武将 島津義弘 第27話 薩摩国内の巡察
――国をめぐる風向きが変わるとき
義弘の眼は、薩摩の外に広がる“九州の線”を見始める――
伊東が崩れ、大友が南へと迫る。
その報せは、ただの情勢ではなく、
薩摩・大隅・日向を貫く一本の戦線を、
ゆっくりと、しかし確実に耳川へと収束させていった。
疲れた村々。
痩せた田。
槍を握り直す兵。
鉄砲の火皿を乾かす音。
それらは戦の準備であると同時に、
島津家が“外界へ踏み出すための素材”でもあった。
守るだけでは足りぬ。
備えるだけでも足りぬ。
国の線を、九州の線へと繋げるとき、
武は初めて“覇権”へと姿を変える。
義弘がその坂の途中に立つ。
そして、耳川へ向かった。
天正四年(1576)初夏。
梅雨明け前の湿りが残り、薩摩の山々には薄い霧がかかっていた。
義弘は、夜明けとともに鹿児島城を出た。
供は五名。いずれも地頭や郷士で、村々の軍役帳を扱える者たちである。
地図と筆記具を持たせ、村ごとの兵糧・人足・地形を細かく記すよう命じた。
最初の村は、城下から半刻ほど北の谷間にある。
薩摩は“外城制”の地で、村々は地頭仮屋の支配下に置かれ、
名主は年貢だけでなく、兵の動員にも責任を負っていた。
名主が道端で深く頭を下げる。
田畑は谷沿いに広がり、畦の一部が崩れている。
薩摩の谷田は、上流の山の保水力に大きく左右される。
昨年の大雨で用水路が傷み、落ち葉が詰まって水の流れが弱い。
稲の育ちは遅れ気味で、川筋の水量も少ない。
義弘は畦を踏み、土の沈み具合を確かめた。
シラス台地の赤土は雨に弱く、湿りが残るとすぐに崩れる。
川面の光の揺れを見て、上流の雨量を推し量る。
名主の家に入り、年貢の納入状況を尋ねる。
俵の数は例年より少なく、兵糧に回せる量は限られていた。
人足の数も減り、若者が隣村へ“出作り”に出ているという。
薩摩では農繁期に働き手が不足することが多く、
軍役にも影響が出やすい。
義弘は静かにうなずき、地頭に記録を取らせた。
村の家々を回る。
屋根の傷み、家畜の数、薪の積み方──
生活の線が、そのまま戦の線につながる。
家畜は少なく、荷運びは人足に頼るしかない。
働き手の少なさは、兵の疲労にも直結する。
義弘は家々の前に立ち、残された若者の顔を見た。
声はかけない。
ただ、村の力を測るように歩いた。
次の村へ向かう山道に入る。
薩摩の古道は尾根を通ることが多く、谷道はすぐに湿地化する。
道幅は狭く、昨年の雨で崩れた箇所がそのまま残っていた。
馬が通れるかどうか、義弘は足元の湿りを確かめながら進んだ。
谷から吹き上がる風の向きが変わり、湿地の広がりを知らせていた。
二つ目の村では、名主が前の村との違いを語った。
収穫量はやや多いが、病人が増えている。
この頃、薩摩では疱瘡(赤斑)や風土病が周期的に流行し、
働き手の不足は深刻だった。
兵として出せる人数は限られる。
義弘は地図を広げ、村ごとの負担をどう分けるかを考えた。
島津家の軍役は「一郷一騎」の原則があり、
村の力を見誤れば戦の線が崩れる。
さらに北へ進むと、川沿いの集落に出た。
川の増水跡が堤に残り、舟の数も減っている。
薩摩の河川は急流が多く、舟運は季節に左右される。
漁の状況を聞くと、今年は不漁で、
川を使った物資運搬も難しいという。
薩摩では磯漁が主で、川漁は補助的である。
義弘は川面を見つめ、流れの速さと深さを確かめた。
耳川へ向かう補給路を考えるうえで、川の線は欠かせない。
日が傾き始めるころ、義弘は地頭に、
各村の兵糧・人足・地形の違いを整理させた。
補給に使える村、負担が大きい村──
その線を明確に分けることで、
兵の再編に必要な基礎が整う。
帰路、義弘は再び山道と川筋を確かめた。
朝とは風の向きが変わり、谷の影が長く伸びている。
翌日の巡察の順番を決め、城へ戻る足を速めた。
薩摩の外界を整えること。
それが、耳川へ向かう坂の最初の一歩であった。




