武将 島津義弘 第67話 戦場到着と外界の異変
慶長五年九月上旬。
島津軍は美濃の山間を抜け、関ヶ原の盆地へ入った。
山道を下りきった先に広がる平地は、
朝の霧に覆われ、白く沈んでいた。
先発隊が馬を止め、振り返った。
「ここが関ヶ原にございます」
霧は低く漂い、
盆地の奥まで見通すことはできなかった。
草地は夜露で濡れ、
足を踏み入れるたびに水気がにじんだ。
谷の底には水が溜まり、
馬の脚が沈む音が鈍く響いた。
風は弱く、湿気が肌にまとわりつく。
兵たちは、鎧の下にこもる熱と湿りに顔をしかめた。
霧の向こうに、ぼんやりと旗が揺れていた。
西軍本陣の旗である。
しかし、その旗は整然とは立っていなかった。
一本は傾き、一本は風もないのに揺れ、
その周囲では兵が右往左往していた。
「隊列が整っておりませぬ」
島津家の家臣が、霧の切れ間を見て報告した。
別の隊は動かず、
また別の隊は勝手に位置を変えているように見えた。
指示が通っていないのが、遠目にも分かった。
島津軍は、西軍の左端へ案内された。
山裾に近い狭い場所で、
中央には他国の軍勢がすでに陣を張っていた。
「ここが我らの位置か」
家臣が周囲を見回した。
荷駄を置く場所を探すが、
平地はすでに他の軍勢に押さえられており、
山際に並べるしかなかった。
兵たちは、狭い地形に不満を漏らさず、
黙々と荷を下ろした。
義弘は馬を降り、
地図と現地の地形を照らし合わせた。
谷の深さ、湿地の広がり、斜面の角度。
霧の中でも、地形の線は読めた。
「ここは抜けられぬ」
「ここは通れる」
義弘は近習に短く指示を出した。
退路と進路の両方を確認し、
動ける道と動けない道を明確にしていった。
十郎太は、霧の切れ間から見える旗を読み取っていた。
西軍本陣、宇喜多勢、小西勢、
そして島津軍の位置を地図に書き込む。
東軍側の旗も確認した。
徳川、福島、黒田──
霧の向こうに、確かにその色が見えた。
「敵味方の位置はこの通りにございます」
十郎太は義弘へ地図を差し出した。
兵たちは、戦場の空気に違和感を覚えていた。
「静かすぎる」
「霧が濃すぎる」
そんな声が列の中で交わされた。
遠くから聞こえる太鼓は不規則で、
号令も一定ではなかった。
西軍の陣からは、怒号や混乱の声が漏れてくる。
霧の中で響くその声は、
戦の始まりではなく、
すでに崩れた陣の音に近かった。
島津軍は、戦場の端に置かれたまま、
霧の向こうの乱れを見つめていた。
まだ戦は始まっていない。
しかし、外界の霧と湿気、
乱れた布陣、動かぬ諸隊──
それらは、
この戦がすでに形を失っている
という事実を、静かに示していた。




