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幕末陰傳 飛頭蛮  作者: 猛士
8/11

宿業


 月は半分ほどに欠け、微かに雲がかかっている。


 明かりは充分であり、狙いをつけるに支障はない。ただここ数日のうちで一番風が強い。海から吹くこの風では、弾がかなり流されるだろう。それを考慮に入れねばならぬのが厄介である。

 孔雀明王像を溶かしたという金の弾は、いつもの鉛の弾よりも軽く柔らかい。その分も考えねばならない。


 それに――と、吹きつける風を読むかのように、市は夜空に視線を走らせる。

 西の方角に雲が湧いていた。雪、あるいは冷たい雨が降るかもしれない。


「最後の機会だというのに……」


 ふっ――と、息を吐き、市は天守を見据えた。

 もし今宵も、飛頭蛮が現れなければ――それは、千代にとって最悪の結末になるということだ。


『呪』とは自然に消えるものではないと、葛城は言っていた。即ち、このまま何ごとも起きぬのであれば、それは別の誰かが千代にかけられた呪を解いたか、或いは千代が死んだということだ。

 前者は有り得ない――と、葛城は言う。それができぬから、市が雇われ、このような手段をとることになったのだ。ならば、このまま飛頭蛮が現れぬのであれば、それは千代が死んだということになる。


 飛頭蛮を撃つ――千代という娘を救うにはこの方法しかない。

 だが……あの葛城という男を、本当に信じても良いものなのだろうか。幕府内、それも大奥において何らかの権力争いが起きていることは確かなのであろう。


 それは将軍継嗣問題に絡むことであろうと市は思う。千代は、一橋慶喜を推す天璋院の子飼いである。先の将軍・家定の御台所である天璋院の持つ影響力は未だ大きいと聞く。

 それに対し、折重は南紀派の息が掛かっているとみて間違いないだろう。おそらく千代の醜聞を突きつける事により、天璋院を封じ込めたいということなのだろう。


 事によれば、千代に呪をかけたのも折重一派である可能性も小さくない。ならば葛城はどうなのか。一橋派の息のかかったものと考えるべきだろう。つまりこれは、市の忌避する政治の権力争いである。

 たとえどのような大義名分を唱ってみようと、いずれも雲上人の理。市井を生きる民には関係なきこと。そのような醜い争いに加担することは二度と御免だった。


 だが何故――市はここにいるのか。


 権力争いに巻き込まれ、妖に堕ちた娘に情が揺らいだか。

 否。


 打ちひしがれたあの男の姿に、捨てたはずの女の部分が揺らいだか。

 否。


 鉄砲野師としての血が沸いたからなのか。

 否。


 違う。顔も見たことない娘を不憫に思ったことも事実。妖に堕した許嫁に泣き崩れた男を憐れと思ったのも事実。なにより、己が鉄砲野師としての血が、未知の獲物に対して滾ったことも事実。全てが否であり全てが是だ。

 己の腹のうち全てを認めたから市はこの場にいるのだ。


「これだから――」


 止められない。知らずのうちに強張っていた指をほぐすと、市はゆるく息を吐いた。

 その時だった。


 城の上空に、黒い染みが湧き上がった。

 闇夜に浮かぶ蝙蝠。

 否。そうではない。


 黒い染みは羽ばたくでもなく、まるで糸の切れた凧が風に煽られているかのように、不規則に揺れていた。

 だが次の瞬間。それは猛り狂ったかのように、城上を旋回し始めた。


「待ちわびたぞ」


 市の眼に歓びの色が浮かぶ。それは蝙蝠でもなければ、糸の切れた凧などでもない。乱れ髪を振り乱した妖気を纏いし若い女の生首――そう、飛頭蛮と化した憐れな千代の姿だった。

 千代の生首は、まるでなにかを探すように城の上空を旋回すると、狙いを定めたかのようにこちらに向かってきた。


 葛城の言った通りだ。市がいるのは城の東。多くの商家が軒を連ねる駿河町。千代の生家である「辰野や」は、市の潜む古着屋から東にある。


「あの男、やるじゃないか」


 市の朱い口角が微かに綻んだ。千代の飛頭蛮は大奥を抜け出すたびに、辰野やに向かって飛んでいたのだ。市が潜むこの場所は、大奥と辰野やを結ぶ直線上。

 そして、上空を飛ぶ千代が家へ向かい、もっとも高度を下げる地点であるのだ。だがそれらを調べ上げたのは市ではない。この場所を指定したのは葛城だった。


 本来であれば、市は仕事の際に全ての段取りを自分でつける。だが今回は事の全てが己の領分の外のことである。勝手が違うのだ。それになにより、あまりにも時間がなかった。

 ならば、仕事を引き受けると決めたからには、葛城を信じるしかなかった。だがそれは市にとって丁半博打にも等しい賭けだった。

 最初は半信半疑であったが、こうなると葛城の慧眼に感服せざるを得なかった。悔しいが、市が自分で狙撃場所を決めたとしても、この場所を選んだだろう。


 ぐんぐんと近づいてくる飛頭蛮に向け、市が銃を構える。その時だった。すえた臭いが市の鼻を突いた。それは火縄の焼ける臭い。無論、市のものではない。


「なにっ」


 西の通りに提灯の灯りが揺れるのが見える。その周囲に見覚えのある異様な男らがいた。

 鼻は大きく張出し、まるで全てを威嚇するかのように見開かられた大木な眼。能でもちいられるべしみの面を着けた男たち。


 そうあの夜、市を襲った連中の仲間である。

 提灯で周囲を照らす者がふたり。その後ろに膝立ちにて火縄銃を構える男らがふたり。

 そしてその間に、後ろ手に縛られた上、目隠しをされ猿轡を噛まされた男がいた。猿轡の男の左右に、両肩を掴んだ面の男がふたり。合わせて七人の男らがそこにいる。


「折重の手の者か」


 葛城に騙されたのか。そんな思いが一瞬過るが、市は直ぐにそれを否定する。そんな事をしても葛城に特はない。

 ならば一体――答えは直ぐに分かった。


「さぁさぁ化け物! 醜き妖怪ろくろ首めが。己の愛おしい男がここにおるぞ!」


 どこからともなく、妙に芝居がかった声がした。その声には聞き憶えがあった。


「さぁ早ぉ、こちらへこんかぁ」


 その声に憶えがあった。ナメクジが這うようなその声は、折重重持のものである。どこか物陰にでも身を潜ませているのか。ここからでは姿は見えない。だが紛れもなく折重の声であった。両脇のべしみ面が縛られた男を突き飛ばすと、その拍子に辰野やの名前の書かれた前掛けが、はらりと落ちた。


「そういうことか」


 市に仕事を断られた折重は、千代の許嫁である番頭の仁吉を攫い、飛頭蛮をおびき寄せる餌にするつもりなのだ。奇しくも市の腕前を前提とした葛城の策と、市に断られた折重の策は最悪の形で交錯してしまったようだ。恐らくそこまでは葛城にも読めなかったのだろう。


 折重の言葉に反応したか。あるいは仁吉の姿を見つけたか。千代の瞳が妖しく光を放った。髪を振り乱し牙を剥きながら、狂ったように飛んでくる。


「駄目だ……」


 折重らのせいで千代の角度が変わってしまった。これでは眉間を狙えない。それに加え、風が強さを増し雲が広がり始めた。


 どうする――と、市の考えがまとまる前に、情けない悲鳴と共に、二発の銃声が鳴り響いた。その瞬間、市は屋根から走り出していた。


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