秘伝・鷹眼
轟轟と風が唸りを上げる。
ますます強くなる風が屋根瓦を揺さぶり、かたかた――と、音を鳴らす。
表通りでは質屋の看板が吹き飛ばされそうなほど揺れているが、この狭い路地ならば風が吹きこむこともない。
表通りから二間ほど入ったところに立つ仁吉の裾が僅かに揺れるだけで、路地奥の大八車に腹ばいでいる市には微風ほども感じられない。
「腹は括った?」
背を向ける仁吉に向かって、市は声を掛けた。
「は、はい。そちらは――」
「いつでも」
膝を震わせながらもこちらを振り返る仁吉に、市は頼もしさを感じた。
にわかに、遠くの方から大勢の人の近づく気配がする。大方、この騒ぎに、町方も黙っていられなくなったのであろう。
それに――
「雨……」
ぽつぽつと、冷たい雨が落ちてきた。あまり時間は残されていない。
始めて――と、市は落ち着かぬ様子の仁吉を促した。
「お、お嬢さま、千代お嬢さま!」
仁吉が声を絞り出す。だがその声は強まる風にかき消され、蚊の羽音ほどにも響かない。
「そんな声では聞こえんぞ」
「――――ち、お嬢さま。……お嬢さま。お嬢さまぁ!」
市の声に背を叩かれ、仁吉が声を張り上げた。その叫びが届いたのか、なんとも言えぬ奇声が聞えた。
よし――と、市は銃を構える脇を閉めた。
市と仁吉のいるのは七間ほどの突き当りの路地である。
背後は大きな蔵があり、左右からも軒が突きだしている。その御蔭で風の影響もほとんどない。市はその軒下にある大八車に腹ばいになり銃を構えている。
これならば千代の飛頭蛮が仁吉に近づくには、正面から現れるしかない。
そうすれば、額の梵字を狙いやすくなる。獲物が現れる範囲を限定できることができるのは、狙撃にとって大切なことである。
それに獲物の現れる方向が限定できれば、こうして腹ばいになり腕の負傷による影響を最小限にすることができる。
地に伏せたので動きは取れぬがその分、大八車に腹ばいになる事により、射角を稼ぐことができた。準備は万端である。
市は小さく息を吐き、臍の辺りに意識を落とした。
すると、ゆるゆると市の意識が解け、周囲に溶け込んでいく。背後に感じていた市の微かな気配が失せたことに不安になったのだろう。仁吉が背後を振り返ろうとした。
その時だった。
ぞくり――と、背中の産毛を舐められたかのような悪寒が走った。
あれだ。飛頭蛮が近づいている。
だが、風こそ吹き付けてこぬものの、強風にあおられ揺れる板壁のせいで気配が読めぬ。悪いことに、雨が強くなり始めた。
市は懐から、小さな皮製の袋を出すと、火皿を覆うように被せる。これで暫くは保つだろう。
哀切と不安が入り混じり、仁吉の膝の震えも増すばかりである。
焦るな――逸る気持ちを市は冷静に宥める。どの角度から現れるにせよ、市の射界であることに間違いはない。風の音を意識から外し、市は妖気を読むことに集中する。
右側――間違いない。近づいている。
間もなく、あの角からこちら向かい顔を出すはず。
市は銃口を僅かに右に向ける。
強くなる妖気に、全身が粟立つ。
来る。
いや、なんだ。これは違うぞ。
市の読みより、妖気が近い。狙いを定めた銃口が、ほんの僅かに震えた。
その瞬間。千代が――飛頭蛮は現れた。
ぞろん――と、仁吉と市のちょうど中間。右手の店の壁から清水が湧くように現れたのだ。
「仁吉!」
振り返る仁吉が息を呑んだ。
がたがたと歯の根を震わせ、仁吉が眼を見開いた。
「眼を逸らすな!」
思わず顔を背けそうになる仁吉に、市は檄を飛ばす。だがどうする。
この角度では額を狙うことは不可能だ。
「逃げるな。お前の大切な許嫁なのであろう! 何があっても護ると言ったではないか!」
どうする。今動けば、また振り出しに戻ってしまう。
「お嬢さ――」
仁吉が迷いを断ち切るように首を振る。
「――千代! お千代!」
仁吉が両手を広げた。
じんきちさん――と、千代の首が動いた。
「こっちだ!」
このままでは市からは、千代の後頭部しか狙えない。
だが、仁吉が千代を追い越してこちらに来れば別だ。仁吉を追いかける千代の額は、市の正面に向くことになる。
「走れ!」
その意図を理解できたのであろう。足を縺れさせながらも、転がるようにして仁吉が走った。勢い余った千代は、仁吉と交叉し追い越すも、直ぐに踵を返した。
良し!
