第十三話:本当の
栞の目が悠一を見据えていた。
「……こちらの方は?」
「神崎栞さん、私は豊高千由里と申します。お父様の使いで参りました」
「父の……探偵さん」
「どうしてこちらへ?」
豊高が栞に問う、栞が来たのは豊高にとっても想定外だったらしい。
「マスターが、悠一さんが来ていると教えてくれて」
「ちっ……余計な事を……」
豊高が舌打ちをしてマスターを見る。
だがマスターは素知らぬ顔でグラスを拭いている。
「先ほどの話……」
栞が口を開く。
「『代わり』と聞こえました」
栞が悠一を見る。
悠一の手が硬く握られている。
俯いたまま、なかなか顔を上げない。
悠一と、目が合わない。
いつもなら隣に座るのだが、今はそれが怖くて、立ったまま悠一を見下ろしてた。
手がブレスレットに触れる、赤いガーベラと青いネモフィラ。
それを握りしめていた。
すこしの間を開け、悠一の口が重く開かれた。
「……学さん……東堂学さんは、俺の兄貴みたいな人だった」
「お兄さん?」
「うん……本当の兄貴みたいな人だった」
悠一が息を吐いた。
「五歳年上の、隣の家のお兄さんでね。
浩二も、楓も、もちろん俺も、みんな学さんに懐いてた。
一緒に遊んだし、同じ剣道場にも通ってた。
……下手したら、看護師の母より顔を合わせていたよ」
「……」
思い出を懐かしむような語り口だった。
だがその口元が急に歪んだ。
「勉強も運動もできる人だった。
両親が教育者で、常に成績トップ争いをしているような人だった」
栞は無意識に手を握りしめていた。
成績優秀、両親が立派な人、周囲からの期待……重なる。
「……学さんが高校に上がってからかな、笑わなくなったんだ。
ちがうな、笑顔はあった、でも張り付いてるみたいな笑顔だった」
思わず口元に手を当てる。
「最近雰囲気がやわらかくなった」という友人の言葉が思い出される。
「俺が中学一年の冬。学さんが家から出てこなくなった」
「五歳差、大学受験ね?」
千由里が手帳に目を落とす。
「えぇ、両親の切望していた志望校に落ちたんです。
学さんが根を詰めすぎて当日、風邪をひいて……」
「風邪ね、災難だったと言わざるを得ないけど、回らない頭で受験した所で……」
「えぇ、落ちたんです。滑り止めを受ける事も許されてなくて。
体調不良を言い訳にするな、とご両親からひどく叱責されてた。
そのころからかな、隣の家から夫婦喧嘩の声が聞こえるようになったのは……」
場を沈黙が支配する。
怖いけれど、聞かなきゃならない。
「あの、それで……その人は?」
「引きこもってた……何も知らずにいつものように遊びに行ったんだけど、顔も見せずに門前払いされる事を繰り返して、4月に入る直前だったか……また門前払いされるのかなと不安になりながら尋ねたら、あの人の部屋に通された」
悠一がコーヒーにミルク落とす。
黒に白が回転しながら交じり合っていく。
「目が落ち込み、頬がこけ、一瞬別人かと思った、部屋は散乱しテーブルで一心不乱にペンを走らせていた」
「ペンを……」
「何も書いてなかった、ただノートにグルグルと線をかいてただけだった」
悠一の拳が強く握られ、震えていた。
「……俺、怖くなって逃げだしたよ」
「翌日夜逃げするように引っ越した……だったわね」
千由里の手帳にはどこまで書いてあるのだろう。淡々と彼女が事実を告げていく。
「えぇ……兄と慕って一番近くにいたのに学さんの事を、俺は何も助けられなかった」
「でも、悠一さんはその時はまだ中学生で……」
栞が震える声で言うと、悠一は首を横に振った。
「そうだけど、そう思えなかったんだ……」
千由里が冷めてしまったブレンドを飲み干す。
「それで本題に戻すけれど……日野君は、神崎栞さんを『東堂学の代わり』にしたんじゃない?」
