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武将 島津義弘 第84話 薩摩国境の山道

(1600年10月下旬 肥後手前・薩摩国境の山道)


山道の傾斜がゆるみ、周囲の山影が変わり始めたのは、

午後の光が斜面を赤く染める頃であった。

岩肌の色が深くなり、斜面の形が見慣れた薩摩の山に近づいていく。

紀伊・大和の山々とは違う、丸みを帯びた稜線。

植生も変わり、常緑の照葉樹が増えてくる。

義弘は歩みを止め、遠方の山影を見た。

薩摩側の稜線が、薄い雲の向こうに浮かんでいる。


兵たちの歩調が自然と速まった。

列の間隔が詰まり、足音が揃う。

山越えの疲労は残っているが、地形の変化が身体を前へ押した。

帰還の気配が、外界そのものから立ち上がっていた。


十郎太が前に出て、山道の影を見た。

午後の光が木々の間を抜け、影が揺れる。

その揺れに乱れはない。

人影も獣の動きもない。

「殿、前方に動きはございません」

影の揺れで安全を読むのは、薩摩の山地で育った者の技であった。


前方の分岐に斥候が走り、足跡と折れ枝を確かめた。

土の締まり具合を指で押し、湿りを見て通過の有無を判断する。

「人の通った跡は見えませぬ」

山道は静かで、外敵の気配は薄い。


そのとき、山道の先に影が現れた。

低い姿勢で進む二人の男。

肩にかけた弓、腰の太刀、そして歩き方。

島津家の斥候であった。


「薩摩守様!」

斥候は膝をつき、深く頭を下げた。

「周辺に追手はおりませぬ。

 村落も静か、道は南へ抜けられます」

声は抑えているが、安堵が滲んでいた。


義弘は短くうなずき、周囲の状況を問うた。

斥候は、東軍の動き、村々の様子、山道の安全な支線を手際よく伝える。

薩摩の組織線が、ようやく義弘の一行に追いついた瞬間であった。


兵たちは隊列を整え直した。

先頭・中央・殿の三つに分かれ、間隔を一定に保つ。

逃避行の散開した形ではなく、

帰還する軍としての形へと組み替えられる。

列の動きが揃い、足音が一つの線になった。


島津側の斥候が先導に立ち、国境内の安全な道へ誘導した。

山道の幅が広がる地点で、兵たちは荷物と馬具を締め直した。

革紐を引き、鞍の位置を調整し、刀の鞘を固定する。

薩摩領内の行軍に備え、装備が整えられていく。


山道の先には、谷が広がっていた。

夕日が谷底の川を照らし、赤い光が水面に揺れる。

斥候が夜営地の候補を示し、義弘はうなずいた。

外界はすでに敵ではなく、帰還を導く線へと変わっていた。


兵たちは静かに歩を進めた。

山影は深く、空気は冷たい。

だが、その冷たさは故郷の山の匂いを含んでいた。

紀伊・大和の険しい山々を越え、

義弘の一行はついに“薩摩の組織線”へ戻りつつあった。


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