第一章
露草姫、ローザリンデ・アスタロス王妃殿下が崩御されて、半月程が経った。
その間、各国様々なところで色々な事が目まぐるしく動き、世界を取り巻く環境は少しだけ様変わりした。
まず、我輩が形式的な大統領として治めるカリーナでは、大人の働きがよく目につくようになった。
というのも、カリーナでは他国と比べ肩書きや家柄を重視する傾向が強い。それは前提として、沢山の有力な家系や人物が存在することの証明であり、国のみならず世界に影響を及ぼす人脈を幅広く展開している事の証左だ。
であれば、世界が動けばそれを支える人物……家が多数動いて、にわかに騒がしくなる。
情報の共有は止めどなく。朝出回った噂がその日の午後には塗り替えられてもおかしくない濃密さで真実への篝火を灯す。
結果、彼らは自らの家の利益よりも世界の安寧を憂慮して、かつてないほどの規模と速度で膨大なやり取りが成されることとなったのだ。
その根幹とも言うべき事柄が、露草姫の崩御から十日ほど後に発表された、妖精変調の存在だ。
まず以ってその事象は露草姫が亡くなった頃、世界にとってはまだ公然の秘密であった。彼女が安らかに眠り、葬儀を行って数日は喪に服す期間が取られた。世界中が沈み込んだそんな数日を、殆ど雨模様と一緒に過ごしたのは記憶に新しい。
だが、立ち止まってばかりはいられないと。そもそも過去例を見ない希求の要件によって中断された四大国会談に着地点を見つけることが、踏み出す一歩の行く先を決めることだと四大国全てが合意して。すぐさま時間を作り設けられた臨時の会談で、無駄な余興など一切ない、実務一辺倒な世界の政が話し合われ、決定が下された。
その最初こそが、妖精変調と言う未知の事象の公表だった。
以前から、カリーナはもとより他国でも、この時の為にと準備は進め、少しずつ情報を開示して市井に大枠だけは浸透させていた。そのお陰で目立った混乱もなく妖精変調は世界に新たな危機として認められ、誰もが知るところとなった。
そしてそれに合わせ、今後各国が取っていく政策、方針の先駆けとして、一つの道標が掲げられた。
それこそが、今は亡き露草姫の遺した偉業。本質を詳らかにして過度な悪戯を行う妖精変調。その対策の始まりとして用意されていた────回帰の揺籃歌と言う大規模妖精術だった。
生前、誰もが憧れる妖精従きとして特別な敬愛を一身に受けていた彼女は、王家に嫁ぐ以前に研究者として働いていた経緯からか、妖精術の研究、開発という分野に他の追随を許さないほど突出して秀でていた。
そんな露草姫が世界を憂い、手ずから作り上げた世界の繭……騒乱の火種を鎮める揺り籠こそが、回帰の揺籃歌と言う妖精術なのだ。
偉大な妖精従きがその最期に遺した叡智の結晶。それを讃える意味も込めて世界に共有すれば、晴れ間を見たように皆の顔がしっかりと前を見据えたのを目に見えないうねりとして実感できた。
この回帰の揺籃歌は、分類として世界級と呼ばれる規模の妖精術に当て嵌められる。
基本的に妖精術とはその影響範囲が決まっている。その中でも、世界に影響を及ぼす術式を、世界級と呼び習わすのだ。
因みに世界級は、分類の中で最も規模の大きなもの。つまり、それだけの期待と効果を持った妖精術と言う事だ。
当然、世界級の妖精術は簡単には使えない。戦時中であれば、それこそそれ一つで戦局を動かしてしまう規模の妖精術なのだ。行使の難しさは、政治的にも実用的にも最上級と言っていい。
中でも今回の回帰の揺籃歌は、その効果範囲の性質上、一人の妖精従きが全てを担って行使することは難しい。
なにせ、妖精術の形式が結界術式だからだ。
結界術式は、その名の通り結界を作り出す妖精術。作成した結界内に命令式に基づいた効果を、結界の存続中恒久的に及ぼし続ける、持続型の妖精術なのだ。
そして、結界術式の行使には、境界線を示す術式の基点が必要となる。簡単に言えば、平面図や立体図における頂点だ。
