欲した者と、積み上げた者
侯爵領からの調査を終え、三日ぶりに侯爵家へ戻ったとき。
私たちは、はっきりと“空気が変わっている”ことを感じ取った。
出迎えた侯爵夫妻は、以前よりも柔らかな笑みを浮かべ、まるで旧知の家族を迎えるかのように私たちを迎え入れた。
そして――そこに、エリシアの姿はなかった。
「あっ、あの妹は?」
不思議に思う間もなく、侯爵夫人は静かに告げた。
「エリシア嬢なら、すでに伯爵領に戻っていますよ。」
「えっ!?」
妹は、すでに侯爵家を去るよう命じられていたのだと、その時初めて知ることとなる。
四日前、侯爵家の応接室――。
レオンハルト、侯爵夫妻、そして妹――エリシアがその場にいた。
エリシアは不満げ顔を浮かべ、視線をあちらこちらへと向けていく。
その姿を見て、レオンハルトは静かに一歩前へ出た。
「エリシア嬢」
名を呼ばれ、エリシアは一瞬だけ期待に目を輝かせた。
――ついに婚約者として選ばれると、期待に胸を膨らませた。
「あなたを僕の婚約者として、選ぶことはありません。」
淡々と、容赦のない言葉。
「なっ……!? どういう意味ですの!?」
声を荒げる妹に、彼は眉一つ動かさない。
「使用人への暴言と暴力。
授業放棄と虚偽の報告。
社交の場での他者への侮辱。
そして――姉君を貶め、自身を良く見せようとした数々の行為」
一つひとつ、事実を積み上げる。
「それらはすべて、確認済みです。」
妹の顔から、血の気が引いていく。
「わ、私は……!
お姉様が地味で、頼りなくて……だから!」
「言い訳になりません。」
きっぱりと遮られた。
「努力する者を踏みにじり、
誠実な者を笑い、
選ばれる資格があると本気で思っていたのですか?」
冷たい視線が、エリシアを射抜く。
「私は――
最初から、アリアしか見ていませんでした。」
その言葉に、エリシアは息を詰まらせた。
「彼女は、誰にも見られないところで努力し、
誰にも誇らず、
それでも人を思いやることを決してやめはしませんでした。」
「……っ!」
「彼女は、あなたの影に隠れていたのでありません。
初めから光り輝いていたのは、彼女だけです。」
沈黙。
もはや、エリシアには取り繕う言葉すらもでてこなかった。
「よって――」
レオンハルトは、侯爵夫妻へ一礼した。
「侯爵家としても、これ以上の庇護は不要でしょう。」
侯爵が深く頷く。
「エリシア。
本日をもって、侯爵家の婚約者候補としての任を解きます。」
エリシアは震えながら叫んだ。
「そんな……嘘よっ!
私が、選ばれないなんて……そんなことあるはずないわっ……!」
レオンハルトは、最後に告げた。
「あなたがこれまで選ばれてきたのは、ご両親の愛情深さとアリアの努力の賜物です。」
絶対零度の凍り付いた瞳が告げていた、エリシアに対する嫌悪の感情を。
「その二つがなくなってしまえば、一体誰があなたを選ぶというのです?」
その言葉が、決定打だった。
エリシアは音もなく泣き崩れ、床に伏せた。
みんなが去った後も、彼女はしばらくその場から動くことができなかったが、誰も助けてもくれなかった。
「エリシア嬢、少しの間でしたがお疲れさまでした。
伯爵領に戻ったら、ご両親によろしくお伝えくださいね。」
最初は「お転婆な令嬢」として微笑ましく見守っていた侯爵夫妻も、次第にエリシアの本性を知ると、目を背けられなくなった。
侯爵家に滞在する“未来の婚約者候補”として、あまりにも問題が多すぎた。
そしてなにより決定打となったのは、社交界での評判だった。
実は――
社交界デビューの日、妹の素行を目撃していたのは、レオンハルトだけではなかった。
私と挨拶を交わした令息たちの多くが、あの光景を見ていたのだ。
私が疲れているだろうと、気遣いの言葉をかけてくれた直後、もう一度声をかけようと近づいたそのとき、エリシアの悪行はみんなの知るところとなった。
他にもエリシアとあった多くの貴族の間では、彼女は他人を見下し、品位をかなぐり捨てた態度を晒していたことで有名だった。
誰もが、それを“見てしまった”。
結果、社交界で囁かれていた「問題のある令嬢」は、実は私ではなくエリシアのことであった。
それを、侯爵家は正確に把握していた。
さらに、伯爵家――私の実家でも同じだった。
家庭教師も、使用人も、皆が私の努力と誠実さを認めていた。
けれど、その事実を伯爵夫妻だけが受け入れなかったため、公にされることはなかった。
侯爵家から事実を知らされたとき、伯爵夫妻は蒼白になったという。
長い間、比べ、誤解し、見誤っていた娘が、どちらだったのか。
彼らは、何度も何度も私に詫びたと聞いた。
そして、あの日。
私たちが侯爵領へ向かう出立の朝。
妹は、必死な形相で私に近づこうとした。
その瞬間――
レオンハルトは、迷いなく私を抱き寄せ、妹の視線を遮った。
はっきりとした拒絶。
誰の目にも明らかな、選ばれた者と、そうでない者の境界。
妹は言葉を失い、その場に立ち尽くしたまま、やがて背を向けて去っていった。
それが侯爵家でのエリシアの最後の姿だった。
こうして、すべては終わった。
侯爵夫妻は、私が婚約者となってことを心から喜び、
レオンハルトは誇らしげに私の手を取り、
多くの人々が祝福の言葉を贈ってくれた。
「何も選ばれない」と信じ込んでいた令嬢は、
初めて――自分自身の意志で道を選び、
そして、選ばれた。
「行きましょう、アリア。」
「はい、レオンハルト様。」
これは、誰かを蹴落とした物語ではない。
ただ、誠実に生きた者が、正しく報われた物語だ。
唯一、自分で選んだ幸せを手に入れた令嬢は、
穏やかな笑顔で未来へと歩き出した。
――おしまい。




