04.2.「ペルソナ」という名の鏡
翌日の放課後。五月の陽光が窓から差し込む部室では、昨日の喧騒が嘘のような、どこか張り詰めた空気が漂っていた。
「いいか、記事っていうのは、誰にでも届く魔法の杖じゃない。むしろ、特定の誰かに向けて放つ矢なんだ」
教卓代わりの長机に腰掛け、不敵な笑みを浮かべているのは二年生の小野寺拓海だ。その隣では、副部長の遠藤駆が腕を組み、静かに頷いている。今日は二年生と三年生による、新入部員のためのライティング講義の日だった。
「特定の、誰か……」
湊は手元のノートにその言葉を書き留めた。拓海はホワイトボードに、大きく『ペルソナ』と書き殴る。
「そうだ。万人に向けた言葉は、結局誰の心にも刺さらない。だから、まずは『たった一人』を想像するんだ。名前、年齢、悩み、将来の夢……その人物像を極限まで具体化したものが、マーケティング用語で言うところの『ペルソナ』だぞ」
「たった一人に……。でも、それだと他の人に読まれなくなっちゃいませんか?」
「逆だ」
駆の声が響く。
「一人の心に深く刺さった言葉は、同じような悩みを持つ大勢の心にも波及する。これを『ベネフィットの提示』とセットで考えるんだ。読者がその記事を読んだ後、どんな『得』をするか。どんな風に自分の未来が変わるか。それを提示しない文章は、ただの時間の浪費だぞ」
湊は、昨日結衣に言われた「報告書に過ぎない」という言葉を思い出していた。自分はサッカー部の紹介を書こうとしていたが、それは単なる部員の紹介だった。そこを読んだ「誰か」がどうなれるか、までは考えていなかったのだ。
「ターゲットを、自分じゃない『誰か』に固定しろ。それが世界のルールだ」
拓海の断定的な言葉が、湊の胸に重く沈んだ。
「そして、そのペルソナが決まったら次に考えるのが『ベネフィット』。つまり、その記事を読むことで読者が得られる利益のことだ」
駆が言葉を引き継いだ。
「ただの事実の羅列はニュースでしかない。読者が知りたいのは、その活動を通じて『自分がどうなれるか』だ。サッカー部の記事なら、部員の凄さを自慢するんじゃなく、読んだ奴がサッカー部に入った後の自分をイメージできるように書くんだ。届かなきゃ、どんな良い言葉も意味がないからな」
湊は、昨日見た自分の記事の数字を思い出した。僕の文章には、その「誰か」がいなかった。ただ、自分が見た景色を自分のために書いていただけだったのだ。
講義が終わると、部室内には各自の作業時間が訪れた。太陽と凛は「吹奏楽部のペルソナって、やっぱキラキラ系女子かな?」「いや、意外と中学生時代の未練があるタイプじゃない?」と賑やかに議論を始めている。
湊は一人、タブレットの真っ白な画面と向き合っていた。サッカー部と言えば柏木、更にこの学校にはエースストライカーと呼ばれる人物もいるようだ。彼らの何を、誰に届ければいいのか。
「……悩んでいるようね」
不意に横から声をかけられ、湊は肩を揺らした。いつの間にか、隣の席に結衣が座っていた。彼女もまた、ダンス部の記事の構成案を作っているようだった。
「瀬戸口さん。……うん、ペルソナって言われても、なかなか絞り込めなくて。柏木たちのことを書こうとすると、どうしても全部伝えなきゃって思っちゃうんだ」
結衣は無表情のまま、湊の画面を覗き込んだ。
「欲張りなのよ、あなたは。情報を詰め込むのは、自分が何を伝えるべきか決断できていない証拠。……柏木くんだっけ?友達に甘えた記事を書いたら、私が赤字で埋め尽くしてあげるから覚悟しておいて」
「う……。厳しいな」
湊は苦笑いしたが、結衣の指先が微かに震えていることに気づいた。彼女の画面には、緻密すぎるほどに組み上げられた構成案がある。しかし、その先の一行目が、何度も打たれては消されていた。
「瀬戸口さんこそ、進んでないみたいだけど」
「……私は、あなたとは違う。言葉の一つひとつに、間違いがあってはならないと考えているだけ。不確かな感情に頼らず、論理的に構築する。それが私のスタイルよ」
結衣は突き放すように言ったが、その声には、「言葉への責任」ゆえの、どこか強迫観念に近い慎重さが滲んでいた。彼女もまた、完璧を求めるがゆえに、書き出すことに怯えているのではないか。
「でも、瀬戸口さんの言葉は、いつも僕を動かすよ。正しいだけじゃなくて、なんだろう……すごく、強いから」
「……余計な分析はいいから、自分の心配をしなさい。ターゲットを一人に絞る。それができないなら、明日からの取材は時間の無駄になるわ」
結衣は視線を画面に戻し、より一層速いリズムでキーボードを叩き始めた。まるで、自分の中にある迷いを打ち消そうとするかのように。
湊は再びホワイトボードの『ペルソナ』という文字を見つめた。
彼にとっての『ペルソナ』をどんな人物にするかはまだ固まっていない。しかし、自分と同じように、何かに打ち込みたいけれど、きっかけを掴めずにいる誰か。教室の隅で、自分の「空っぽさ」を誤魔化しながら、誰かの熱狂を眩しく眺めている誰か。
そんな「過去の自分」のような人物を想像したとき、凍りついていた湊の思考が、ゆっくりと動き出した。
窓の外では、夕暮れの桜ヶ瀬がオレンジ色に染まり始めている。部室を包むタイピングの音は、四人それぞれの決意を刻む鼓動のように響いていた。
明日、戦場(現場)へ向かう。
「誰かのため」の言葉を、拾い上げるために。




