武将 島津義弘 第68話 義弘の“死の覚悟”
霧が濃くなり始めた九月上旬の午前。
島津軍の前方で、急ぎ足の使番が馬を止めた。
「宇喜多勢、崩れました! 小西勢も押されております!」
声は霧に吸われながらも、列の奥まで届いた。
霧の切れ間から、西軍本陣の旗が倒れるのが見えた。
兵が後ろへ流れ、槍を捨てて走る者もいる。
別の方向からは、他国の兵が駆け抜けてきた。
「総崩れだ! もう持たぬ!」
その叫びは、戦場全体の空気を決定づけた。
島津家の家臣が急報をまとめ、義弘のもとへ走った。
義弘は短くうなずき、霧の向こうを見据えた。
背後の谷を確認した家臣が戻ってきた。
「殿、背後の谷は深く、馬は通れませぬ」
谷の縁はぬかるみ、崖の角度は鋭かった。
山裾の細道も、すでに他国の軍勢が塞いでいた。
さらに東軍の一部が側面へ回り込み、
島津軍の退路を断つ形になっているのが見えた。
「退く道がございませぬ」
その報告は、家中の空気を一段重くした。
若い家臣たちが小声で議論を始めた。
「突くべきか」
「いや、中央へ出られぬ」
「待てば巻き込まれるだけだ」
近習が義弘へ駆け寄り、
「家中が騒いでおります」と伝えた。
義弘の周囲に家臣が集まり、
短い言葉で状況を確認した。
霧の中、声は抑えられ、
鎧の擦れる音だけがはっきりと響いた。
義弘は馬を進め、兵の列の間を歩いた。
兵の配置を一つずつ確認し、
馬の息の荒さ、脚の震えを見て状態を把握した。
谷の縁に立ち、深さと傾斜を確かめる。
「ここは通れぬ」
義弘は近習に静かに告げた。
十郎太は、山裾の小道を順に確認していた。
霧の中で地形を読み、
通れる幅かどうかを手で測り、
湿地の深さを足で確かめた。
谷沿いの道は崩れ、
別の道は敵兵が塞いでいた。
どの道も、退くには狭すぎ、危険すぎた。
十郎太は義弘のもとへ戻り、
「退ける道は見当たりませぬ」と報告した。
その言葉を受け、
義弘は静かに刀の鞘を軽く叩いた。
乾いた音が霧の中に小さく響いた。
馬の向きをわずかに前へ向け、
息を整え、兜の緒を締め直した。
その動作を見た家臣たちは、
何も言わずに列を整えた。
霧はさらに濃くなり、
周囲の音が遠くなった。
西軍の怒号は遠ざかり、
戦場が一瞬、異様な静けさに包まれた。
兵たちは声を潜め、
鎧の擦れる音だけが規則正しく続いた。
島津軍は前方を見据えた。
退路はない。
進めば敵の中央。
その現実の中で、
軍全体が“退き口”へ向かう前の静けさに沈んでいった。




