第1話 憧れの主君死亡から聖域への帰還
我が主君、公爵令嬢エレノア様は私のせいで亡くなった。
私は今、工房の扉の前に立っている。
張り詰めた精神が、今にも粉々に砕け散りそうだった。
あの方が命を賭して我々を救ってくださった。救われたが、失ったものは計り知れないほど大きかった。
それほど長い時間が経ったわけでもないのに、ここはひどく懐かしく、そして、温かい。
扉の向こうのアイツは、今日も相変わらず鉄を打っているのだろうか。
(あぁ、ひどくアイツの顔が、トトの顔が見たい)
「……疲れたな」
疲れた……本当に……。何も考えたくはないが、すぐに頭の中はエレノア様へと飛んでいく。
私が騎士になったのは、エレノア様を守りたかったからだ。それなのに、私のせいでエレノア様はいなくなってしまった。私は騎士団長にまでなって、一体何をしていたんだろう。
そんな後悔ばかりが津波のように押し寄せてくる。
私にできることは、彼女の遺したこの国をこれから守っていくことだけだ。
(……そうだ、私は騎士団長なのだから……これが私にできる贖罪だ)
けれど、そんな現実を受け入れ切れず、そっと目を閉じる。休みたい、とにかく今は休みたい。
私は整髪料で固めた前髪を乱暴に崩し、騎士団長の仮面を脱いだ。血にまみれた白い手袋をゆっくりと外し、墨の染み付いた素手を見つめる。ため息を一つついた。
そして、工房の扉を開けた。ギギギ、と鈍い音がする。
まだ、修理していなかったんだな……そんなことをぼんやりと考えていた。
ふわりと鉄を焼く焦げ臭い匂いが鼻腔をくすぐる。鍛冶場の炎に、煤や埃がキラキラと輝いていた。パチパチと爆ぜる炎の奥に、煤で汚れた作業着を着たアイツの背中を見つけた。
カツーン、カツーン。
ハンマーが鉄を叩くリズムのいい音が私の心に響き、冷え切っていた手に血が蘇ってくるようだった。
「……トト」
背中にそっと声をかける。気づいていないのか、反応がない。
彼女は右手で額に流れる汗を拭っている。栗色のポニーテールが、鉄を打つリズムに合わせるようにゆらゆらと揺れていた。まるで、猫の尻尾のようだ。
「……トトちゃん!」
少し声を大きくすると、トトはビクッとしてこちらをゆっくりと振り返った。大きな猫のような琥珀色の瞳をさらに丸くして、驚いているようだ。
「……ジル! わー! びっくりした。久しぶりだねー! おっかえりー!」
そう言って、眉を下げたお馴染みの笑顔で私を迎えてくれた。その笑顔と、明るい陽だまりのような声に、沈んでいた心が工房の炎のように温まっていく。
「……あぁ、ただいま」
私はそれだけ言って、全身傷だらけで、泥や返り血を浴びた鎧のまま、いつもの自分の席に座った。
「……わー、ひどいね。疲れたでしょ。とりあえず何か食う?」
「ジルの好きなスープ、昨日作ったんだよー」とケラケラと笑いながら、道具を作業台に置いてゆっくりと立ち上がるトト。崩れた私の前髪を見て、右手でグシャグシャにかき回し、二カッと笑う。私はされるがままになり、頭を鳥の巣のようにされた。
「……ありがとう。頼めるか?」
「いいよいいよ。休んだらまた、手伝ってもらうからねー! あの鉄、重くてさ。ジルは力持ちでしょ!」
相変わらずちゃっかりしていて、思わず吹き出した。
トトの弾んだ声と屈屈のない笑顔、そして工房の温かさで、硬くなっていた背中の重みが少しずつ溶けていくのを感じた。
「……やっぱり、ここはいいな」
深くため息をつく。身体が急激に重くなってきた。眠い。ただただ、眠い。椅子の背もたれに身体を預けた。
「……トト」
「なにー?」
「……眠い」
「……あのね、言いにくいんだけど、起きてからでいいからそこ、椅子に泥がついてるから掃除しといてね。昨日掃除したばっかりなんだから」
トトの小言を鼻で笑い、安心しきった私はそのまま意識を手放した。
◇
どのくらい眠ったのだろうか。トトの声が意識の向こう側から聞こえてくる。
あれ、私は今どこにいるのだろうか。
移動中の馬車の中か。野営地のテントか。それとも、エレノア様が亡くなったあの場所か。
(……嫌だな。あそこには戻りたくない。私は……鉄の音がするここがいい)
「……ジル! ジル!」
声が大きくなる。意識が浮上していく。身体を揺すられ、ハッと目を開けた。
「やっと起きた! うなされてたよ。大丈夫?」
息が乱れていたのか、ハァハァと肩で呼吸をする。目の前には、心配そうに覗き込む作業着姿のトトがいた。
(あ、そうか。帰ってきたんだ)
「……トト? トト……あぁ、トトか……」
私は声の主を確かめるように、何度も彼女の名前を呼んだ。
「トトちゃんだよー!」
と、おどけながら手を振る彼女。
そのとき、鉄の匂いに混ざって、鼻腔にふわりと美味しそうな匂いが届いた。グツグツと鍋でスープが煮込まれている。私の大好きな、野菜とお肉のゴロゴロスープ(トトが『ジル汁』と名付けたもの)だ。ずっとこれが食べたかった。
「……」
私が黙ってキッチンを眺めているのに気づいたのか、トトがニコリと笑った。
「お腹空いたでしょ! スープ以外にも簡単だけどご飯作ったから食べようよ!」
トトがテーブルに向かう。手際よく、どんどん料理が並べられていく。いい匂いだ。グゥーと私の腹の虫が鳴いた。
「アハハ! 腹減ってんだろー! トトちゃんのご飯、大好きだもんね。いつもおかわりしてるんだから。白ご飯も多めに炊いといたよー!」
トトは膝を叩いて笑った。
「ほらほら、座れ!」
と、強引にテーブルにつかされる。
トトが茶碗に盛る白米の山を眺めていると、彼女の髪が猫の尻尾のようにピョコと跳ねた。
(……ああ、相変わらずだな)
そんな小さなことに気づいた自分に少しだけ呆れて、それから、やっぱり少しだけ笑みがこぼれた。
手に箸を持たされ、山盛りのご飯が一粒もこぼれないよう、茶碗に全神経を集中させる。
「よし、食うぞ! いっただきまーす!」
トトが元気よく食べ始めた。
戦場での食事はただの栄養補給であり、片手間に済ませる程度だった。じわりと唾液が溢れてくる。美味そうだ。トトのご飯ほど、これほど心が引きつけられる料理も久しぶりだった。
「いただきます」
一口、二口と、どんどん箸が進む。
心が温かいもので満たされていき、目頭に熱いものが込み上げて鼻の奥がツンと熱くなった。それが涙となってこぼれないように必死に堪え、ただ美味いトトの手料理を口に運んだ。久しぶりに、ちゃんと味のする飯を食べた気がした。
「フフフ……おかわりいる?」
トトが茶化すようにしゃもじを持ち、立ち上がる。もしかしたらトトは、私が泣きそうになっているのに気づいているのかもしれない。
私はキュッと唇を引き締め、
「ああ、頼む!」
と笑って答えた。
(……うまく笑えていただろうか)
「ジルはお茶淹れといてー! あ、熱いのは嫌だよ!」
お茶は、猫舌な彼女のためにぬるま湯の麦茶を注いでやった。
十四歳からの付き合いだ。トトの好みの温度は、すべて分かりきっている。




