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冷たく湿った石の床から這い上がる底冷えが、私の体温を無慈悲に奪っていく。
暗く、太陽の光など何年も差し込んだことのないであろう地下牢は、ひどい黴の匂いと、鉄錆、そして微かに漂う血の匂いに満ちていた。手首に食い込む分厚い鉄の枷は氷のように冷たく、少し身じろぎするだけで皮膚が擦れ、鈍い痛みが脳髄を刺激する。
「……どうして、こんなことに……」
掠れた声は、石壁に吸い込まれて消えた。喉が渇ききっていて、ひび割れた唇からは血の味がした。
数日前まで、私は確かに陽の当たる場所を歩いていた。愛する領地で、領民たちの笑顔のために身を粉にして働いていた。それなのに、今の私は反逆者として鎖に繋がれ、裁きを待つだけの惨めな罪人に成り下がっている。
頬を伝う冷たい雫は、地下水なのか自分の涙なのか、もうわからなかった。
絶望という泥濘の中で、私の脳裏に浮かぶのは、美しい金糸の髪と、甘く囁くような優しい声を持つ男の顔だった。
カイゼル・フォン・レヴィン。
レヴィン子爵家の三男であり、私の――セルリア・ヴァン・アシュクロフトの、婚約者だった男。
彼を信じ、全てを託したことが、私の運命を決定づける最悪の選択となったのだ。
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私が生まれ育ったアシュクロフト男爵領は、王都から馬車で十日ほど離れた辺境に位置する、小さくも豊かな土地だった。
特産品は、医療や魔道具に欠かせない『月光草』と呼ばれる微かな魔力を持った植物。山々に囲まれた盆地である我が領地は、月光草の栽培に最も適した気候と土壌を持っていた。莫大な富を生み出すわけではないが、領民たちは皆勤勉で、私たちアシュクロフト家もまた、領民の生活を守ることを第一とする素朴な貴族だった。
「セルリア、貴族の真の誇りとは、豪奢なドレスを着飾ることではない。領民たちの笑顔を守るための盾となることだよ」
今は亡き父の言葉が、私の心の支えだった。
父も母も、領民のために尽くす素晴らしい領主だった。しかし、私が十六歳になった年、領内を突如として原因不明の熱病が襲った。治療薬の確保と感染拡大の防止のために不眠不休で奔走した両親は、結果として自らもその病に倒れ、あっけなくこの世を去ってしまった。
たった一人残された私は、悲しみに暮れる暇さえ与えられなかった。
若輩ながらも男爵家の当主代行として、私は父の遺志を継ぎ、領地の立て直しに奔走した。朝早くから夜遅くまで馬を走らせて村々を回り、農地の状況を確認し、台帳と睨めっこする日々。ドレスや宝石などには一切の興味を持たず、ただ領民が飢えることのないようにと必死だった。
しかし、両親の死から二年が経った頃、私は領地の台帳に不可解な点があることに気がついた。
我が男爵領は、上位貴族であるバルター伯爵家の寄子として、毎年一定の税と特産品である月光草を納めている。だが、過去十数年に遡って台帳を調べ直すと、王国に定められた規定の税率を遥かに超える莫大な額の金貨と、生産量の大半を占める月光草が、バルター伯爵家へと送られていたのだ。
最初は、父が何か特別な契約を結んでいたのかと思った。だが、父の手記や裏台帳をくまなく探しても、そんな記録はどこにもない。
さらに調査を進めるうちに、恐ろしい事実が浮かび上がってきた。
バルター伯爵は、王家からの命令だと偽り、私たちのような辺境の下級貴族から不当に重い税を搾取していた。そして、集めた月光草を正規のルートではなく、隣国との国境地帯で活動する闇商人へと横流しし、莫大な不正蓄財を行っていたのだ。
月光草は、精製の方法によっては強力な麻薬にも、違法な魔法薬の材料にもなる危険な代物だ。もしこの横流しが事実ならば、バルター伯爵の行いは単なる横領に留まらず、国家に対する重大な反逆罪に値する。
『このままでは、アシュクロフト領は搾取され尽くしてしまう。それに、我が領地の月光草が人々の命を脅かすものに使われているなんて、絶対に許せない』
私は震える手で、証拠となる台帳の写しや、闇商人との取引を記した偽装の荷馬車の記録などをかき集めた。
