新しい登場人物、あるいは自動人形の予感のこと
突然だが、この世界には魔法というものがあるのはすでに説明した通りである。しかしアクション要素のないノベルゲームにおいて、属性などというものはあまり大きな意味をなさない。何故なら対局属性で相手の弱点を突くとか云うような小難しい戦闘システムがないからである。
必要ないものは省かれるのが世の定め──そして予算を気にしがちな業界の定め──であるので、当然のごとくこの世界の有する魔法に相性補完や属性攻撃と云った概念はほとんどない。ただただ無形の魔力と云うものがあるばかりである。つまり、使用者の創造性によってかなり自由度は上がると云うことだ。魔力さえあれば火を起こすことも木を生やすことも容易い。無論、魔力の大きさなどによっても変わってくるが。
自由度が高いと云っても、得意不得意は往々にしてある。僕が得意なのは氷系の魔法で──カラーリング無視である──氷に関することならば大抵のことはできる。あとは悪戯に使用するトラップ系のものを少々。
氷というものはとても便利な代物で、僕はそれが得意な性質に生まれてよかったと心底思っている。
何故なら、炎天下の締め切られたバスケットの中は、恐らくとんでもなく暑いサウナと化すことは想像に難くないからである。
「よし、ここまで来れば大丈夫だろう」
遥か丘の下に佇む夏の離宮を見下ろして、僕はしたりと笑う。
その僕の後方3メートル下を息を荒らげながら登ってくるヨハンの腕には、例のバスケット。本来ならば僕が手ずから運びたいところだけれど、哀れな深窓の王子であった僕にはそれも叶わぬことなのでぐっと我慢をする。ことバスケットの運搬においてはヨハンの気遣いを信頼しているし、何より中の彼女を離宮の僕の部屋にずっと閉じ込めておくなんて不健全なことをするつもりはないのだ。
はじめのうちは夜の庭に出るだけに留めていた。
真夜中の中庭と云うものは、どこかの児童小説にあるように、不思議な場所に繋がっているような気がしてくる幻想的な風景を有している。はじめのうち、夜更かしと云うものをあまりしていなかった健康優良児たる僕とエリス、おまけのヨハンは、その密やかに光る景色に息を潜めて胸を躍らせていた。
時折、窓に映じる見回りの使用人たちの掲げるランプから身を隠すように木陰に座り、それが通り過ぎれば青い月光の中で昼間の遊びの真似事をする。花を摘み、読めない本を読み、裸足で踊るのだ。
夏の月の光を攪拌し反射させる僕の氷の便利なことと云ったらなかった。この魔法の利便性は、その自由度の高さにある。ちょっと反射角を調整すれば、簡易な幻覚を見せることもできるし、虹をかけることだって容易いのだ。夜に透ける虹は僕にはありふれたそれであったけれど、エリスは心底から嬉しそうに笑っていた。それだけで、僕は僕であってよかったと思えるのだから、彼女の存在はとても不思議で、愛おしい。
残念ながら──誠に不本意ながら──それを終了せざるを得なくなったのは、まったく迷惑極まりないことに不眠症を患い、さらに勉強を趣味にしているキャスパー兄様のせいである。
キャスパー兄様は少し可哀想な方で、薬に対してなぜか妙に耐性がある体質なのだ。従って睡眠導入剤も効かない。ついでに毒物も効かないので、暗殺されることが基本スペックになりつつある貴族出の王族としては向いている。ついでのついでに云うと、我が国は前世で云うところの中世ドイツみたいなもので、王族と云っても貴族から選出された一族という他に特別偉いというような要素はない。なので下手に王族特権濫用はできないのであった、残念。
緩和を及第してさて、キャスパー兄様と僕たちの夜デート終了の話であるが、まあ簡単に云ってしまおう。見つかった。
いや、エリスは見つかっていない──はずである。多分。恐らく。きっと。
