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第5話 残された痕跡



 精霊院の記録保管室は、昼を過ぎても静かだった。


 高い天井まで続く書架には、魔物の生態や討伐記録、土地ごとの調査報告が隙間なく並んでいる。窓から差し込む光が机の上に伸び、開かれた記録書の端を淡く照らしていた。


 エトは椅子に座り、目の前の資料を一枚ずつめくっていた。


「……ないなあ」


 小さく呟いて、また一冊を閉じる。


 狼型魔物。背部の黒い外殻。既存の記録には見られない特徴。


 それらの条件で記録を探しているのだが、似た特徴を持つ個体は見つかっても、今回の魔物と一致するものはなかった。


 外殻を持つ魔物そのものが、珍しいわけではない。身を守るために甲殻を発達させた種もいれば、岩石や金属に似た性質を持つ体表を備えた種もいる。


 しかし、今回の個体の外殻は、それらとはどこか違っていた。


「エト、こっちはどう?」


 隣の席からネリシアが声をかける。彼女の前にも、何冊もの記録書が積み重なっていた。


「似てるものはあるんだけどね。どれも決め手がないよ」


「そっかあ。こっちも同じ。黒い体表とか、硬い背中とか、部分的には当てはまるんだけど」


 ネリシアは頬杖をつき、開いていた本をぱたりと閉じた。


「魔物って、思ってたより種類が多いんだねえ」


「今さら?」


 向かい側からセイルが淡々と返す。


「今さらだよ。知ってることと、実際に調べることは違うんだもん」


「それはそうだね」


 セイルは否定せず、自分の手元に視線を戻した。


 彼は記録の内容だけでなく、調査された場所や時期にも目を通していた。同じ特徴を持つ個体が別々の地域で確認されているなら、そこには何らかの共通点があるかもしれない。


 反対に、似ているというだけで同じものだと判断してしまえば、本当に重要な違いを見落とす可能性もある。


「焦って結論を出す必要はないよ。今ある記録だけじゃ、まだ判断できない」


「うん。ボクもそう思う」


 エトは頷き、もう一度資料に目を落とした。


 わからないことがあるなら、調べるしかない。


 ただ、それだけのことだった。


     *


「見つからなかった、か」


 調査結果を聞いたレイヴェルは、机の上に広げられた資料を眺めていた。


 エトたちが持ち帰った外殻の一部は、精霊院の研究者によって詳しく調べられている。レイヴェルはその途中経過をまとめた報告書を手にしていた。


「うん。似た魔物の記録はあったけど、今回の個体と同じだって言えるものはなかったよ」


 エトが答える。


「外殻の構造にも違いがあるみたいだね」


 レイヴェルは報告書の一節を指でなぞった。


 今回の外殻は、表面だけが硬くなっているのではない。複数の層が重なったような構造をしており、外側に近づくほど硬度が増しているらしい。


 しかし、その構造がどのように形成されたのかはわかっていなかった。


「成長の過程でできたものなのか、それとも何か別の要因があるのか……。今の段階では、どちらとも言えないみたい」


「新しい種類の魔物ってこと?」


 ラグナが横から尋ねた。


「そこまでは断定できないよ。今まで知られていなかった種類なのか、既存の魔物に何か変化が起きているのか。それも含めて調べているところだから」


「ふうん。面倒くせえな」


「調査というのは、そういうものだ」


 ゼファルが腕を組んだまま言った。


「わからないことを、わかったふりで片づけるな。確かなことと、推測にすぎないことは分けて考えろ」


「はいはい、わかってるって」


「返事だけは一人前だな」


「なんだよ!」


「二人とも、話が進まないから少し静かにしてね」


 セレスティアの穏やかな声が挟まる。


 ラグナは口を尖らせたものの、それ以上は言い返さなかった。


 レイヴェルは報告書を机に置いた。


「実は、ほかの地域からも似た報告が届いているんだ」


 その言葉に、エトたちの視線が集まった。


「ほかの地域?」


「うん。ゼファルとセレスティアが、それぞれ別の調査で確認したものだよ。どちらも今回とまったく同じ特徴というわけじゃないけれど、魔物の体表が以前の記録と異なっていたり、通常より硬い部分があったりしたらしい」