市の銃口と仁吉。そして千代の額が一直線に並んだ。
「これで決める!」
引き金に力を込めようとしたその時だった。射界に何かが降って湧いた。
それは踏み砕かれた屋根瓦だった。
割れた瓦と共に、左右の屋根から人影が躍り出た。
折重配下のべしみ面の男たち。左の屋根から飛び出したべしみ面が網を投げ打つと、千代の首を捕らえた。
右の屋根から飛び降りたべしみ面は地に膝を着き、銃を構える。
「でかしたぞ!」
右の屋根の上に巨大な肉塊も姿を現した。
「撃て! 撃ち殺せ!」
折重が団扇のような手を振り命を下す。
刹那――突風が吹いた。
風に煽られ、折重が体勢を崩すと、屋根が崩れた。
「んほぉああああ」
折重の壊した一角から、均衡が崩れた。
たちまち、横殴りの雨が屋根を叩く。
流れ込んだ突風が路地で渦を巻き、崩れた木片や瓦を巻き上げた。
風に煽られた千代の首が激しく回転するが、網に囚われていたのが幸いし、弾き飛ばされることなく路地の隙間を暴れる。
「お千代ぉぉぉぉ!」
雨に滑り、足を取られた仁吉が転がる。
渦巻く風。
吹き付ける礫の如き雨粒。
巻き上がる欠片。
べしみ面。
落下する肉塊。
乱舞する飛頭蛮――
「写楽臭い!」
市は左側を隠す前髪をかき上げた。瞳の芯に緑色の光が灯っていた。
その瞬間、市の左眼は全てを観た。
雨粒の落ちる速さ。
舞う木片や瓦の動き。
落ちていく肉塊。
転がる仁吉。
べしみ面。
乱舞する千代の首。
風の強さ。風の流れ。存在するもの全ての匂い。熱量。
方向強さ傾き時間――そして人の意識の彩り。
眼前に存在する全ての事象が、可視化された極彩色の情報となって市の脳裏に流れ込む。それが右眼で見る実際の光景と重なり、市にしか認識できない世界を描き出す。
『天眼通・鷹眼』
先祖代々受け継がれてきた一族の秘伝中の秘。雑賀一族の残した呪われし秘術だった。
「観えた」
緑色に光る市の左瞳から一条の朱が零れた。
それが白い頬を伝わり、鼻や耳からも朱筋が零れる。過負荷に毛細血管が切れ、白い肌に血の珠が浮かぶ。
脳の神経が焼け切れそうなほどの濃密な情報の奔流の中、市は一条の白い光を見た。
暴れ狂う千代の額に向け、己の構える銃から伸びる一本の光の筋。蜘蛛の糸よりもなお細いそれをなぞるように、市は引き金を引いた。
その瞬間、市の銃から一羽の黒い烏が飛んだ。三本足を持つそれは白い光をなぞるように羽ばたくと、黄金に姿を変え飛んでいく。
そしてそれは、黄金に輝く一羽の孔雀となって、千代の眉間に描かれた梵字を貫いた。