二階の書斎に明かりが灯ったのを見つけた瞬間、僕は咄嗟にいざと云う時はヨハンを生贄に捧げることを決めた。いざという時がどういう時かはわからないけれど、とりあえず全部ヨハンが悪いことにしてしまおうと決めたのだ。悪い奴と云うことなかれ、どうせ僕が最終的に叱られることを知っているがゆえの時間稼ぎである。
そんな算段を僕がつけているとはいざ知らず、すっかりヨハンに対する人見知りをなくしたエリスは、ヨハンと二人で花冠を作ることに勤しんでいた。可愛いけれど左半分──つまり僕より身長が高く僕より力のある僕の従者──が非常に邪魔である。
僕の視線に気づいた二人は、いや、エリスは、にこにこと機嫌のいい顔を上げ、そして「エリオット様!」と、声をあげた。あげてしまった。可愛かった。が、タイミングが悪かった。
二人は木の陰にいて、僕は月の下にいた。そして二階からは、僕だけが見えていた。
カーテンと窓の開く音がしたのは、すぐ後のことである。
「エリオット」
キャスパー兄様はまだ声変わりが終わっていない。もとから少し高めの声をお持ちなので、女性的と云ってもいい。云ったが最後、確定的明らかにして可及的速やかな死が待っていることをお約束しよう。
「今、少女の声が聞こえたようだが?」
僕が夜中に遊んでいることに言及することなく──恐らくは自身も寝られずに書斎に来てしまったためだろう。つまりはここまでは共犯なのだ。──酷く冷えた声で僕に問う兄様に、なぜこの人は氷を操れないのだろうと不思議になる。いや、兄様に操れるものなどほとんどないのだ。彼の元婚約者以外には。
僕はにっこりと笑う。今朝も云ったが、兄弟の中で一番に爽やかな笑顔である。
「いいえ、兄様。女の子なんてどこにもいないよ」
「では先ほどの声は?」
「ああそれなら、」
ご自身の声と間違われたのでは? とは流石に云わず、
「ヨハンが女装趣味に目覚めましたので」
にっこりと。そりゃあもう、にっこりと。
モブの悲鳴を無視して、僕は笑うのである。
なぜならこのモブ、木陰で僕の将来のお嫁さんを抱きかかえ、その口を塞いでいたので。
「エリオット様!?」
「ほら、ヨハンはそこにいるでしょう? ええ、流石にちょっと姿は見せられないけれど、僕は嘘を吐いていないよ」
兄様が果たして本当に納得したかはわからないけれど、呆れてくれたことは確かである。呆れと云う感情がいかにこの世において強い効力を発揮するものか、読者諸君はご存知だろうか。それはつまり、無気力と無関心に直結するのである。平和的でとっても素敵だな!
「あまりくだらない遊びをしないように」
それだけ云って、心の壁を作るように兄様はカーテンを閉めた。
いやぁ、とても虚無を見る表情だったな。兄様の不眠症には考え過ぎもあるのだろうから、きっと今夜はよく眠れることだろう。いい恩を売ったものだ。
と云うのが、つい先日の話である。長かった。
ちなみにヘンリがいなかったのは、健康優良児が過ぎる彼に夜更かしができなかったためであり、決して僕が意地悪をしたからではない。諸君、寝起きの悪い兄弟を起こすことのリスクをよく知ってほしい。あれは時として竜に餌をやるより恐ろしいのだ。
あれ以来、僕たちのピクニックは昼間の丘の上と相成った。昼間ならば堂々とバスケットを持って出られるし、丘の上にまで来れば使用人の目も届かない。なにより、エリスにとっても健康的な生活を送ることができる。
僕たちはリネン室からくすねてきた白いシーツを広げ、その上に朝食を並べる。朝の食卓から取ってきたオレンジに、ピクニックのためにと内緒で使用人にねだって作らせた一揃いだ。──内容についての詳細は省く。必要なことでもないし、僕は食事にあまり興味がないので、食べ物の名前を詳しく知らないのだ。小難しそうな名前のつく簡単なサンドイッチとお茶だと思ってくれていい。──
