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第五部分:芽衣

 うぅ、と呻いて目を開く。わたしの部屋の畳と、壁が見える。壁にはギターが立てかけられている。どうやら気を失っていたらしい。

 畳の持つ独特の心地よさを感じながら、しばらく横になったままぼんやりと目に映るものを見ていた。腹の虫が暴れ回っている。バイトをクビにされ、家賃を払ったら金が底を尽きた。水道も止められたら生命に関わる。早く仕事を見つけないといけない。

 そう思って手を動かそうとしたが、うまく動かない。仕方ないのでしばらく休もうと再び目を閉じる。とりとめのない思考の濁流の中で、わたしは昔を思い出していた。


 高校時代、特に仲の良いわけでもない男子に声をかけられたことがある。後にも先にも、その子との接点はそれだけだった。そのたった一度が、わたしの人生を大きく揺さぶることになるとは彼もわたしも思っていなかった。

 名前も思い出せない彼、いつも無口で暗く、クラスだけでなく学校中探しても友達らしい人はいないというような人だった。頭は良く、試験は常に一番。全ての科目で満点かそれくらいの点数を取っていた。そういう意味では目立っていたはずなのにまったく印象に残らない、思えば不思議な奴だ。

 事件は放課後の教室で起こった。わたしは塾までの時間を潰すために、教室で机にふせてぼんやりとしていた。目を閉じて、夕日を受けて暖かい空気に包まれると、気持ちが良くて眠ってしまいそうだった。

 イヤホンから流れてくるのは、イケメンアイドルグループの恋の歌やら励ましの歌やらだ。今思えば、安っぽい音楽、偽善的で甘ったるい音楽、嘘っぱちの音楽だった。

 ふと、頭上に影がよぎった気がして目を開けると、そこに彼がいた。そしてわたしに話しかけたのだ。青白い顔を薄く歪ませて(笑ったのだろうか?)口を開く。

「倉持芽衣さん。何してるの?」

 実際、彼の声を聞いたのはそれが初めてだったように思う。どもることもくぐもることもなく、少し低めのはきはきした声だった。

「塾までの時間つぶし」

 イヤホンも外さず、顔もふしたままで答える。一線を引いた対応。警戒心が出てしまうのはしかたがないことだ。彼はしばらく立ったままこちらに視線を向けていたようだったが、やがてわたしの前の席に座って、わたしの顔を眺めだした。

「……なによ」

 気持ち悪いという感情しかなかった。ストーカーの類じゃないだろうかと本気で思ったくらいだ。だからその言葉には棘が無造作に飛び出していたに違いない。彼は苦笑した。

「いや、昨日の夜いいことがあってさ、なんとなく人と話がしたい気持ちになったんだけど、オレって大勢がいるとダメなんだよね。それで結局放課後になっちゃったところに倉持芽衣さんがいて」

 わたしは黙っていた。話がしたいのならいいよ話そうと言えるほど社交的でもなく、鬱陶しいのよ消えなさいとはねつけられるほど非情にもなれないわたしにはそれしかできなかった。

「塾行ってるんだ。頭いいもんね」

 そんなわたしにかまう様子もなく彼は一人で話し始めた。

 学校一の秀才である彼に言われるとイヤミにしかならないが、怒る気持ちもない。

 ガリ勉、それがわたしを表す言葉。別に特別な何かがあったからというわけではないけれど、わたしはがむしゃらに勉強する人間だった。初めは、小学校の時に親に褒められたことが嬉しかったとか、そんな簡単な理由。いつしかそれが当たり前になって、成績がいい、頭がいいともてはやされて、親は嬉しそうな顔をしながら、遠慮がちに、好きなようにすればいいと言うけれど、そこには無言の期待が見え隠れして、わたしはそれに応えようと懸命だった。重荷に思ったことはない。

 一つのアイデンティティーであった。しかしそれは、彼によってあっさりと打ち砕かれた。

 校内二番なんて何の自慢にもなりはしない。一位とは圧倒的な差を見せつけられている。それまでの人生のほとんどを費やしてきた種目で上には上がいるということを知った時、わたしの中の何かが音を立てて崩れていった。鼻にかけるようなことをしてきたつもりはないけれど、少なからずわたしの中にあった自尊心、優越感、そういったものが消え失せ、自分がいかに平凡な人間であるか、さらけ出される。

 劣等感しか残らない。

 それでも投げ出すわけにはいかない。親が、学校が、クラスメートが、わたしにそれを許さない。「芽衣ちゃんは頭がいいから」そう言われるたびにこころが軋む。

 じゃあ、頭がよくなくなったわたしはいらないの?