「最初はそうです。『成績優秀』『周囲からの期待』『でも見てもらえない』。
世界を諦めたように見えた栞に、学さんの姿を重ねました」
「それでも彼女との関係を続けると?」
「あの時救えなかった分、栞を救いたかった。でも、今は違う」
悠一が顔をあげた。
その目は栞を写している。
「笑って、泣いて、怒って、ごく普通に感動して、お母さんに甘えて、反抗して。そのすべてを見てきた。栞は栞だ、学さんじゃない」
「悠一さん……」
「栞が、好きなんだ」
体が固まる。
嬉しかった。
ずっと、ずっと聞きたかった言葉だ。
なのに、嬉しさとは別の気持ちが壁を作る。
「……私は……幸せになってもいいんでしょうか?」
「栞?」
「私は罪を犯したんです。それを……」
栞の声が震える。
悠一は、少しだけ考えるように黙った。
そして、静かに問いかける。
「罪を償うって、どういうことだと思う?」
「……ちゃんと、罰を受けることでしょうか?」
「それもある」
悠一は頷いた。
「でも、それだけじゃないと思う」
「……?」
「罪の意識を、心に刻み続けることだ」
栞が息を呑む。
「忘れちゃいけない。自分が何をしたのかも、誰かを傷つけたことも。
都合よく『もう終わったこと』にしちゃいけない」
「……はい」
「だから、俺は栞を許すなんて言わない」
その言葉に、栞の肩が小さく震えた。
「万引きは悪いことだ。罪を犯したことも、なかったことにはできない」
悠一は、栞を真っ直ぐに見つめる。
「でもな」
その声だけが、少し優しかった。
「罪を犯したことと、幸せになっちゃいけないことは、別の話だ」
「……別の……話?」
「悪かったことは、悪かった。それはこれからも背負えばいい」
一度、言葉を切る。
「その上で、笑っていい、泣いていい、お母さんに甘えたっていい。
もちろん、誰かを好きになったっていい」
栞の目から、涙が零れた。
「……そんなの……」
栞は涙を拭うこともできないまま、呟く。
「そんなの、ずるいです……」
「知ってるだろ?おれは――」
「「『ズルい大人』だから」」
栞と、悠一の声が重なる。
「知ってます。嫌というほど、あなたは、最初に会った時から、ずっとそう」
「ははは、そうだな、最初に会った時からだ」
悠一は、いつものように笑った。
「栞……罪を償うことと、自分の人生を捨てることは違う。
一生、自分を罰し続ける人生なんて悲しい道を選ばないでくれ」
「……悠一さん」
その言葉を聞いた瞬間。
栞の中で、ずっと張り詰めていた何かが切れた。
「……私も」
声が震える。
それでも、今度は逃げなかった。
「私も、悠一さんが好きです」
栞は涙を流しながら、悠一の胸へ飛び込んだ。
「私も……私もなんです」
「知ってたよ……頼れる人、親の代わり、友の代わり、見てくれる人を欲しかった」
「悠一さんは悠一さんだった……誰の代わりでもなかった」
栞が顔をあげ、悠一を見る。
「悠一さん、大好きです」
「仮はもういらないな」
「……はい」
「あー!」
豊高が天を仰いで大きな声を上げた。
「無理だわ。私の手に負えない。負け負け。」
豊高が肩をすくめる。
「どうぞ……」
マスターがブレンドを豊高の前に置く。
「頼んでないけど」
「おごりです」
「マスターが栞さんをよんだから、全部狂っちゃったわ……」
豊高がブレンドを一口飲む。
「あの、豊高さん?」
「私の依頼は失敗、誠一郎氏にはそう報告をします。
調査費含め赤字だわ、どうしてくれるの?」
そう言いながらも豊高は柔らかく微笑んでいた。
「つまり、今度は誠一郎さんが動くと……」
「お父さんが……」
栞が悠一の手を強く握る。
「行きましょう、悠一さん」
「だな、きちんと話をしないとね」
笑みを浮かべる悠一さんの顔は、いつもの『ズルい大人』の顔をしていた。