だが、私はただの男爵令嬢にすぎない。相手は強大な権力を持つ伯爵家だ。私が一人で王都の法務院に告発したところで、握り潰されるのは目に見えていた。最悪の場合、私自身が口封じに消され、領地は完全に乗っ取られてしまうだろう。
誰か、信用できる者に相談しなければ。
確固たる証拠を持ち、共に王都の然るべき機関へと訴え出てくれる、権力と知恵を持った味方が必要だった。
その時、私の頭に浮かんだのは、たった一人しかいなかった。
幼い頃からの顔馴染みであり、三年前に婚約を結んだカイゼル・フォン・レヴィンだ。
レヴィン子爵家は法務院に強いパイプを持つ法服貴族の家系だった。三男であるカイゼルは、家督を継ぐことはできないものの、その明晰な頭脳を活かして王都の法務局で若くして役人として働いていた。
彼はいつも私に優しかった。私が両親を亡くして泣き崩れていた時も、ずっと傍にいて肩を抱き、「僕が君を、君の領地を必ず守るから」と誓ってくれた。金糸のような美しい髪と、春の陽だまりのような温かい蜂蜜色の瞳。彼の存在だけが、孤独な私の唯一の心の安らぎだった。
私は決意を固め、分厚い証拠の束を鞄の底に隠し、王都へと向かった。
カイゼルにすべてを打ち明け、彼の力を借りてバルター伯爵の不正を正すために。
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「……信じられない。バルター伯爵が、これほどの大規模な不正を行っていたなんて」
王都にあるカイゼルの私邸。
分厚いカーテンが引かれた薄暗い執務室で、私が提示した証拠の書類を一枚一枚めくりながら、カイゼルは驚愕の表情を浮かべていた。
「本当よ、カイゼル。私、何ヶ月もかけて領地の台帳と流通の記録を調べ上げたの。間違いないわ。伯爵は王家の名を騙って私たちから搾取し、月光草を隣国へ密売している。このままでは、アシュクロフトの領民たちは税の重さに耐えかねて全滅してしまうわ」
私は藁にも縋る思いで、彼の手を握った。
「お願い、カイゼル。あなたの法務局での立場なら、この証拠を直接、上層部に届けることができるはずよ。私に力を貸して。領民たちを、父と母が愛した土地を救いたいの」
カイゼルは伏せていた目をゆっくりと上げ、私の手を優しく、ひどく温かい手で握り返してくれた。
「……よく一人でここまで調べ上げたね、セルリア。本当に頑張った。君の勇気と領民を想う心は、誰よりも気高いよ」
その優しい言葉に、張り詰めていた緊張がふっと解け、私の目から大粒の涙が溢れ出した。
ずっと怖かった。夜中に一人で台帳を調べている時、いつ刺客が現れるかと怯えていた。自分がやっていることは正しいのか、無力な自分が伯爵家に立ち向かうなど無謀すぎるのではないかと、何度も心が折れそうになった。
でも、彼が認めてくれた。受け止めてくれた。
「泣かないで、僕の可愛いセルリア。もう君は一人じゃない。この証拠は、僕が責任を持って法務局長官の元へ届ける。バルター伯爵の悪行は必ず暴かれる。だから、君はもう安心していいんだ」
カイゼルのその言葉は、私にとって神の救済のように響いた。
私は涙を拭い、彼に深く感謝した。これでようやく、長年の不正に終止符が打たれる。領民たちに、再び心からの笑顔が戻るのだと、心底信じていた。
「告発の準備が整うまで、君は王都にある僕の別邸で身を隠しているといい。伯爵の耳に入れば、君の身が危ないからね。数日後、すべてが終わったら迎えに行く。その時は……改めて、結婚の準備を進めよう」
頬を染めて微笑むカイゼルに、私はただ深く頷いた。
彼への愛と信頼で、胸が一杯だった。疑うことなど、微塵もしなかったのだ。
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それから三日後の夜。
別邸の扉が荒々しく叩かれた時、私はついにカイゼルが迎えに来てくれたのだと思った。
すべてが終わり、勝利の報告を持ってきてくれたのだと。
だが、扉を押し破るようにして雪れ込んできたのは、黒い鎧に身を包んだ王宮近衛騎士たちだった。
「セルリア・ヴァン・アシュクロフト男爵令嬢だな。国家反逆の容疑で同行を命ずる!」
「……え?」
何が起きたのか理解できなかった。
反逆? 私が?