さて、世界規模に影響を及ぼす巨大な結界術式。その基点をどこに作れば、フェルクレールトの大地の上で起きている妖精変調の対策となるのか。
大陸を覆う結界の構築……そう考えれば畢竟、四大国にそれぞれ一か所ずつの術式基点の設置が必要だと至るだろう。
つまりこれは、四大国が協力して構築、行使、維持を行う。まさに世界事業になるわけだ。
しかも結界の維持には妖精力の常時供給が必要不可欠であり、結界が破綻しないように監視もつけなければならなくなる。可能であれば普段人が来ない場所の方が都合がよく、かと言ってそこまでの道行きに障害があるようでは候補地には適さない。……などという難題に頭を悩ませた結果。カリーナが基点設置の場所に選んだのが、タルフ岩礁だった。
海の上ならば人はそう簡単に立ち寄れず、しかしカリーナの海は海軍の監視下で、彼らには手懐けた水竜と言う足がある。加えて野生の水竜が生息することで不用意に近づくことは出来ず、タルフ岩礁の観光に運航されている船もそんなに近くにまでは接近しない。
つまり、条件としては十分に満たしている地と言うわけだ。
しかもどういうわけか、あの場所には妖精力が溢れている。遮る物の殆どない海上に生まれた、妖精力の濃密地帯。英雄的妖性カドゥケウスが住まうあの森と同じ、自然に愛された場所なのだ。
その膨大な妖精力を上手く利用すれば、誰かが交代で結界の維持に付きっきりになるという非情な拘束を行わなくて済むと、候補地探しを任せていた研究主任が報告書に挙げていた。
この事実を他の三国にも共有したところ早急に調査が進み、他国でも似たような候補地が見つかったというのは僥倖だったと言わざるを得ないだろう。
お陰で回帰の揺籃歌の影響範囲を一つの結界で網羅することが可能となり、当初もう一つの案として挙がっていた、妖精変調に関する報告が多い地域のみへ重点的に処置を行うという、なんとも場当たり的で生産性の少なそうな愚かな策を選ばずに済んだ。
こうして候補地が決まれば、後は四大国合同で回帰の揺籃歌を共有し、一つの妖精術として大陸全土を覆う結界を構築しようと手を取る段階へと移った。
ここからは正直我輩にできることが極端に減ってしまう。実際に回帰の揺籃歌を使える状態にするのは軍や研究者の仕事。準備が出来次第他国と足並みを揃えて実行に移す号令を出すのが次の仕事となる。
それまでしばらくはそちらにできることがないというのが、なんとも不甲斐ない話だ。
大統領と言っても、結局はその程度。特にカリーナでは象徴でしかなく、一個人に決定権があるわけではない。その事実を痛感し、寂しく思う。
こんなことなら彼女のように立場も気にせず自由を振り翳していた方が幾らか生きやすかっただろう……。
「遣る瀬無いものだな……」
「心中お察しいたします」
言いつつ、エドが次の仕事の書類を目の前に差し出してくる。彼の場合言っている事とやっていることが違うのはいつもの事。今日はそれが一段と非情なだけだ。
「何かあったのか?」
「陛下のお手を煩わせる事ではございませんのでご心配なく」
「……そうか」
随分と長い付き合いだ。彼のその言葉でなんとなくのところを察する。
彼の気遣いに感謝さえしながら手元に身を入れる。……さて、今日はここ最近で言えば随分と楽な部類だ。さっさと仕事を終わらせて、久しぶりに友と飲みにでも行くとしよう。
人間、目的があると結構どうとでもなるものだと独り言ちながら。想定より結構早く終わった公務に別れを告げ、エドと一緒に城下町へと繰り出す。
いつもより早いと言っても、陽はもう殆ど落ちた時間帯。仕事終わりの大人たちが憩いを求めて店に家にと足を向ける空気の石畳の上を、安心感さえ抱きながら歩く。
妖精変調の存在が公表され、世界は一度大きく揺れた。幾ら情報を小出しにして備えていたと言っても、一定の混乱は存在したのだ。
