8.猫と令嬢
「私と一緒に、猫がいませんでしたか?」
「猫?」
ウルリッヒが首をかしげる。
「ええ。海に落ちて、気がついたらここにいました。それまで一緒だったんです」
私は、あの小さく震えていた子猫のことを思い出す。どこか遠くへ行って、
「毛並みはたぶん茶色で、まだ子猫で……。夜だからあまり色は覚えていないのだけれど……光が当たったとき、そう見えた気がします」
「――報告は受けていないが、確認してみよう」
それから私は、ウルリッヒに案内されて、城の図書室や厨房、執務室などさまざまな場所を見せてもらい、自室としてあてがわれた部屋へと戻ってきた。
「君は大切な客人だ。
自分の家だと思って……というのは難しいかもしれないが、困ったことがあればなんでも話すといい」
ウルリッヒは、言葉を選ぶようにして告げた。それからまたほろほろと涙がこぼれ、彼はそれを手の甲で乱暴に拭った。
「見苦しいな。――すまない」
「ウルリッヒ様!」
私が返事をしようとした、そのときだった。甲高い少女の声が廊下にびりびりと響いた。
そこに立っていたのは、フリルやリボンがたくさんあしらわれた、桃色のドレスを着た少女だった。
年のころは高校生くらいといった感じだろうか。波打つ青い髪の毛に、花のような淡いピンクの瞳。はっと息を飲むほど美しい少女であった。
彼女は私を押しのけるようにしてウルリッヒの前に出ると、その目を潤ませて尋ねた。
「召喚された平民を妻にするなど、御冗談ですよね?」
私は数秒固まって、そういえば、誰かがそのような話をしていたと思い出す。
「ウルリッヒ様の婚約者候補はわたくしです。これまでずっと厳しい王妃教育に耐えてきたのに、このようなよくわからない女性に奪われてしまうなんて、我慢ができませんわ」
「チェルナ―嬢」
つんと横を向く少女を、ウルリッヒは硬い声で呼ぶ。
「王妃教育ではなく、上位貴族の令嬢のための教育だったに過ぎない。行儀見習いのようなものだ」
「それでも、わたくしを含む令嬢たちは、皆、婚約者候補として集められたことを知っていますわ」
ウルリッヒは答えに窮したようだった。しかし、薄い唇をきゅっと引き結んだまま、彼女に氷のような視線を向けた。
「老獪な者たちがそのように画策していたことは知っている。だからこその折衷案で、高位貴族の令嬢たちが将来どのような道をも選択できるような、講義の場として提供しているのだ。
そして、これまでも伝え続けてきたとおり、私は、自分で見つけた者を妻にする。それは変わらない。
――皆の時間を無駄にしないよう、講義が始まるよりも前に伝えたはずだが」
今度は少女のほうが答えに詰まっている。
「それでも……!」
「実際、それで講義を辞退した令嬢がほとんどだ。残っている者は、婚約者候補を目指すのではなく、教養を深めるべく、日々研鑽しあっていると聞いている。君は何のために残っているのだ? 日々の講義に文句をつけ、課題はせず……。
仮にあの場が王妃教育だったとして、不真面目に過ごす君を誰が選ぶ?」
少女は令嬢らしからぬ足音を立てて去っていったが、残された私たちの間には、気まずい沈黙が流れた。
聞きたいことがたくさんあって、けれども何をどこまで聞いていいものかわからない。
「自分の意思で結婚することが、できない世界なのですか」
ややあって、私はそれだけ訊いた。
「――いや、そういうわけではない。むしろ、今の時代、政略結婚のほうが時代錯誤もはなはだしい風習に過ぎないな。他国でも、王族であろうと恋愛結婚が主流になっている。――というよりも、もはや、王家も形だけになりつつあって……。貴族だ平民だのと話している時代は廃れていくだろう」
それから彼は周囲の様子をうかがうと、私の耳元でそっと囁いた。
「私も、この国最後の王になるつもりだ」