物ノ怪狩り
周囲にはうめき声を上げるべしみ面の男らが転がっている。
飛頭蛮を撃とうとしたが、一瞬で返り討ちにあったのだ。
「……ち、千代――お千代なのか――――」
縛られ蹲っていた仁吉がゆっくりと顔を起こすと目隠しがはらりと落ちる。
仁吉を見下ろすように浮かぶ千代の生首に、たまらぬ物悲しさが漂う。
だが、ふたりの視線が絡んだ瞬間、千代の顔が一変した。眼尻は刃のように吊り上り、血を吐いたように赤い唇はめくれ上がり獣のような牙を剥く。
乱れほつれた髪は、怒髪のごとく逆立ち、その瞳には思慕の情は掻き消え、鬼火の如き殺意が湧き上がる。
きしゃぁぁぁぁぁ!
怪鳥のごとき叫びを上げると千代は、仁吉へ襲い掛かった。
その時だった。轟音が鳴り響き、千代のろくろ首が大きく弾けた。
「やったか?」
古着屋の影に、銃を構えた市の姿があった。
「辰野やの仁吉か」
市は駆け寄ると、仁吉を縛っていた縄を解いた。
「へ、へい。どこのどなたかは存じませんが、助かりました」
と、仁吉の顔を見た瞬間、市は銃の台株で殴りつけた。
「な、なにを――」
「貴様、何者だ」
仰向けに倒れた仁吉を睨みつけ、市は懐から取り出した短筒を向けた。
「なにを仰います。手前は辰野やの番頭をつとめております仁吉――」
「黙れ」
冷徹な市の言葉に、仁吉は言葉を呑みこんだ。
「貴様は仁吉ではあるまい。何者だ」
引き金に掛かる指に力がこもる。
「ば、馬鹿なことを! 手前が仁吉で無いなどと何を――」
「仁吉は、貴様などと似ても似つかぬ。何者だ」
「なにをバカなことを。この姿、どこからどう見ても、辰野やの仁吉であろうが!」
太い眉を歪め仁吉が声を荒げた。
「わしの何処が、仁吉ではないというのだ!」
仁吉の頬が激しく痙攣を始めた。
「完璧であろうよ。どこからどう見ても、辰野やの仁吉以外の何者でもあるまい!」
仁吉は立ち上がると、駄々っ子のように足を踏み鳴らした。
「ワシの術は完璧。そうよ完璧! それを何の根拠を持って、偽物だというのだ!」
仁吉と言い張る男は、血走った眼を見開き、市を睨みつけた。
「その声――まさか――」
「貴様ごとき小娘に、ワシの『肉写し』が見破れるはずなどない!」
「……折重重持か!」
そう、激昂するその声は、あの折重重持のそれであった。
「採火の小娘がぁああああぁ!」
それは突然起こった。仁吉の薄い唇から大量の肉が溢れた。
べろり――と、口中から白くぬめぬめとした塊がこぼれてくる。蛇が丸呑みした卵を吐き出しているような、吐き気をもよおす醜悪な光景だった。
どこに押し込んでいたというのだろうか。仁吉の体内から、蕩けた餅のような白い肉塊が止めどなく溢れる。
仁吉の身体全てが見えなくなると、それはどろり――と、動いた。
「くふぅ」
仁吉の数倍はあろう肉の塊が、市の眼前に現れた。
「これはこれは、お久しゅうございますな。採火の市どの」
けふけふ――と、折重はむき出しの醜悪な白い腹を揺らして笑った。あまりにも奇怪な光景に、嫌悪も露わに市は顔をしかめる。これでは折重の方がよほど化物である。
「どういうことだ」
「それはこちらの台詞にございます。御公儀よりの仕事を無下に断った不忠ものであるあなたが、何故にこのような場所に現れ、私に銃をお向けになられる?」
芋虫が蠢くように片眉を吊り上げ、何ともいやらしく口の端をつり上げた。
「あなたが断ったおかげで、私どもはいらぬ手間を掛けることになったのですぞ。それをまさかまさか、いまさら気が変わったとは、よもや申しますまいなぁ」
「意にそぐわぬからと、私を殺そうとした男が、よく言う」
「あなたこそ、幾ら積まれたのですか?」
下卑た笑みが浮かぶ。
「大方、安房守あたりにでも雇われましたか」
折重は糸を引くような湿った笑みを浮かべて腹を揺らせた。
「政には興味のないような事をほざいてみたところで、所詮は金というわけですか」「下衆な勘ぐりしか出来ぬとは憐れな。私は――見たくないだけだ」
