壱の世界①
壱の世界――勇者の話――宿舎外の丘の上にて
雲一つない空には星が一面に散りばめられている。そして月明かりが、俺と俺の大切な人をただ朧気に照らしていた。
「……出てくる時、バレなかったよな、ルナ?」
「バレないようにとは頑張ったんですが……どうやら、メグさんにはバレてしまっていたみたいです。こんなものが扉に挟まってましたから」
そう言ってルナは一枚の紙切れを俺に差し出す。紙には、
『ユウによろしくね。あと、明日も早いんだからほどほどに』
と、クセのある字体で綴られていた。
「――なるほど。こいつはバレてるな」
「でもそもそも、ただ二人きりで会ってるだけですよ? 今更ユウさんやみんなとの間に後ろめたいこともありません」
ルナは少しだけ顔を赤らめ、愛らしい微笑みを向けながら俺の横に腰かける。つられてたぶん俺も笑顔になって――きっとルナの手の上に、自分の手を自然に重ねていた。ルナに会う前までは、明日のことで悪いイメージばかりが膨らんでガチガチに緊張していたが……その瞬間少しだけ、忘れられたような気がした。
俺たちはしばらく無言でただ手を握った。おそらくは何分間も、もしかすると何時間も。そして刹那、ルナの口が開く。
「いよいよ……明日ですね、ユウさん」
「だな。明日全てが終わる。ルナやみんなとの旅も含めて、な」
「やめてくださいよ、ユウさん。そういう話は全部に決着がついてからです」
ルナが静かな調子で――それでいて一種の強い決意を含んだ声を俺に届かせる。明日俺たち勇者一行は魔王討伐のために大魔王城に乗り込み、魔王『ロキ』と対峙する予定だ。
――☆☆☆――
異界『ランドウィル』。それが世界の名称であり、俺の元居た世界とは全く様子が異なる世界。高校二年生の春、俺は突如としてこの異世界へと送られた。
何の前触れもなく訪れた非日常に困惑していた俺は、為されるがままに『伝説の勇者』へと祭り上げられ……気づけば、宛われた仲間と共に魔王討伐の旅へと駆り出されていた。まるでRPGの主人公そのものの待遇だったが……如何にゲームの世界とは、現実的価値観を無視しているものかと思わざるを得なかった。
そもそも、この世界の住人たちは俺のことを『救世主』『伝説の勇者』と呼んだが……本音の部分ではかなり胡散臭がっていた。
そりゃそうだ。誰だってさっきまで普通の高校生をやっていた人間に勇者の気質など感じられるはずもない。言い伝えで「異世界から召喚された人間は魔王を倒す伝説の勇者」とあったとしても、その言葉にはそもそも何の確証もない。
形式上伝説の勇者となった「ヨソ者」に、いまだ半信半疑の城主が国一番の有能な人員を付き添わすはずもなく――俺に宛われたメンバーは、まさしくRPGにおけるレベル1に相応しい『賢者』と、『武闘家』と、『魔法使い』だった。
しかし、俺たちは――おそらくは誰の予想にも反して――各自の創意工夫で死線をくぐり抜け、「奇跡」とも言える現象にも助けられながら、誰も到達し得なかった魔王の膝元まで来ている。
――☆☆☆――
それにしても……はたして決戦前夜にルナとこんなふうに話すことになるなんて、この世界に召喚されたばかりの頃の俺は夢にも思わなかった。
初めて出会ったとき。俺が「伊佐見ユウ、よろしくな」と握手を求めた際には、うつむいて殆ど顔すら見てくれなかったあの頃の見習い賢者。冒険序盤は口数も少なく、どこか人見知りばかりしていた少女。その上、誰よりも臆病で、いつもビクビクしていたあのルナ。思えば当初、前髪は思いっきり目にかかり、後ろ髪は腰の中ほどまであり、比較的明るい髪色にも関わらず、どこか彼女は暗い印象を纏っていた。
それが今では勇者一行には絶対欠かせないメンバーとして、誰よりもちゃんと俺の目を見て、あの時には全然考えられなかった力強い決意を伝えてくれている。冒険の中盤でその栗色の髪はショートカットとなり、今まで見えなかった大きな蒼い瞳をはっきりと覗かせてからは、随分と纏う雰囲気も変わった。