 勉強を教えてあげられないわたしはいらないの?

 テストの点を取ることしかできないわたしに誰が振り向いてくれるだろう。

 彼の話など耳に入らず、わたしは寝ている場合じゃないような気がしてきた。ほんの少し休もうと思っていたけれど、この空き時間も勉強しなければダメだ。

 自殺、という言葉が耳に入って、わたしは顔を上げた。彼はなぜだか少し嬉しそうに話している。テキストを取り出そうと鞄に入れた手を元に戻して、彼の話を少し聞いてみようという気になった。

「電車に飛び込んで死のうとか思いながら、街を彷徨ってて人に会った。そのひとは不器用に自分を叫んでいた。リュウヤさんって言うらしい。特別歌が上手いとかそんなことはないけれど、生命力に満ちあふれてた。彼と話して、別れた後、何か吹っ切れたような感じで、身も心も軽くなった。自殺なんて考えは露と消えて、彼のように生きたいという思いがあった。そうやって見上げた世界はひどく輝いて見えた。それだけの話。でも、誰かに聞いて欲しかったんだ。ありがとう」

 彼はそう言って立ち去ろうとしたけれど、一度引き返して、わたしにCDを差し出した。

「倉持芽衣さんも聴いてみるといいよ。誰かに渡そうと何枚も買ったんだ。あげるよそれ」

 ありがとうと受け取って、ずっとひっかかってた疑問を投げかけてみた。

「なんでフルネームで呼ぶの?」

 彼は自嘲気味に笑う。

「名字は正確には個人のものじゃないから、それで呼ぶのは失礼な気がして。でも気安く名前で呼べるほど社交性がある人間じゃないから」

「芽衣でいいよ」

 彼は努力するよと笑って教室を出て行った。

 

 結果として、彼が二度とその名前を口にすることはなかったけれど。

 時間にしても十数分のあの瞬間がわたしにとってそれまでの十数年より意味があったかもしれない。他人から見て、良いか悪いかはともかくとして。


 愛想振りまいて、

 人の顔色うかがって、

 傷つけることにも、

 傷つけられることにも、

 臆病で、

 いつ捨てられるかビクビクしてる。

 お前はそれでいいのか?

 不安を抱いて、

 不満を抱いて、

 苦しみをさらけることにも、

 怒りをぶちまけることにも、

 臆病で、

 何も感じてないように笑ってる。

 お前はそれでいいのか?

 心の底から頷けるのか?

 お前はお前であってくれ。

 そうありたいお前になってくれ。

 例えオレから何を言われても、

 これがわたしよ文句ある?って

 胸張って笑えるお前であってくれ。


 リュウヤのCDの最後に入っている、詩の朗読のようなその曲がわたしのこころをとらえて放さなかった。途中で挟まれるギターの音色が寂しくて、少しだけ泣けた。

 ギターの技術、歌唱力、詩才。顔がいいだけのアイドルに酔っていたわたしにはそれを判断する技量はないけれど。等身大の彼、まさに彼自身をさらけているような音楽は、わたしを揺るがした。

 ギターを選んだのは衝動的だったかもしれない。勉強から離れられる口実ならなんでもよかった気もするけれど、やっぱりあの時はそれ以外の選択肢は思い浮かばなかった。

 今、六畳一間の安アパートの中で、腹を空かせて倒れているわたし。

 ギターを買って、親と大げんかして、家を飛び出したわたし。

 バイトしながら、指の皮が裂けてもギターをかき鳴らしたわたし。

 後悔など微塵もない。

 あの時から、わたしは常にそうありたいわたしに向かって生きてきた。

 時に迷うことがあっても、必死に考えて答えを出した。

 ……バイトをクビになって死にそうなほど苦しいのも、愛しい苦しさだ。

 自分で決めたことなら、何があっても耐えられる。

 よろよろと起きあがって、求人広告を眺める。

 なんにせよ、仕事を探さなければいけない。

 明日が待っている。

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