そう――あのように泣く男の姿など見たくない。
「わけの分からぬ事を」
折重が頬肉を歪める。
その時だった。
冷や水を浴びせられたような強烈な悪寒が市を襲った。全身の皮膚が粟立ち、一瞬にして凍りつく。まるで手負いの熊に背後に立たれた時のような――否。それどころの比ではない。
殺気。怒り。恨み悲しみ憤り……狂気絶望――そのどれかではない。それら全ての感情が混濁したもの。それがどぶ泥となって、頭からぶっかけられたような感覚。足先から全ての精気が失われていくような恐怖。動けなかった。
それは折重も同じであるようだった。たるんだ瞼の奥で団栗のような眼だけが落ち着きなく揺れている。
くおぉおおんん――と、その正体は直ぐに分かった。
市にとっては右。折重にとっては左に、青白い炎が二つ浮かんだ。気づかれぬよう、視線だけ動かせば、そこには瞳を鬼火のごとく燃やした千代の生首があった。二間ほど離れて、軒の高さにそれは浮いていた。
初めて味わうこの違和感。それは千代の放つ凄まじい妖気であった。
先ほど千代に撃った弾は、葛城に託された孔雀明王の加護のある弾である。だが当たったのは側頭部。額の梵字を撃ちぬくことは出来なかった。
矢張り眉間の梵字を撃ちぬかなければ効果がないのだ。
弾はもう一発あるが、それはまだ銃に込めていない。いま襲われたら、この距離では間に合わない。何より、千代の放つ妖気に絡め取られたかのように、身体が動かなかった。
どうすれば良いのだ――市の背を冷たい汗が流れた。
そんな市の迷いを見越したかのように突如、千代の生首が動いた。ぞろり――とした牙を打ち鳴らし、鬼の如き形相で飛んでくる。
「この化物風情がぁ」
先に動いたのは折重だった。想像もできない俊敏さで、折重の肉の塊が動いた。大きく腕を広げると、たるんだ肉が壁を作る。その様はまるで巨大なムササビのようである。折重はそのまま雪崩れるように、千代に向かい突進した。
耳まで裂けた千代の顎が、折重に牙を突き立てようとしたその瞬間。折重はたるんだ腹の肉を自らめくり上げると、千代の首を包み込んだ。
「『秘術肉包み』このまま引っ立ててくれるぅぅ――」
勝ち誇ったように声を上げた直後、折重の背の肉が大きく波打った。
「――ぁげぇ」
蟇蛙が潰れたような声を洩らすと、折原の肉が力なく崩れた。
そのまま動かぬ折重の背から、千代の顔が湧き出てきた。肉を食い破ったのではない。魔性の飛頭蛮は折重の肉体を透り抜けたのだ。
一瞬、千代の視線と市の視線が絡まる。それは手負いの獣の瞳だった。それも傷を負い、母と逸れた幼い獣のものとよく似ている。
「――そうか」
何者かに掛けられた呪により飛頭蛮と化し、親や許嫁を求めて彷徨う千代。
「怖かったのだな」
そんな千代の心の内が分かったような気がした途端、身体が軽くなった。市の身体を捕らえていた妖気の呪縛は消えていた。
頭の芯が冷えると、頬を撫でる微細な空気の動きが見えた。
すると、周囲の木戸の向こうで人の気配が動き始めたのが分かった。これだけの騒ぎである。無理もあるまい。
大っぴらに外に出てくることはなくとも、顔を覗かせる事はあるだろう。中には千代の顔を知るものがいても不思議ではない。
「だがどうする」
視線を逸らさず、市は考えを巡らせる。
その時だった。
「お、お嬢さま?」
暗がりから男の声がした。
ちょうど、市と千代の中間にある呉服屋の看板の影から、力ない足取りで男が姿を現したのだ。
「あぁ、まさか、まさか――――」
男が項垂れ膝を着いた。
きぃぃぃぃぃぃぃやぁぁ
その男を見た瞬間、千代の口から絹を引き裂くような甲高い絶叫が迸った。
次の瞬間、火を吐くような形相で男に飛び掛かった。
「いけない!」
市は飛びだすと、男を抱えたまま地面を転がった。市の肩を掠め千代が宙へ跳ね上がる。
「逃げるよ」
状況が理解できず戸惑う男を無理やり立たせ、市は走り出した。千代は屋根の上まで上昇すると、市と男を追いかけはじめた。振り返る余裕はないが、市には気配でそれが分かった。
