武将 島津義弘 第44話 薩摩帰国後の家中整備
天正十六年(1588)夏。薩摩・内城下。
義久が上洛から戻ったのは、蝉の声が濃くなる頃だった。
城下へ入ると、家臣たちが道を開け、留守中の出来事を次々と報告した。
城の石垣の一部が崩れ、倉の屋根が雨で傷んだこと、
街道沿いの村で人手が足りず、橋の補修が遅れていること──
義久は一つずつ聞き取り、城内の損耗箇所を案内させた。
義弘が城門前で待っていた。
「兵の数、いくらか減りました」
義弘は淡々と報告した。
上洛中の負担、在番兵の疲労、欠員の補充──
義久はうなずき、兵の再編を急ぐよう命じた。
数日後。
各地の在番兵が城下へ集められた。
兵数の確認が行われ、負傷者や欠員が記録される。
足軽と侍の組替えが進み、俸禄の調整が行われた。
これは秀吉政権が進める「軍役の統一」に合わせるためでもあった。
義弘は訓練再開を命じ、弓・槍の稽古が城下の空気を引き締めた。
馬の調教が始まり、十郎太が兵の動きを記録していく。
城の修繕も同時に進んだ。
石垣の崩れを大工・石工が調べ、
破損した門や柵が修理される。
堀の水量が調整され、倉の屋根には新しい板が張られた。
修繕費用の割り振りが決まり、家臣たちが村々へ指示を出した。
街道の整備も急務だった。
薩摩街道の荒れた箇所を確認し、橋の補修に人手を回す。
宿場では人手不足が続き、荷駄の通行量が増えていることがわかった。
秀吉は九州平定後、街道整備を各地に命じており、
薩摩もその例外ではなかった。
街道沿いの村々に作業が割り当てられ、
肥後方面への連絡路も再点検された。
その一方で、家中の不満も噴き出していた。
「上洛中の負担が重すぎます」
「境の村が年貢を遅らせております」
「隣家との境界が曖昧でございます」
家臣たちが次々と訴え、義久は一人ずつ呼び出して話を聞いた。
不満の強い家臣には個別に対応し、
役目分担を再整理していった。
中央への従属が進む中、
薩摩内部の利害を整える作業は終わりが見えなかった。
天正十七年(1589)。
義弘は軍事再建を進めていた。
弓の稽古、槍の組討ち、馬の調教、
地形を使った演習が続き、兵の疲労が記録される。
兵の動きは徐々に整い、
薩摩の武が再び形を取り戻しつつあった。
その頃、噂が薩摩へ届き始めた。
「肥後では名護屋に大軍が集まっているらしい」
「筑前でも兵糧の買い付けが増えている」
商人たちが口々にそう話し、
家中でも噂が広がった。
名護屋城の築城が急ピッチで進んでいることも伝わり、
兵たちは倉の兵糧を気にし始めた。
薩摩から名護屋までは遠い。
兵糧の輸送は九州の中でも特に重い負担となる。
家臣たちは武具の点検を急ぎ、
不足分の調達先を探し始めた。
義久は家臣に命じた。
「名護屋の動きを探れ。
朝鮮へ渡るという噂が真かどうか、確かめよ。」
兵糧・武具の点検が始まった。
倉の兵糧が確認され、古い米が入れ替えられる。
矢束、槍、刀が点検され、不足分の調達先が決められた。
船の手配が検討され、
名護屋行きに備えた荷駄の準備が静かに進んでいく。
天正十八年(1590)──薩摩の空気は変わっていた。
城下の整備、兵の再編、街道の補修、家中の調整。
すべてが、まだ見ぬ外界──
名護屋、そして朝鮮
へ向かうための準備になっていた。
義久は机の上の文書を整え、
義弘は兵の動きを見つめていた。
薩摩は、中央の政治線に従う形へと静かに変わりつつあった。