ルナの定位置も、いつの間にか俺の背中の後ろから俺の左隣へと変わり、今にいたっては時々無意識に手さえ繋いで歩いている。周りの奴らにそれを指摘された際に、慌てて二人して顔を赤らめながら取り繕うことも最近多くなった。
――俺たちは、変わったんだと思う。
「少し……冷えてきましたね。ちょっとだけ、寒いです」
「…………そうだな」
ルナの手が震えているのがわかる。これは寒さから? いや、たぶん違う。
怖い気持ちと不安な気持ち。
明日魔王と対峙するのが怖くて。勝てるかどうか不安で。みんなが無事に帰れるか怖くて。全てが終わった後自分たちがどうなるのか不安で。これから起こる色んなことがとにかく怖くて。これからどんな生活が待ってるのかがとても不安で。
「ずっと旅が続いてくれたら良かった」
ルナはそんなことを決して口には出さない。魔王を倒して、世界を平和にして、|さっさと旅を終わらせるために《・・・・・・・・・・・・・・》旅をしてきたんだ。今更、終わりが怖いからずっと続いて欲しいなどと言えるわけがない。
しかし、終わることのない恒久の旅が続いてくれたならば、少なくとも今の関係から何かが変わることもなかっただろう。それくらいの考え、一番思っちゃいけないだろう『勇者』の俺にさえ浮かんでいるんだ。ましてやルナにそういった感情が芽生えないはずもない。
「ルナ、無理すんなよ? 俺の前だ、本音を言ったって誰も責めたりしねぇよ」
「む、無理なんてっ」
一瞬、体を跳ね上がらせるルナ。しかしすぐに落ち着いた口調で、
「無理なんて、してないですよ。それよりユウさんの方こそ、無理しないでください。わたしの前ですよ? 本音を言ったって誰もあなたを責めたりしません」
と、切り返してきた。
「あ、そういえば! これ、ちょっと作ってみたんです」
そう言って、ルナは裾から二組のミサンガを取り出す。
「はい、わたしの分と、ユウさんの分」
「何だこれ?」
「『キズナ』っていう薬草で編んだんです。丁寧に回復魔法も施したんで、滋養強壮効果とリラックス効果が期待されます! 無理をしているユウさんにはうってつけですよ」
人指し指を立て、ウィンクしながら無邪気にそんなことを言うルナ。
「む、無理なんてしてねぇ――」
「嘘」
何故だろう。普段は結構おっとりしてるくせに、こんな時に限ってルナはやたら鋭い。
「ユウさん、さっきからずっと目を合わしてくれないじゃないですか。緊張してる時とか無理してる時、いつも人と目を合わそうとしないって。わたし知ってるんですよ?」
「な、何だよ、それ。初めて聞いたぞ」
「初めて言いましたもん」
俺すらそんなことは知らなかったのに……こいつはよく見ている。
「これでもランドウィルの住人の中では一番、ユウさんと過ごした時間は長いって自負してるんですからね。ユウさんのことでわかんないことなんて、今更ないですよ」
「…………ルナ」
「ユウさんのことは今までずっと見てきました! あっ、勿論、これからもずっと見てますからね。無理してるなんてバレバレ――」
ルナの手を引き上げ、俺の方に寄せる。そして、抱きしめる。
「ひ、ひゃうっ!?」
「これでも……無理してるか?」
「…………無理、してます、よ」
ルナの体温が上がってるのがわかる。抱きしめてしまったから顔は見えないが、おそらくいつものルナなら真っ赤だろう。
「そうか?」
「だって、結局、目、合わせて、くれて、ないじゃないですか」
「……そうだな」
途切れ途切れに言葉を紡ぎながら、ゆっくりと俺の胴に手を回すルナ。いままで他の奴らの目が気になって、こんなことはとても恥ずかしくてできなかったけど……今は何故か自然に抱きしめている。
「これが最初で最後なんてごめんだぜ? 絶対に生きて」
「その先の言葉を聞くのもごめんです。…………だって、言わなくたって、当たり前じゃないですか」
ルナの手に、さっきよりほんの少し力が入る。
「みんなで旅を終わらせて、平和な世界で暮らすんです。勝手に一人でどっか行っちゃったら、わたし、承知しないんですからね?」
「行くわけねぇだろ」
本気で惚れた女残して――
初めて触れた唇は、決戦前には少し贅沢すぎた。