荒々しく腕を掴まれ、背中に剣を突きつけられながら、私は必死に抵抗した。
「お待ちください! 何かの間違いです! 私は何もしていません! むしろ私は、不正を告発しようと……!」
「黙れ、国賊め。貴様の悪行はすでに全て露見している!」
容赦のない暴力によって馬車に押し込まれ、連行された先が、この王宮地下の最も深い場所にある牢獄だった。
ドレスは破れ、石の床に投げ出された私は、状況が全く飲み込めないまま、ただ震えることしかできなかった。
なぜ? どうして私が反逆罪に?
証拠はどうなったの? カイゼルは? 彼に何かあったの? もしかして、バルター伯爵に気付かれて、カイゼルも捕まってしまったのでは……?
自分の身の危険よりも、愛する婚約者の安否ばかりを心配していた私は、本当に愚かだった。
あまりにも世間知らずで、人を疑うことを知らない、滑稽な小娘だったのだ。
カツン、カツン。
冷たい石造りの廊下に、硬い靴音が響いた。
暗闇の中から、揺らめく松明の炎に照らされて現れた人影。
その金糸のような髪が光を反射した瞬間、私は鉄格子にすがりつくようにして叫んだ。
「カイゼル! 無事だったのね、ああ、よかった……! お願い、彼らに誤解だと説明して! 私が持っていた証拠を彼らに見せて!」
鉄格子の向こう側に立ったカイゼルは、以前と変わらぬ、いや、以前よりもずっと上等な仕立ての絹の服を着ていた。
彼は私を見下ろし、ゆっくりと口の端を吊り上げた。
それは、私が一度も見たことのない、冷酷で、あざけるような笑みだった。
「……君は本当に、救いようのない馬鹿だな、セルリア」
「え……?」
甘く囁くようだった彼の声は、今は氷のように冷たく響いた。
理解できない言葉に、私は息を呑んだ。
「カイ、ゼル……? 何を、言っているの……?」
「僕が告発するわけがないだろう? 莫大な利益を生み出す金の卵を、わざわざ叩き割る馬鹿がどこにいる」
カイゼルは懐から、見覚えのある羊皮紙の束を取り出した。
それは、私が血の滲むような思いで集め、彼に託したバルター伯爵の不正の証拠だった。
カイゼルは私の目の前で、その書類をパラパラと弄ぶと、松明の炎へと近づけた。
「あっ……! やめて! それは大切な……!」
「大切な、何だ? 君たちのような惨めな下級貴族が、上に逆らうための妄想の産物か?」
炎が羊皮紙を舐め、赤い光を放ちながら黒い灰へと変わっていく。
私の希望が、領民たちの未来が、無残にも燃え尽きていくのを、私はただ見ていることしかできなかった。
「どうして……どうしてそんなことを……! あなたは、不正を暴いてくれると約束したじゃない! 領民を救うために力を貸してくれるって……!」
「本気で言っているのか? 泥に塗れて這い回るような領民どもがどうなろうと、僕の知ったことか」
カイゼルは燃えカスを床に投げ捨て、汚いものでも見るかのように靴の裏で踏み躙った。
「教えてやろう、無知な男爵令嬢。バルター伯爵が横領し、密売して得た莫大な金が、最終的にどこに流れていたと思う? 伯爵一人の懐に収まるような額ではないことくらい、台帳を調べた君ならわかるはずだ」
私はハッとして息を呑んだ。
まさか。
上位貴族である伯爵ですら、単なる『集金役』に過ぎなかったというのか。
「……その金は、すべてこの国の第二王子、グレイド・ヴァルキリア殿下の軍資金として納められているのだよ」
心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたように凍りついた。
グレイド第二王子。
王位継承権第二位でありながら、第一王子を凌ぐほどの権力を持ち、冷酷無比で強欲と噂される人物。目的のためには手段を選ばず、逆らう者は一族郎党ことごとく粛清すると恐れられている、王国の闇そのもの。
そんな絶対的な権力者が、この不正の黒幕だったなんて。
「僕の役目はね、法務局の人間として、殿下の資金源を嗅ぎ回る鬱陶しい小蝿を処理することだ。君の父親もそうだった。あの男爵は馬鹿正直すぎて、バルター伯爵の税の不自然さに気づきかけていた。だから、流行り病に見せかけた毒で早々にご退場願ったのさ」
「……っ!!」
頭の中が真っ白になった。
流行り病ではなかった? 領民のために必死に働いていた父と母は、この男たちの手によって毒殺されたというのか?