エリスは籠から顔を出すと、深呼吸をして慎重にシーツの上に足を下ろす。まだ土を知らない靴が、白いシーツに靴の型だけをつける。まるでおもちゃ箱から飛び出そうとする人形みたいなだなぁと思いながら、僕は彼女が転ばないように手を取った。
「ありがとうございます、エリオット様」
ほっとしたように笑う彼女は、今日も賭け値なしに可愛いと保障しよう。小さく、愛らしく、世界の大きさに今日も驚き怯え、それでも籠から出てくることを厭わない、僕の将来の花嫁である。
僕たちは並んで、のどかな田舎の風景を見下ろしながら何をするでもなく過ごす。
妙な形をした雲に明日を予言してみたり、本の詩を変な風に変えて歌ってみたりするのだ。
「あら、遠くに馬車が……」
昼をまわる頃、エリスが唐突にそれを見つけた。
見ると、丘の下、離宮に続く道を小さな馬車が走っている。
「本当だ、あれは郵便馬車だね」
特徴のある紋章の描かれた幌を確認し、僕が答える。
「なにか火急の用でもあるのでしょうか……。まさかエリス様を連れ出したのがエリオット様だとバレたり……?」
顔を青褪めさせた従者の背中に、氷を一つ流し込む。
「ひゃ!?」
「バレるもんか。きちんとメイドは買収したし、幻影も作ってきたから失踪発見時間はズラせたはずだ」
十歳児の思いつきと侮るなかれ、僕の悪戯スキルは大変タチが悪いと評判なのだから。氷からの光の反射で幻を作ることくらい簡単にできてしまうのである。表向きは禁止されているけれど。──それにしてもあのメイドを雇っていてエリスの家は大丈夫なのだろうか。僕には都合がいいけれど、金をチラつかせた瞬間の目の輝きが尋常ではなかった。──
「だから大丈夫だよ、エリス。君は何も心配しなくていい」
怒られるとしたって僕だけがそうなるように仕向けるさ。
そう云って、僕は彼女の頭を撫でる。エリスの髪は、今日も多分に柔らかく、そして温く湿っている。子供の温度だ。
「エリオット様、でも……」
「うん?」
「怒られるときは、いっしょがいいです」
不安に揺れ、大人を恐れる目が。蒼い目が。
僕を見るのだ。その中に、一つの絶対を──つまりは僕と一緒だという意思だけを──宿して。
「……うん、そうだねぇ。それじゃあ、一緒に怒られようね」
「ええ! エリオット様となら、だいじょうぶです」
「うん、僕もエリスとなら怒られるのもいい気がするなぁ」
ああ、なんて僕は幸せものなのだろう。きっと世界中のどこを探したって、こんなに恐怖を殺して僕と一緒に在れる子は見つからない。だったら僕は、この子のためにも、穏便な謝罪の場を作る準備をしておかないといけない。
まあもちろん、そこにはヨハンも一緒にいるわけだけれど。
共犯者がいなくなっても困るし、ヨハンの弁護の仕方も今のうちに考えておこうかな、と、少しだけ思う僕は今、世界で一番幸福なのだ。
「あの、お二方……、少しよろしいですか?」
きゃっきゃうふふとまでは行かずとも、幸せな夢に浸る僕たちの間に割って入ったのは当然のごとくもう一人のピクニック参加者である。やっぱり庇うのやめようかなと思ったのは仕方がない。
「なぁに、ヨハン」
「あの何かが近づいてくるのが見えたので……」
「なにか?」
ヨハンの視線を追い、丘から登る小さな小さな人影を見つける。
人影、と云ってもそれは明らかに人間よりも小さなサイズで、人間の形をしていても人間ではないことがわかる。かと云って妖精などという歩行不要な種族がわざわざ足で丘を登ってくるはずもない。
僕はすぐに、その正体に気づいた。気づいてしまった。
「げぇっ」
おっと下品な声が。いや仕方がない。これは仕方がない。
なぜならその人影は、ぼろぼろにほつれた布地を貼り合わせた皮膚に、欠けたボタンの瞳、そして骨のない体躯を持つ哀れな見窄らしいお人形であったからである。
「コッペリア嬢が来た……」
それは元キャスパー兄様の婚約者、コッペリア・レムンスカ嬢の悪趣味な遣いであったのである。