陸の世界③
陸の世界――魔王の話――砂浜にて
「……うぅ……げほっ、げほっ……ここ、は……?」
喉の渇きと、全身に及ぶ経験したことがないような倦怠感。そして、一定間隔で単調なリズムを刻んで聞こえてくる、静かな波の音。
自分が目を覚ました場所が、浜辺であることを知覚するには周りの音と風景で充分だったが……どうしてこのような場所で気を失っていたのか思い出すまでには、少々時間がかかってしまう。
「私は……どうなった……?」
ボロボロに焼け焦がれて、ところどころから自身の柔肌を覗かせてしまっている衣装が、ぼんやりとではあるが、先刻の出来事を思い出させてくれた。
「えと……私は勇者と対峙して、それから……」
……頭が痛い。やたらと潮の臭いが漂う海岸でしばらく気を失っていたのだから、頭くらい痛くなるのはもっともなのだが……それだけじゃない。もっと直接的な、言うなれば内よりも外からズキズキと額が痛む。
なぜだろう? 勇者渾身の一撃ですら、静電気ほどの痛みが走った程度にとどまったというのに……何が私の頭にダメージを残したと言うのだ?
最後に視界に入ったのは……。
「………………空き、缶?」
ふと浜辺に流れ着いた漂流物に目をやると、夜闇の月光の中、拉げて原型を留めていないブリキの容器が映る。
「空き缶に、当たった……?」
数分前の記憶との邂逅を試みた私の脳裏に浮かんだのは、突如として眼前に姿を現した空き缶。
たしか、勇者が不自然に身体を反らせた時だ。アルミ材質構造の筒状容器は、その弾丸とも言える勢いを有したまま初めて姿を現し――私は避ける間もなく、直撃をもらった。
そして、墜ちた。この海の底に。
「ははは……私はこんな物に当たった程度で気を失ったというのか。一軍の大将であり、魔王の名を誇る豪将が……」
思い出すと同時に、響くのは力無い笑い――
これで豪将? 笑わせる。
所詮は魔王という被り物で繕った、ただの小娘だったという訳だろ? 驕りや慢心、油断が、私をここまで落ちぶらせてくれたとはな。……まったく、やるせない。
「――ッ!? ま、魔王様っ!? こ、ここに、生きて……」
見ると、私の後ろにはナハトがいた。目には涙を浮かべ、体中には傷を作って、ただボロボロな姿をした。
「ナハト……お前は、無事だったのか……」
『無事だったのか』……違う。私がまず聞くべきはそんなことではない。作戦がどうなったのか、成否を確認するべきだろう。それなのに、らしくないナハトの感極まった反応に、ついつい安否を先に確認してしまった。
これでは、作戦が失敗して命からがら逃げ出してきた部下の生存を、とりあえず喜んでいるように思われてしまうではないか。魔王としたことが、作戦が失敗したのではないかと一瞬でも思われるような――私自身が思ってしまったことを悟られるような――弱気な台詞を吐いてしまうとは情けない。
あの竜銀士が志半ばで倒れるなど……。
「ええ、わたくしは……わたくしは、どうにか。しかし…………」
「しかし……?」
「わたくしを生かすために……あの、その、竜銀士殿は……」
ナハトは言葉を詰まらせる。そして、私は知る。ナハトの涙が、感動や安堵から流れているモノでは決してないということを。
苦悶に歪んだナハトの表情は、体全体に負った傷の痛みから来ているものではないだろう。理由はどうあれ。結果的に仲間を見捨て、自分だけが生き残ってしまったという現実に対する嘆き。流すのは悔し涙。
――★★★――
ナハトは語った。作戦は失敗し、生き残っていた部隊が全滅した経緯を。
作戦の最中、立ち塞がった敵はたったの二つ。二人の悪魔は鬼神のごとき力で次々と魔族の兵を薙ぎ払い、ついには魔族の残存勢力全てを喰らい尽くしてしまった。
竜銀士は早々に作戦の失敗を悟り、部隊の比較的若い兵士と共にナハトを逃がした。その後、自身は最後まで指揮官として戦場に残って兵を率い……命を散らした、と。
眈々と、事実だけがナハトの口から紡がれる。そして、その事実は一切の希望もないからこそ、ただただ凄惨な色を私に映した。