だが、四国で決めた方針に基づく迅速な行動の大部分を進展として逐次喧伝していたお陰で、渦巻いていた不安も徐々に解放された。今では、こうして見渡しても町を行く人々の顔に未来を憂う悲壮感は見受けられない。
問題の形が明確になって変わった物もあるだろうが、大枠ではそれほど揺れた様子もない。ここカリーナは、妖精変調に対してしっかり向き合っていられている。
その証拠に、我輩に気付いた者が足を止めて頭を下げてくれたりと、城下の雰囲気はいつも通りだ。
「報告には聞いていたが、目立った問題が起きている様子はないな」
「先のハロウィンやサウィンの時に、最も被害が少なかったのはカリーナですから。あの程度で抑えられたのも、国が先回りして対処をしたお陰だと、世間では陛下の手腕を讃える声があるほどですからね」
「それは初耳だな」
「陛下が国や民を守るのは当然の事ですので」
相変わらず厳しい物の見方だ。お陰で飴も殆どなく責務に邁進する羽目に陥っている。もう少しくらいやる気を補充してくれてもいいだろうに。
「……それよりもグンター。飲みすぎないでくださいね。酔い潰れたら肩を貸すのは私の役目なんですから」
「多くは飲めぬ癖に文句ばかりは一人前だな」
「大人ですので。無理して飲んで周りに迷惑を掛けるよりは余程健全です」
小言が多いのはそもそもの性格。こんなのと付き合い続ける自分も大概だと、小さく息を吐く。
いつもより随分と砕けた口調。敬称ではなく、親しい名で呼ぶ彼は、線引きがはっきりしている。
そんな彼に、悪戯心が芽生えて突き付ける。
「であれば、周りに心配させぬことも大人の振る舞いであろう?」
「……本当に、そういうつもりではなかったのですがね」
心配事があるならば、誰かに気を回される前に自分から筋を通すものだ。その方が、相談される側も気兼ねなく頷ける。
が、分かっていてもそうできないのは彼らしさ。エドは昔から自らの感情を上手く発散するのが苦手なのだ。
だから時折、こうして少し無理に誘ったりをしているのだ。
「思うのであればもう少し丸くなったらどうだ?」
「馬鹿になるのも難しいんです」
友の言葉に、それから二人して笑みを零して。
やってきた古馴染みの経営する店に入る。久しぶりの来店に、一際大きな声で答えてくれた店主が年を感じさせない溌溂さでいつもの席へと案内してくれた。
注文票を開くまでもなく、二人分の酒が饗される。
「……実はこの前、孫娘が悪戯に遭ったらしく────」
早速一口煽ったエドが、言い訳を振り翳して固い口を少し緩めた。
彼の口から語られたのは、身内に起きたちょっとした事件。とはいえその原因も既に珍しくなくなった妖精変調だ。
今では月に数度……多ければ十数件報告される妖精変調絡みの問題。四大国全てを合わせれば、毎日どこかで妖精絡みの騒動が起きているこのフェルクレールトの大地は、過去類を見ないほどに静かに慌てている。
仮想敵も定められず、かと言って実害が決してないわけではない。
ハロウィンとサウィン以降、目立って国が揺らぐような打撃が起こっているわけではないが、それでもその処理に振り回されているのは確かだ。
そんな一端に、エドの孫が巻き込まれたというだけの事。一国の主を任されている身としては、数ある妖精変調の騒動の一つとしか数えることのできない問題だ。
「ふむ、川の子か……」
「悪戯をされた程度ですけど。話を聞く限りその片鱗があったので」
エドの話に出て来たのは川の子と呼ばれる妖精だ。川に好んで住まう魂で、近くを通りすがった人間を水浸しにしたりする。
が、それはこれまでの……命を左右しない唯の悪戯の話。これが妖精変調になると、川の流れに浚い込んで溺れさせてしまうといった危険へと様変わりしまう。
しかも問題なのは……。
「エドのところの子は見えなかった筈だな」
「はい」
ここ最近、見えない者にも見境なく妖精たちが干渉してくるという事だ。