「同じような変化が、別々の場所で起きてるってこと?」


 エトが尋ねる。


「可能性はある。ただ、報告された時期も調査条件も揃っていないから、今の時点では関連があるとは言い切れない」


 レイヴェルは別の紙を取り出し、机の上に並べた。


 そこには、調査地点と確認された特徴が簡潔にまとめられていた。


 黒い外殻を持つ狼型魔物。


 体表の一部が通常より硬化した魔物。


 過去の記録と外見に差異が見られた個体。


 それぞれの報告は、単独で見れば珍しい事例のひとつとして扱えるものだった。


 けれど、複数の報告を並べても、共通する原因は見つからない。


 土地の性質にも、気候にも、明確な一致はなかった。発生した時期についても、報告が届くまでの時間にばらつきがあり、比較するには情報が足りなかった。


「共通点がないのか……」


 セイルが紙面を見つめる。


「少なくとも、今ある資料からは見つかっていないね」


 レイヴェルはそう答えた。


 エトは報告書を一枚ずつ見比べた。


 どれも違う場所で起きた、違う事例だ。


 似ているところはある。けれど、似ているからといって、同じ理由で起きたとは限らない。


「だったら、これからも記録を集めるしかないね」


 エトが言った。


「うん。次の任務でも、気になる特徴があれば記録しておこう。外見だけじゃなくて、行動や周囲の環境も含めてね」


「わかった。見つけたものを、勝手にひとまとめにしないってことだね」


 ネリシアが指を一本立てる。


「そういうこと」


「よーし。じゃあ次に変な魔物が出たら、オレがぶっ倒して特徴を調べてやる!」


「倒す前に、観察することも覚えなさい」


 セレスティアに即座に言われ、ラグナは肩を落とした。


「……はい」


 その様子に、ネリシアが声を立てて笑った。


     *


 その日の夕方、エトは屋敷の庭にいた。


 調査から戻ったあとも、頭の片隅には昼間の報告書が残っていた。


 庭の草木はいつもと変わらず、風に揺れている。遠くからは、厨房でセレスティアが食器を並べる音が聞こえてきた。


 エトは手の中の小さな記録帳を開いた。


 そこには、これまでの任務で気づいたことが書き留められている。


 黒い外殻。


 通常の個体とは異なる構造。


 別の地域でも確認された、類似する変化。


 そして、まだわからないこと。


「……うーん」


 ペン先を紙に当てたまま、エトは考え込んだ。


 情報が増えれば、何かが見えてくると思っていた。


 けれど、今のところは、わからないことが増えただけのようにも感じる。


「何を唸っている」


 頭上から声が降ってきた。


 顔を上げると、ゼファルが庭の入口に立っていた。


「ゼファル。ちょっと考え事」


「見ればわかる」


「そっか」


 エトは記録帳を閉じた。


「調べてることが、なかなか進まないんだ。少しずつ情報は集まってるんだけど、どうつながるのかがわからなくて」


「情報が集まったからといって、すぐに答えが出るとは限らん」


 ゼファルは庭を歩き、エトの隣に立った。


「わからないものを、無理に理解したことにする必要はない。今わかっていることを正確に残せ。それも調査のうちだ」


「……うん」


「それに、答えが出ないことと、何も進んでいないことは同じではない」


 エトは少しだけ目を見開いた。


 まだ結論は出ていない。けれど、以前なら見過ごしていた違いに気づけた。別の地域にも似た報告があることを知り、何を確かめる必要があるのかも、少しずつ整理されてきている。


 何もわかっていないわけではないのだ。


「ありがとう、ゼファル」


「礼を言われるようなことは言っていない」


「でも、ちょっとすっきりした」


 エトが笑うと、ゼファルは小さく息をついた。


「ならば、いつまでも庭で唸っているな。夕食の時間だ」


「あっ、もうそんな時間?」


「セレスティアが呼んでいる。遅れればラグナに食べ尽くされるぞ」


「それは大変だ!」


 エトは慌てて立ち上がり、記録帳を抱えて屋敷へ駆けていった。


「走るな。転ぶぞ!」


 ゼファルの声が背中に飛んでくる。


「大丈夫だよー!」


 返事をしながら、エトは玄関へと消えていった。


     *


「エト、遅いぞ! この肉、もらっていいか?」


「だめよ、ラグナ。それはみんなの分」


「まだ食べてねえだろ!」


「だから、みんなの分なの」


 食堂に入ると、いつものやり取りが聞こえてきた。


 ラグナは皿の上の肉料理を狙っていたが、セレスティアに手を押さえられている。ネリシアはそれを見て楽しそうに笑い、セイルは呆れた顔で水差しを手に取った。


「ラグナ、さっきもつまみ食いしてたでしょ」


「味見だ、味見!」


「味見の回数が多すぎるんだよ」


「セイルまで!」


レイヴェルは本から目を上げ、エトに視線を向けた。


「エト、おかえり」


「ただいま、レイヴェル」


 エトはいつもの席に腰を下ろした。向かいでは、ラグナがまだセレスティアに肉料理をねだっている。


ほどなくしてゼファルも食堂に入り、全員が揃ったところでセレスティアが料理を配り始める。


 温かな食事の匂いが広がった。


「もう、みんな揃ったんだから、早く食べましょう?」


 セレスティアの声に、七人はそれぞれ食卓へと向き直った。


 今日の調査でわかったことは、まだ少ない。


 黒い外殻の正体も、別の地域で見つかった変化との関係も、何ひとつ確かな答えは出ていない。


 それでも、記録は残った。


 次に調べるべきことも、少しずつ見えてきた。


 エトは目の前の料理をひと口食べ、それから向かい側の仲間たちを見た。


「セレスティア、これおいしい!」


「ふふっ、よかった。おかわりもあるからね」


「オレも!」


「ラグナはまず、今のお皿を食べなさい」


「なんでだよ!」


 食堂に笑い声が広がる。


 エトも笑いながら、もうひと口、料理を口に運んだ。

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