終章
『黒巫女様と水無月は異世界転移をしてきたんだよ』
そう、小さき者に告げられた。
我が『異世界転移……。なんじゃそれは?』というと小さき者は困り顔でしばらく考えた後、『今度一緒にアニメとラノベで勉強しようね!』とまたわけのわからぬ単語を申してきた。同じ日本語を話しているはずじゃのに、まったく面妖な言葉ばかり使いおる。
この小さき者、名を水無月と申すらしい。
水無月も我と同じ世界の出身で、異世界転移とやらをしてこのわけわからぬ世界に来たらしい。
水無月は、ここでは夢月と名乗って生活しているという。
なぜ名をたばかるのかと問うと、『えーっと、その方が都合がいいの』と答える。何が都合がいいのかと訊くと、適当なことばかり申してうやむやにされてしまう。
この女、いかにも胡散臭いが、どこか憎みきれぬところがある。人懐っこい笑みを見せられるとなぜか「まあ、別にいいか」と許す気になってしまう。天性の人たらしなのじゃろう。それになかなかどうして頭も切れるようじゃ。まったく、人は見かけによらぬ。
我は雪山の中で一人で倒れているところを水無月に助けられて、この旅館に運ばれてきたらしい。つまり命の恩人、ということになるのじゃろう。
何か礼をせねばと思い、欲しいものがあるかと訊くと『じゃあ、黒巫女様の愛をちょうだい!』と申してきおった。本気かどうかわからぬが、まあ、可愛い女子に好かれるのは悪い気はせぬ。
当分はこの水無月という女と生活をすることになるのじゃろうが、まあ退屈はせずに済みそうじゃ。
我は冷えた体を温めに、露天風呂に浸かっておった。
今宵は満月。煙のような星々の中に、円い月が浮いておる。
銀色の満月には、雪のきらめきとは違った輝きがある。さながら白い真珠のようじゃ。
じゃが実は月には二匹の兎がいるという。彼等は仲良く餅つきをしているらしい。
なるほど、確かにそう見えなくもない。
じゃがなぜ、いつまでも二匹だけで餅つきをしておるのじゃろう。寂しくないのじゃろうか。他の者を呼ぼうとは思わぬのじゃろうか。
あるいはあの二匹は恋人同士で、仲睦まじく過ごしておるのかもしれぬ。そう考えると餅つきは方便で、本当は二人きりの時間を邪魔されたくないから忙しいフリをしておるのじゃろうか。なんともまあ、微笑ましくて妬ける話よの。一度でいいから、その二匹がいかような顔で愛を囁き合っているのか拝んでみたいものじゃ。
「あれ。黒巫女様、何で一人でにやついてるの?」
「ぬぉっ、み、水無月っ……!? いつの間におったのじゃ!」
「結構前からいたよー。でもずっと気付いてくれなかったんだもん」
少し不満そうに唇を尖らせる水無月。こやつ、我が相手をせぬとすぐに拗ねてしまう。会ったばかりだというのに、ずいぶん懐かれてしまったようじゃ。
我は少しばかり罪悪感を感じたゆえ、水無月の相手をしてやることにした。
「月を見ておったのじゃ」
「お月様? あ、本当だ。空が晴れてる!」
「ほう、昨日までは曇っておったのか」
「うん。ずっと曇ってたり、吹雪いたりで天気が悪かったんだ」
「なるほど。この山奥の中で暮らしておると、天候に生活を左右されてさぞ大変じゃろう」
「そうだねー。でも水無月は、ここがお家じゃないんだ」
「む、旅館の子供ではなかったのか」
「うん。まあ、そういう話は長くなっちゃうから、今度してあげるね」
水無月はまた空を仰ぎ見て、少しばかり興奮した面持ちで感嘆の息を漏らしおった。
「やっぱり田舎の夜空はきれいだなぁ」
「街の空は違うのかの?」
「うん。なんかビルとかの光が明るすぎるせいで、星がよく見えないんだ」
「星が見えなくなるほどの明かりじゃと……? まったく、この世界はまだとんとよくわからん」
「大丈夫だよ、水無月がこの世界のことを教えてあげるからね。あっ、お勉強といえば、こんな和歌知ってる?」
「ほう、歌とな。聞かせてみよ」
水無月は一度深く息を吸い、なかなか堂々たる声で歌ってみせおった。
「『この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば』」
「……ふむ、藤原道長じゃな」
「あっ、知ってるんだ」
「当然じゃろう。歌を詠むものなら、この一首は誰でも知っておる」
「なるほどね。……それで黒巫女様は、この歌はどう思う?」
「どう、とは?」
「素敵な歌だと思わない? だって、欲しいものを全部手に入れて、満月のように欠けることのない満足感を覚えてるんだよ。世界一の幸せ者だよね」
「……なかなか独特な意見だとは思うが、我のものとはちと違うな」
「ほえ? じゃあ、黒巫女様はどう思うの?」
「我か? 我はじゃな……」
我は立ち上る湯気を追うように満月を見上げて、己が思いを語った。
「……完璧な満月なぞ存在せず、本当はどこか欠けているのに気付いておらんのではないかと思うのじゃ」
「……満月なのに、どこか欠けてるの?」
「うむ。現実にある物体は様々な視点から見ることができる。我等が知る月は、地上という一点か目にしたものだけなのじゃ。本当はこの満月とて、違った場所から見ればどこか欠けているかもしれぬじゃろ?」
「……そっか。そういう考え方もあるんだね」
水無月は少ししんみりした口調で申した後、打って変わったように明るい笑みを浮かべて我にすり寄ってきた。
「でも水無月は今、とっても幸せだよ!」
「わっ、よ、よせ!」
あまり引っ付かれたら、我の秘密がっ……。
慌ててあそこを押さえようとするも、水無月は強引に腕をつかんでそれを許してくれぬ。
まったく……、しばらくはあまり心が休まらぬ生活が続きそうじゃ。
〈了〉