「あ、あれは一体どういうことなのですか? なぜあのような――あのような怖ろしい姿に――」「あんた、あの娘を知っているのかい?」
「は、はい。ただいま城へ奉公に出ております、ウチの御店のお嬢さま――千代さまでございます」
男が声を震わせた。
「あんた。まさか辰野やの人間なのかい?」
一瞬、市は足を止め振り返った。
「あ、あんたは折し――いや」
「は、はい。番頭をさせてもらっております、仁吉と申します」
「じんきち――仁吉だって?」
「はい」
「じゃぁ、まさか千代と祝言を上げるっていう――」
「はい。お嬢様の奉公が明けたあかつきには、祝言を上げさせていただくことになっております――それが、どうしてこんな……」
「そうか、そう言うことか……」
思わず天を見上げ市が肩を落とす。その時、仁吉の背後に千代が迫ってくるのが見えた。
「走れ」
仁吉の手を引くと、市は再び走り始めた。店の間を右に曲がり、細い路地を駆け抜ける。その背後を必死の形相で千代の首が追いかけてくる。
「あれは一体なんなのでございますか? お嬢さまは、なぜあのような怖ろしい姿に――」
仁吉が声を詰まらせる。
「詳しい話は分からない。だけど、あの娘を助ける為にいま走っているつもりだ」
「ほ、本当でございますか」
「あの娘は、城の内でたちの悪い病にかかった」
当たらずとも遠からず――少なくとも市はそのように考えている。
「そのせいで、魂が身体から出てしまった」
「そのような事が……」
「嘘か真かは知らぬ。だが、あんたの今見ているアレは真であろう」
仁吉は口を結んだ。
「あたしがその魂を身体に押し戻す」
「そのような事が出来るのですか」
どう見ても、医者でも祈祷師でもなさそうな市に、仁吉は怪訝そうな眼を向ける。
「だから手を貸して」
「いったい何をすれば――」
まさか……と、市の肩に掛かる銃を見て、仁吉の声が震える。
「そのまさかよ。この銃で飛頭蛮を撃つ」
「ひとう――ばん?」
「そう、千代は飛頭蛮という呪い――いや、病を患った。だからこの弾で病を祓うの」
懐から一寸ばかりの紙製の筒のようなものを取り出すと、市は紅い唇の端を綻ばせた。
「そ、そんな事をしたらお嬢さまが死んでしまいます」
「安心して。ちゃんと御仏の御加護つきだから」
気のせいだろうか。その紙の筒は微かに黄金に光を発しているように見えた。
きひひひぃぃぃ――と、千代の声が夜陰に響き渡る。
痺れるような妖気が、すぐそこまで近づいていた。
市は転がっていた手桶を掴むと、反対の路地に向かって投げた。
「こっちよ」
桶が地面に落ち音をたてた時には、市は仁吉の襟元を掴み、塀の影へ飛び込んだ。物陰に身を潜めると、桶の落ちた路地に千代の首が入っていくのが見えた。
「ちよ……」
その後ろ姿に仁吉が涙を滲ませる。
「何があってもあの娘を取り戻す覚悟はある?」
仁吉を横目で見ながら、市は巣口から先ほどの紙の筒を入れ、カルカで軽く押しこんだ。
「あの娘がいなければ、番頭のあなたが店を継ぐなんて話、消えてしまうものね」
「馬鹿にしないでください」
仁吉が声を荒げた。
「そもそも奉公人である私ごときが辰野やの身代を継ぎ、お嬢さまと夫婦になるなど、分不相応なことは重々承知。何度お断りした事か。にも拘わらず、お嬢さまと御店を任せると言ってくださった旦那さまの為にも、なにより……」
路地の奥にある闇を見つめ、
「お嬢さまを取り戻せるのであれば、喜んでこの身を差しだしましょう」
市を見つめ返す仁吉の眼は、一介の商人とは思えぬ決死の覚悟に染まっていた。
「信じよう」
そう言って口元を綻ばせた時、市の柳眉が歪んだ。
「それは――」
左肩の布地が裂け、そこから覗く白い肌には血が滲んでいた。先ほど仁吉を庇った時に傷を負ったのだ。
「なにも問題ない」
市の瞳に揺れる光は、獲物を見据える猛禽のように鋭かった。