現在、対応策が講じられ全力で解決に向け奔走している。が、彼女の遺した結晶が日の目を見るまではもう少し時間がかかりそうだというのが私見だ。
それまではこれまでと同様、警戒を最大限にして問題が起きたら後手でも対処をする……それしか方法がない。
しかしながら、その対処方法は会談前とは雲泥の差だ。
なにせ妖精変調という未知の事象について世界で共有が出来た。お陰でカリーナが得ていた断片的な情報を他国の物と重ね合わせることで、その場を乗り切るだけの手法が確立されたのだ。
それが、妖精力の供給だ。
前々から報告は受けていたのだが、英雄的妖精であるカドゥケウスが住まう森の中。あの妖精力が溢れる地に身を置く妖精たちは、妖精変調の影響を免れていた。
それどころか、一度妖精変調の影響を受けても、正気を取り戻した者達があの場所に留まれば、それ以上人の世に騒動をまき散らすことはなかったのだ。
しばらく前までは根拠も曖昧ながら、どういうわけか状況が落ち着く特別条件として調査をしていたのだが。この度情報共有をした後、他国とすり合わせたら一つの答えのようなものが見えた。
それは、妖精力の枯渇だ。
他国……特にスハイル帝国が厳密に掴んでいた妖精力と妖精変調の関係。もっと言えば、転生にも纏わるその可能性は、妖精が内に秘める妖精力の総量に比例して妖精変調の影響が出やすいと言う物だった。
転生直後の魂は妖精変調に影響され辛く。逆に妖精の転生時期……妖散期が近づくと、それに呼応するように惑い者となる個体が多くなる。これは恐らく、身の内に内包する妖精力が減少することで理性の箍が外れやすくなるだろうという推論だ。
であれば、減った分を供給してやれば安定が保たれるはずであり。実際に幾つかの条件を比較したところ、この想像は事実として認められたのだ。
つまりカリーナでは図らず妖精変調の部分的な対応に成功していたという事なのだ。
実際に効果が証明されているのであれば、後はそれを人為的に引き起こせれば対応策にも転用できる。
と言うところで、現状周知されている妖精変調対策としては、正気を失った妖精に何らかの方法で妖精力を供給することで一時的に魂の暴走を抑えるという物が、場当たり的な手法ではあるが主流になっている。
事実、これで問題の幾つかは収束できたのだから大枠では対処として間違っていないはずだ。
が、しかし。飽くまでこれは一時的な処置。補った妖精力が再び失われれば、その元惑い者達は同じ問題を引き起こすという、逆説的な証明でもある。
つまり恒久的な対処ではなく、最低限の応急処置。
だからと言って妖精力の溢れる地に妖精たちを放り込んで監禁するのが正しいのかと言えば、それは当然違う。
何より自由を愛する妖精たちが、いくら説明して理解を求めたとて全員素直に頷くわけではない。彼女達は楽しさこそが生き甲斐。娯楽のない世界に閉じ込められることは、彼女たちの存在意義を奪う行いなのだ。
「運よく怪我などはありませんでした。ですが身近なところへその影響を垣間見ると、明日は我が身と思わずにいられませんね……」
「見えなければその恐怖も人一倍か」
一応我輩も妖精従き。エドとは違いしっかり見える。
契約を交わす相棒とは時折顔を合わす程度。妖精である彼には国の主と言う重責は合わなかったらしく、普段から自由に任せてあちこちへ顔を覗かせている。
まぁ、問題を起こさないのであれば好きにしていればいい。騎士のように危険な場所へ赴いてその力を行使する必要にも駆られないのだ。
というか、妖精従きの殆どが社会に出てもその力を使う事は殆どない。
なにせここは人の世界だ。幾ら妖精と共に歩み、彼女達の力を借りて便利な世界をの礎を築いているとはいえ、日常的に荒事に接するわけではないのだ。
みだりに妖精術を使わない……などと言う法を制定した覚えはないが、少し生活を便利にする以外に使う機会などまず存在しないのが現状だ。