「嘘だ……嘘よ! そんなこと……!」
「嘘ではないさ。そして君だ、セルリア。君は父親に似て余計なことに首を突っ込むから、少し泳がせておいたんだ。君がどこまで証拠を掴めるか、他に気付いている者はいないかを把握するためにな。結果として、君は誰にも相談せず、自らすべての証拠を集めて、ご丁寧に僕のところへ持ってきてくれた。おかげで証拠隠滅の手間が省けたよ」
カイゼルは愉快そうに笑い声を上げた。
私への愛も、優しい言葉も、約束も、すべては私を騙し、証拠を根こそぎ奪い取るための罠だったのだ。
「君には、隣国と通じて月光草を密売しようとした『主犯』として死んでもらう。バルター伯爵の不正もすべて、君という尻尾を切ることで殿下の手から切り離される。反逆者の領地は没収され、王家の……いや、グレイド殿下の直轄領として、未来永劫、月光草を絞り出させる農園となるだろう」
「悪魔……っ! 貴方たちは、人間の心を持たない悪魔よ!!」
私は鉄格子を掴み、血が滲むほど強く握りしめながら絶叫した。
「絶対に許さない! 両親を殺し、領民を地獄へ突き落とし、私を騙した貴方たちを……神が絶対に許さないわ!!」
「神、だと?」
カイゼルは嘲るように鼻で笑った。
「この国では、権力こそが神だ。死にゆく罪人の呪いなど、痛くも痒くもない。明日には判決が下り、君は断頭台の露と消える。せいぜい地獄で、無能な両親と再会するんだな」
カイゼルは背を向け、迷いなく暗い廊下へと歩き去っていく。
「待って! 待ちなさい、カイゼル!! 返して! 私の……私のすべてを返して!!」
叫び声は空しく地下牢にこだまし、やがて完全な静寂が戻ってきた。
冷たい床に崩れ落ちた私の目から、もう涙は出なかった。
絶望、悲しみ、後悔。それらの感情は、激しい炎で焼き尽くされたように消え失せ、後にはどす黒く、氷のように冷たい『憎悪』だけが残っていた。
グレイド第二王子。
バルター伯爵。
そして、カイゼル・フォン・レヴィン。
私から家族を奪い、故郷を奪い、誇りを踏みにじった者たち。
(……このまま、死んでたまるものか)
私は震える手で、自らの腕を抱きしめた。
たとえ肉体が滅びようとも、この魂が地獄の底へ堕ちようとも。
悪逆非道な奴らが、のうのうと権力の座で笑い続けることなど、絶対に許してはならない。
暗黒の地下牢の中で、私は誰に誓うでもなく、ただ自らの復讐心だけを糧に、静かに牙を研ぎ始めた。
これが、私――セルリア・ヴァン・アシュクロフトの、すべてを焼き尽くす反逆の物語の始まりだった。




