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武将 島津義弘 第82話 紀伊・大和境の山越え

紀伊へ入る山道は、伊勢路よりさらに細く険しかった。

朝霧が谷に溜まり、道の先が白くかすむ。

兵たちは馬を降り、手綱を短く持って斜面側に寄せて歩いた。

馬の蹄が滑れば、そのまま谷底へ落ちる。

山越えの核心部に入ったことを、誰もが足裏で感じていた。


十郎太が前に出て、風の向きを頬で受けた。

谷から吹き上げる風は湿りを含み、遠くで木々の揺れる音を運んでくる。

「殿、追手は北側の尾根を回っております。

 風がその音を運んでおります」

風向きで追手の位置を読むのは、山地での斥候の常法である。


義弘は兵を三つの小隊に分けた。

先頭・中央・殿の三つに分け、互いに距離を保って進ませる。

山道が崩れたとき、一度に全滅しないための配置である。

伝令が静かに走り、列が三つの影に分かれた。


食糧が配られ、不要な荷が捨てられた。

雨具や予備の縄、壊れた馬具などが岩陰に置かれる。

山越えでは重量が命取りになる。

兵たちは荷を軽くし、腰の紐を締め直した。


山中の村落を避けるため、義弘は谷側の道へ迂回した。

山の稜線近くには小さな集落が点在している。

東軍の検問が置かれている可能性が高い。

十郎太が遠目に煙を見つけ、義弘に合図を送った。

「村が近い。道を外します」

列は谷へ向けて静かに角度を変えた。


やがて雨が降り始めた。

細い雨粒が斜面を滑り、道の土を濡らす。

兵たちは足元を確かめながら、岩場を横切った。

濡れた岩は滑りやすく、手をついて進む者もいる。

馬は鼻を鳴らし、蹄を慎重に置いた。


義弘は谷沿いの道を選んだ。

谷底の湿地は足跡が残りにくい。

雨が降れば、さらに跡は消える。

泥の深さを確かめながら、兵たちは湿地側へ足を踏み入れた。

泥は重く、足を取られるが、跡はすぐに水を吸って形を失う。


小隊間の距離は保たれたまま、列は山の稜線を避けて進んだ。

稜線に出れば追手の目に触れる。

谷沿いの影は深く、雨がその影をさらに濃くしていた。


雨脚が強まり、進行速度が落ちた。

斜面の崩れやすい場所では、兵が互いに手を貸し合い、

岩陰を伝って慎重に進んだ。

山の匂いが濃く、湿り気が衣服に染み込む。

風は冷たく、山越えの厳しさが身体に重くのしかかった。


義弘は立ち止まり、谷の奥を見た。

雨に煙る山の影は深く、外界そのものが敵のように迫ってくる。

追手の気配は遠いが、山の圧力は近い。

ここから先は、追手だけでなく山そのものとの戦いになる。


「進む。谷を抜けるまで、距離を保て」


短い指示が小隊へ伝わり、列が再び動き出した。

雨の音が山に吸われ、足音が消えていく。

紀伊・大和境の山越えは、

義弘の帰還の旅をさらに細く、厳しい線へと追い込んでいった。


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