Prologue 2
「ルイくん、ルイくん……」
綺麗な声だ。
鼓膜の触りがよく、すんなり脳の内側に受け取れる声。
だから、ルイは呼ばれた事を自覚して、目覚めた。
「おはよう、ルイくん。監視当番の交代時間だからおきてね」
薄い毛布から顔を出したばかりのルイに、黒い髪の少女が問いかける。
籐派セラ――とても綺麗な声をしている素敵な少女。
日陰者のルイと違って多数のコミュニティの中にいられる人間、人から必要だと思って貰える人間。今の世の中では珍しく、他人に大丈夫? と言うことができる人間だ。
それから声が綺麗だ。とっても綺麗だ。何曲か歌を収録して休日にずっと聞いていたいくらい綺麗な声をしている。
「ルイくん?」
「ごめん。すぐに起きるよ」
むくりと起き上がったルイはそのまま天上を見上げた。
特殊強化ガラスの向こう、暗い海のなかに光がチカチカ降ってくる。
それは塵であったり、魚の腹であったり、等しくブルースフィアに棲まう人間にとっては価値の無いものだ。
ここは泳葬場。
ブルースフィア内の最上部に位置するフロアだ。エリア27はこの下に、教育区画、住宅区画、プラント区画の順に四つの層で形成されている。
『鬼ごっこ』が始まったあの日から既に一週間。
鬼の手から逃れた人間は四つの層の中で最も狭いフロアに押し込められていた。
ルイがここに居るのは単純な話、あの日、シャワールームに三時間以上こもって、全身くまなく赤くなるほどに肌を擦り上げたあと、ばったりと『学生会』の連中と、その候補生であったセラを含む数人と出くわしたからだ。
正直、一緒に行こうという提案には気乗りしなかったが、籐派セラが「行こうよ、ルイくん」と言ったから頷いてしまった。
だって、声が綺麗なんだから。
外部との連絡はとれていない。
通信網は遮断。
ブルースフィア間の唯一の移動手段であるパイプレールのステーションは居住区にあり、鬼の徘徊するフロアを通って無理に脱出を謀るには、まだまだ時期尚早と言えた。
そんなリスクは冒さずに、外部からの救援を待つべきだというのが、現在この泳葬場フロアに収用されている人間を纏める『学生会』のメンツの見解だった。
たいした物だと思う。
このエリア27でも、彼ら学生会は、選りすぐったメンツだ。選ばれた人間で、同時に努力をする人間だ。つまり頭が良い。
力強い言葉と安心させる微笑みの裏で、間違い無く懸念を抱いているはずなのに、
『見捨てられてさえいなければ』、と。
例の都市伝説、あまりに有名なものだから、いろんな憶測が付け足されている。
異世界から扉が開いてやって来るだとか、実は鬼は既に人間の中に隠れ潜んでいるのだとか、鬼の王に選ばれた人間が鬼に変えられるのだとか。
『地球機構』が絡んでいる、だとか。
地球機構とはこの地球上の管理権限の最高位に位置する委員会だ。ブルースフィアの最終的な所有権も全てこの地球機構が所持するところにある。
もしも、地球機構がこの事態に一枚絡んでいるのならば、この暗い海に隔てられたエリア27への救助は期待できない。
「ルイくん?」
籐派セラが訝しんでいる。
「うん、すぐに行くよ」
のそりと立ち上がったルイは、すごすごとセラの後ろに並んだ。
彼女にはどうやらツボだったっらしい、鈴が鳴るようなというのは言い得て妙、くすくすと上品に笑う。
「ルイくんはおもしろいね」
「そう? なにもしてないけど」
「そういうところ!」
意味は理解出来ないが得した気分だ。
ただ突っ立っているだけで籐派セラの綺麗な声をこんなにも聞けたのだから。
セラが不意に笑うのをやめる。
こてんと、首を傾ぐルイの手に、不意にセラが指を絡めてきた。
ビクリと、肩が震えた。
反射的に振り払おうとした身体を、ルイは胆田に力をこめて押し殺す。
普通ならいやだが、彼女なら仕方ないと思う、我慢すべきだと思う。
だって、彼女の声はとても綺麗なんだから。
「な、なあに?」
情けなく声が震えた。
「うんあのね、ちょっとやっぱり恐くて」
俯く籐派セラの囁くような声は、やっぱり綺麗だ。我慢している甲斐があると、ルイが頷くには充分だった。
それにしてもと、思う。
ルイの十六年の人生で、こんなにも人々が密着して生きているのを見るのは初めての経験だった。
信じられるだろうか?
薄っぺらい布きれから顔を出した人に、同じく隣から顔を出した人が「おはよう」と自然に声を掛けるのだ。
ルイの人生において「おはよう」なんて言葉を使う機会はそうそう無かった。
使う必要なんて無かった。
だって意味が無い。
挨拶をする事とカリキュラムの進行にどれほどの接点があるというのだろう。たまに友人に話しかけるとっかかりに使っているのを見たことがあったが、それだってどこかぎこちなかった。
ならどうして、彼らは急にそんな意味の無い習慣を始めるに至ったのだろうと、ルイは考えた。
以前と今の違いと言えば、追い詰められていることと、このエリア27の人間の絶対数が著しく減少したことだろうか。
だったら、ブルースフィア内の人間が最初から少なかったら彼らは日常的に「おはよう」を言っていたと言うことだろうか。
それはそれで面倒だと思った。
意味も無いのに呼び止められるのが日常なんて、きっと窮屈だろう。
もしも、ルイの知っている日常通りだったら、きっと籐派セラもこんな風に自分の感情を吐露して他人と指を絡めるなんてことはしなかったのだろう。
一時期読んでいた古典文学のようだと、ルイは思った。
最近の文学に比べてめったに読まれなくなった古典文学は感情的な表現がたびたび散見される。
それらは現代の人間にとってはとても共感しがたいもので、廃れていったのも当然と言えるだろう。
でも、今の彼、彼女らなら、何かしら感じ入るものがあるのかも知れない。
「ルイくん?」
籐派セラが下から見上げてくる。
まつげが長い。
うっすら潤んでいて、不安そうで。
ふと、古典文学のヒロインと籐派セラが重なる。
確か……、ヒーローは言ったのだ。
「大丈夫、僕がきみを守るから」
残念ながら笑顔はぎこちなくなってしまった。
やはり古典文学など、所詮はまがい物なのだろうか。
「ルイくん……」
籐派セラはそっと、絡んだ指を離した。
よしっ、今度は掴まれないように背中に隠してしまおう。
「ごめんね、ルイくんも恐いよね。私ばっかり頼るようなこと言って。……でも、ありがとう。私もきっとルイくんの力になるよ」
籐派セラは目元を指で拭いて、ぐっと両手を顔の下で握ったのだ。
これは、あれだろうか、彼女も例の古典文学を知っていて合わせてくれたと言うことだろうか。
なんだか、それはとっても……恥ずかしいじゃないか。
頬を染めてそっぽを向くルイを、籐派セラはじっと見ていた。
「ふふっ」
微笑を溢しながら。
やっぱり彼女の声は綺麗だと思った、大好きだなと思った。