逆に言えば、妖精術やその資質を問われる軍属の方が異質な存在。彼らがいてくれるからこそ、その他大勢の平穏な日常が紡がれているという事だ。
そんな、普段共に居ても力を使う事のない者。エドのようにそもそも見えない者達は、今回の騒動に不安を覚えていても不思議ではない。
そこを考えていなかったわけではないが、妖精変調と言う形が定まったこれからは、これまで以上に配慮をしていく必要があるだろう。
国を回しているのは我輩達だが、回すための根幹を支えてくれているのは民なのだから。
「分かった。こんな時に悪いが、明日にでも議会に議題を出そうと思う。調整を任せてもよいか?」
「はい」
「うむ。……なら飲むぞっ。今日は我輩が出す!」
「ありがとうございます」
彼にはそんなつもりはなかったのかもしれない。しかしこういった些細な事を見て見ぬ振りをすれば、やがて知らずの内に大きな問題へと成長してしまう。
城に篭り切りで目の届かなかった世界の出来事。それを知れただけでも有意義だったと微かな前進の感触を得つつ顔を上げる。
心配するな。ここでの会計くらい自分で払うっ。こんなことを一々国費で賄っていては今後首が回らなくなるからな。
* * *
妖精変調と呼ばれる世界規模の問題が周知されて約半月。それと同時にあれこれ忙しなく様変わりした情勢の片隅で、今日も今日とて店を開きせせこましく接客を続ける。
が、どうにも客の入りは芳しくなく。特に夜の顔……酒精飲料を提供する方はここ数日とみに静かさを増していた。
理由と言えば当然妖精変調だ。
妖精に危険な悪戯をされる現象。であれば妖精に近付かないのが賢明と言うのは自明の事。
とすると市井に暮らす者たちが最初に取る行動は、外出の自粛なのだ。
妖精は基本自然に住まう。であれば外に出なければ惑い者達にちょっかいを駆けられる必要もなくなる。当然だ。
加えて、陽の光の届かない夜の時間は、特に危険な魂を持つ妖精が姿を見せやすいのだ。
暗闇は、それだけで死の宝庫。ともすれば自分の命すら危ぶまれる状況に、一体誰が好き好んで飛び込んでいくのか。常識的な倫理観を持ち合わせていれば、世界規模でこうなるのは分かり切っていたことだ。
それでも飲食を提供する店と言う物は、営業して客をもてなさなければ食い次いでいくことができないわけで。こういう時に一番最初に煽りを食らうのは何とも遣る瀬無い。
が……完全に誰も来ないというわけでもなく。今日は常連が一人、相対的な貸し切り状態で来店してくれていた。
「では学園でも妖精変調への対応策を?」
「はい。特別授業などを組んだりして、知識と自衛の手段を教えているところです」
ここ最近は仕事が忙しく顔を見せていなかった人物。このフェルクレールトでも名門とされ、カリーナ国内でも五本の指に入る学び舎。国営教育機関テトラフィラ学園に教師として勤めるリゼット・ヌンキだ。
淡い室内灯に照らされた横顔は微かに酒精の化粧を施して口元を濡らし。上着を脱いで柔らかい雰囲気を纏うその姿は女盛り、働き盛りな眼鏡の似合う美人だ。
極個人的には、魅力的に思う一個人ではあるが……それはとりあえずいいとして。
酔いを言い訳にここしばらくの身の上を語る声に、社交場の主として耳を傾ける。
「前例のなかったことですから手探りにはなりますけど、ある程度条件のようなものも解明されてきているので最低限を一緒に勉強しているところです」
「最低限と言うと、例えば?」
僕は見えない側の人間だから、知った所で対処は出来ない。が、前に学園祭へ行った時に巻き込まれた経験を考えれば、知っていれば幾つか冷静になれるという事も知っている。
知識武装、とでも言えばいいだろうか。少なくとも知らないままに巻き込まれて右往左往するよりは余程いいという事だ。
「まず、みだりに妖精に近付かないことですね。もっと大きく言えば、妖精の居そうな場所に行かないことです」
