも、不思議と心地よい沈黙が二人の間に流れていた。時折、結衣のブラウスから微かに香る、石鹸のような清潔な匂いが鼻腔をくすぐり、湊は無意識のうちに姿勢を正した。
そんな、甘酸っぱさを孕んだ静寂が崩れたのは、それから三十分ほどが経過した頃だった。
二人が座る席から少し離れた、児童書コーナーに近い閲覧用の長机から、微かな、しかし断続的な、鼻をすするような音が聞こえてきた。
最初は気のせいかと思ったが、音は次第に熱を帯び、明確な「泣き声」へと変わっていく。
湊が鉛筆の手を止め、そちらへ視線を向けると、結衣も同じようにパソコンから顔を上げていた。
そこには、一人の小さな少女が座っていた。
年齢は十歳前後、小学校の中学年くらいだろうか。麦わら帽子を机の脇に置き、小さな肩を小刻みに震わせている。彼女の前には、一冊の大きな昆虫図鑑と、キャラクターがプリントされた自由帳のようなノートが広げられていた。
少女はペンを握ったまま、ノートに広がる自身の文字を見つめ、大粒の涙をぽろぽろとこぼしていた。周囲の大人たちは、その様子を気にかけつつも、どう関わるべきか測りかねているようで、遠巻きに見守るだけの重苦しい空気が漂っている。
少女の手元にあるノートには、ぐちゃぐちゃに引かれた消しゴムの跡と、行き場を失ったように羅列された文字の塊が見えた。
「……何か、困ってるのかな」
湊がぽつりと呟くと、結衣はすでに椅子の引く音を最小限に抑えながら、立ち上がろうとしていた。その瞳には、いつもの冷徹な論理ではなく、困惑する者を放っておけない、彼女の本質的な優しさが灯っていた。
「見に行ってみましょう」
結衣の短い促しに、湊も深く頷き、後に続いた。午前十半の冷たい閲覧室で、二人の夏休みは、思いがけない方向へと動き出そうとしていた。