逃がしてもらったと簡単にナハトは言ったが……おそらく目の前の男が簡単に戦場に背を見せるわけがあるまい。ナハトは多くを語らなかったが……おそらく、逃げるまで、逃げてから、様々な葛藤が彼の中であり続けただろう。
きっと「魔王を捜す」という名目で駆けるナハトのため、共に逃げた若き兵士たちは彼の『防壁』になることに死力を尽くしたのだろう。
戦う仲間を振りきり、倒れて行く仲間を振り返らず、ナハトは私の元に向かうために多くの屍の山を越えてきた。
さぞ悔しかっただろうに。さぞ苦しかっただろうに。
同胞の仇を討てないことが、屍を丁寧に葬ることもできないことが、そして……圧倒的戦力を有する異形の追撃から逃れることが。魔界では常に上位の実力を誇っていたナハトにとって、全力で逃げ、隠れて行動せざるを得なかったことは屈辱以外の何物でもなかっただろう。
――★★★――
「これが、竜銀士殿が魔王様に遺した形見です。これを届けるため、生き恥をさらしてまでここまでやって参りました」
無念な表情のまま、ナハトが私に差し出したのは紅い宝玉があしらわれた首飾り。
「これは? ………………ッ!?」
覚えている。魔界でも竜人族のみが所持することが許された幻の秘宝。そして、竜人族の長に代々受け継がれる長の証。
竜銀士が昔一度だけ見せてくれたが……本来、竜人族以外は触ることはおろか、見ることさえ許されない神聖なもの。
竜銀士よ。なんてものを遺すんだ、お前は! 私に、どうしろと……!?
こんなものをわざわざ遺すくらいだったら、生きて、もう一度…………。
「……ご苦労だったナハト。もう、大丈夫だ。あとは私が最後の……」
涙を拭い立ち上がろうとしたその時、ふと、足がふらつく。力が入らず、膝が崩れる。
「あ……れ……?」
私の口から発せられるのは、魔王にあるまじき情けない声。
「な……!? だ、大丈夫ですか、魔王様ッ!?」
ナハトが青い顔で駆け寄ってくる。だから、「大丈夫だ、少し気が抜けただけだ」と言って立ち上がろうとした。
しかし、足が上がらない。それどころか、全身のどこにも力が入らない。
「どう、なって……」
「ま、魔王……様…………? 貴女は、魔王様ですよね……?」
ナハトがうずくまる私に接したとき、ふとそんな声を漏らす。
『お前は本当に魔王なのか?』
偏にその意味がこめられた言葉に、私はどんな表情を見せただろうか? 勿論私は魔王だ。どんなに不甲斐なくとも、どんなにだらしなくとも、どんなに頼りなくとも、どんなにらしくなくとも……私は紛れもなく、魔界を統べる王だ。
よって、長年私に仕えてくれたナハトの口からそんな言葉が投げかけられれば、私は困惑せざるを得ない。そして、第一に考えるのは「ナハトに異常が生じた」という原因。
「自分」という存在に疑問を投げかける者がいれば、最初に示唆されるのは投げかけた存在の異常性。まさか、自身で自分の存在が「自分」ではないと、どうして思えようか。
――しかし、ナハトの疑問の先にあった答えが示したのは、おそらく私が「魔王」ではないという事実。私は今の私自身の現状から、「自分」がどうなっているのかを――どうなってしまったのかを、少しずつ理解していく。
「魔力が…………」
ナハトは言った。その残酷な一言を。
それは、私――アスナ・ルシフェル・グラディウスを魔王という姿に彩っていた『メッキ』をいとも簡単に剥がしてしまう言葉であり……いや、違うな。その言葉が無くとも、私のメッキはとうの昔に剥がれていたのだから。
そう。それは、アスナ・ルシフェル・グラディウスが魔王という立場に君臨することを唯一支えてくれていたモノの消失を、確認させるための言葉。
「全く…………感じられません」
「………………うぁ、ああ……ぁあ、あがぁ……ああぁ……ああああああああああッ、あぁああああああああああああああああああああああああああッッッ!」
魔王の面影はどこにもない。
海浜には、十七の幼い少女の泣き声のみが木霊していた。