「自然の深い場所ですね」
リゼットが頷く。
森、川、山……。いわゆる属性に分類される、それそのものが沢山ある場所。ここカリーナだと、海などもその一つだろうか。
そういった場所には当然多くの妖精が自由を持て余し楽しさを希求している。
妖精憑きや妖精従きの方が意思疎通ができるからと言う理由で狙われやすいとも聞いたが、そこは妖精の気分次第。僕のような見えない人間相手でも標的になってしまえば容赦などない。
であれば近づくなと言うのは、危険を回避する大前提だ。
「それから、惑い者を発見しても接触せず、直ぐにその場を離れる事。今だと町を軍の人たちが警邏してるので助けを求めるとか。もっと簡単な方法だとどこかの建物に入る事ですね」
「建物に? それはどうしてですか?」
「妖精は自然を好む。逆に言えば、人工物を嫌うんです。もちろん程度の差はありますけど、中にはそれだけで諦める妖精もいますからね」
「人工物……。そう言えば妖精は鉄を嫌うと聞いたことがありますが」
「それも妖精によりけりです。地に属する子は逆に気に入ったりと言う事もありますので」
妖精についてを教える人が言うのだ。それはまず間違いないだろう。
「ただ、今回の場合だと人工物云々よりも、境界線の方が意味が強い気がします」
「境界線?」
「そうですね……縄張り、と言った方が分かりやすいかもしれません」
縄張り。自然に暮らす妖精にとっては身近であり、それと同等に無価値な概念。
「基本的に妖精は、野生動物のような縄張りを持ちません。自由気ままに過ごしてます。ですがそんな彼女達でも、人と妖精の境界線ははっきりしています」
「確かに、家は人の住処ですからね」
「特に扉と言うのはその最たる形です。生まれや存在の形が違うものは住む世界が違う。だから安易にそれぞれの世界の境界線を越えられない。ハロウィンなどで境界線が緩むというのは、そういった普段ありえない交錯が起きやすいから、儀式的な行いで悪意を退けるんです」
「つまり建物と言う境界線で区切れば、妖精変調の脅威も薄れるという事ですか」
「もちろん、鉄のお話と同じで中には効果のない子もいますけどね」
境界線を跨がなければ危険は及び辛い。だから人は外に出ることを避ける。結果、僕がこうして経営する店には客入りが少なくなる。
なんとなく理解した世界の流れにどうしようもない遣る瀬無さを感じる。
「なので、ジルさんも何かあれば建物に逃げ込むことをお勧めします」
「心に留めておきます」
彼女の忠告に笑顔で頷く。
見えなくても出来ることがある。出来ることをすれば自分が助かり、誰かに迷惑を掛けなくて済む。
それだけでもきっと意味がある事なのだと胸の奥に刻み込めば、グラスが空になっていることに気が付いた。
「次は何になされますか?」
「おまかせで」
「畏まりました」
少しだけ上機嫌に答えれば、何が楽しかったのかリゼットがくすりと肩を揺らす。
慣れない仕事も増え疲れている彼女が一時でも笑って過ごせるのならば、それを提供できる側としてこれ以上の喜びはないと思いながら。
大変だからこそ無理をしすぎないようにと互いに確認し合いつつ、更けていく夜に言葉を交わす。
見ている世界が違っても、こうして何かを共有できる。そんな今を他愛なく紡げる事実に、まだまだ完全な悲観は必要ないと思ったのだった。
翌日も学園での仕事があるという彼女を見送っていつもより早く店を閉め。いっその事明日は休もうと仕込みもせずに床に就く。
客足も少ないのに無駄な時間を過ごしても仕方ない。一日くらい自分のために有意義な休息を得ても罰などありはしないだろう。
そう思えば、いつもより少し長く眠りの底に落ちて。目が覚めたのは陽も顔を覗かせた頃の事だった。
さて、それじゃあ今日は何をしようかと。普段よりちょっと遅い朝食を食べて頭を起こせば、ふと暦が脳裏を過ぎった。
妖精変調の事で慌ただしくなっていたが、そろそろユールも近い。長い一年の中で一番最後に催されるお祭りだ。
陽が一年の中で短くなる頃に開催されるユールには、火の復活と言う意味合いがある。ここより世界を照らす光が力を取り戻し始める。それを祝い、悪霊退散、春の芽吹きや豊穣を祈ることが古いユールの姿だ。
であれば当然、供物のようなものが必要になる。ここで言う供物とは生贄ではなく、捧げもの。感謝を示す宴だ。
つまり、死せる大地に再起の栄養を返すという意味で、動物を復活の火で丸焼きにして命を捧げ、感謝して食すことが目的となるのだ。
そんな原初のユールが、時代を経るにつれて変化し。今では冬を模した食べ物であったりと、多種多様な食べ物を机の上に並べるユール・ボードで彩るというのが通例である。
また、ユールの時期には死者の魂がやってくるとされる。オスコレイと呼ばれるその軍勢は、悪魔や魔女も含まれ、不穏の象徴でもある。
古くは冬の自然の脅威の集まりであり、悪意と言う意味では冬を跋扈する妖精の冷たい悪戯も含まれていた時期もあるそうだ。
そうした悪霊から身を守る術は、先にハロウィンやサウィンで示したように、食べ物で機嫌を取ったりと言うのが主流となる。
結果、火の復活と災禍を遠ざける意味が混ざり合って、ユールと言う宴が出来上がるのだ。
こうして考えるとユールは冬を恐れるだけのお祭りに感じてしまうが、その本質は幸ある未来を望むこと。大きく見れば新たな春の到来だが、それだけであれば毎年誰もが待ち望んだりはしない。
それがいつから始まったのかは僕も詳しくは知らない。ただ、自然への捧げもの。オスコレイへの貢ぎ物には、春を象徴する返礼があってもおかしくはないという事で、ユールには贅沢が許される。その一つがユールの贈り物だ。
愛する人、家族、大切な人。形は様々だが、思いを込めた贈り物をユールに渡すことで、その人の幸せを願う。今では専ら、愛を語らう行為の一環ではあるが、本質は大きく間違っているわけではないはずだ。
これらがすべて合わさって、ユールやその前日……ユール・アフトンには宴を開き、豪勢な食べ物を用意して贈り物を交換する。そんな、今のユールと言う日の形が出来上がるのだ。
さて、では今年。そんなユールをどう過ごすのかと言う問題だ。
妖精変調によって世界は少しずつ変わってきている。惑い者と呼ばれる存在は、これからさらに増えて危険が増してゆく。
それをオスコレイと重ねてユールを盛り上げる一助にするのか。はたまた規模を縮小してひっそりと行うのか……。
少しだけ考えたが、直ぐに後者は切り捨てた。
妖精は楽しいことを生き甲斐とする。妖精らしく生きるために必要なそれを提供すれば、彼女達は気分を良くして悪戯をすることが少なくなる。
テトラフィラの学園祭で試験的に行われていた実験の事も合わせて考えれば、規模を小さくしたり、はたまた中止にしたりと言うのは悪手だと分かる。
と言う事は、誰もが積極的に参加して例年以上の盛り上がりを作り出す……と言うのが目に見えない世の流れとなる事だろう。
妖精が見えなくても情報さえあればこれくらいの事は至る。城下町の奥まった場所で個人経営している身だが、クラズ家のシルヴィお嬢様と幼馴染であるくらいの家の出でもあるのだ。馬鹿のままではいられない。
そうなると、僕にできることは幾つかある。……やってみたいことも一つある。
であれば今日の自由をそっちに傾けてもいいと、意欲が燃える。
「……秋の頃は何かと忙しかったし、いい機会かもな」
店を開いている以上、集客はしないといけない。その為には品書きに変化も必要で、それをするのは僕の役目だ。
簡単に言えば、新しい品目の開発。その為には、まず情報だ。
城下を巡ってどんな店がどんな品を出しているのか。今の季節の旬は? 新しく注目されている食材は? 店の雰囲気、客層に合う物と言えば?
そんな風な条件の下、僕の持つ技術で人気の出そうな物を……できればユールに引っ掛けて提供できれば申し分ない。
本来であれば常々考え、新しい世界へ歩き続けていなければいけないのだ。怠慢は自らの首を絞める。大人の自由とは、自己責任と隣り合わせなのだ。
逆に言えば、己の発想の分だけ理想は数多いのだけれども。
「よし、仕事と行きますかっ」
なにより。今を奮闘している彼女に負けられない。
尊敬し、憧れるからこそ追い付きたい。
……そんな感情が何よりの原動力かも知れないと思えば、擽ったさと共にいつも以上のやる気が胸の奥に灯った気がしたのだった。
* * *
「回帰種、ね……」
紙の束を机の上に放り投げて天井を仰ぐ。
回帰種。その言葉は、妖精変調の周知の後に生まれた造語だ。
その意味は、これまでカリーナでわたし達が便宜上惑い者と呼んでいた存在と同じ。妖精変調によって魂が揺られ、本能のままに行動するようになった妖精達の事だ。
ここには当然、以前スアロキン峡谷で目撃されたトロールのように、人の殻を破って物語の中の存在のように形を変えた個体も含まれる。
つまるところ、これまで各国がそれぞれで呼び習わしていたその存在を、一つに纏めて意志の共有をしやすくしたものだ。
名前が決まればその全容も何となく見えてくる。恐らく名付けは回帰の揺籃歌に準拠した物に違いない。
「溝にならないといいけれど…………」
誰に言うでもなく小さく呟いて息を吐き出す。
惑い者……回帰種は、今の世界における不穏分子だ。そんな存在に区別する名前を付けるその意味と結果。想像に易い未来は、避けなければならない想像だ。
似た前例に、妖精尽きが存在する。
これは、妖精の見える者がその力に驕り、見えない者を見下して使う差別用語。当然口にすることを咎められ、官憲に見つかれば処罰の対象となる。
が、一度生まれた言葉はそうなくなることはなく。妖精との歩み方を学んだ中にも、そういう思考を持つ者は確かに存在する。
これを口にし易いのが統計的に多いのは、先の大戦を経験した人間だ。
わたしはその時代を生きていないから実体験として語ることはできないが、あの頃は口汚く罵ることも状況を動かす一つの要因でもあった。その風潮が顔を覗かせることが時折あって、問題にもなる。
問題になれば人の知るところとなり、その知識は知らぬ世代に知れ渡る。
こうして知らず受け継がれていくことで、時に意味が変化することもあるわけで。
もっと限定的に、一時の噂として回帰種の悪評が独り歩きしてしまえば、その関係性は著しく悪化をしてしまう事だろう。
だからこそ、逆の考え方もできる。
こうして記号を付けるという事は、その扱い方の責任を取る準備があるという事。
正しい知識。正しい認識。正しい対応。
そうした、大衆的な正義を世界に浸透させ、問題を起こさせないためのあれこれを考えているという事だ。
その一端に、きっとわたしもいる。
四大国会談と、その後の話し合いで齎された情報共有。幾らかはわたしも掴んでいた世界の全容と知見を、ここから前へ進む一歩とするためにさらに発展させ、事態の収束に届く特効薬を見つける事。
それがここからのわたしの役目なのだ。
今は世界規模で誰もが憂い、状況改善へと模索している問題。研究のその先の、解決策。
「簡単に言ってくれる……」
重すぎる荷だと。笑い飛ばして掌分だけ背負い込む。
何も全てを自分でやる必要はない。みんなで協力して解決すればいい。その為の認識共有なのだ。
出来ることからコツコツと。研究者である以上何も変わらないその事実を改めて見つめ、ようやく手を伸ばす。
さて。まずは情報の洗い直し。これまで曖昧だったそれを、篩にかけて精査する。
まずはその全てを解き明かすことから始めよう。
……もちろん、それが一番大変で。それが一番楽しいのだ!
当然のように泊まり込み。会談前よりも一層騒がしくなった研究室には、けれどもあまり人はいない。
その理由は二つ。
一つは妖精変調。そして回帰種に直接触れ、確かめないといけないことが山のようにあるからだ。
とはいえ本当に魂の揺られた存在に接触すれば危険と隣り合わせ。そこで、これまで同様妖精の機嫌を損ねないように協力を取り付け、過去に回帰種として騒動を起こした個体と安全を確保した上で触れ合い、様々な角度で検証をするのだ。
そんな、本来であれば軍に所属する者達が担う危険な仕事を、有識者として直接出向いて対応しているのが過半数。
そしてもう一つ。全体の三割に当たる者達が担当しているのが、回帰の揺籃歌に関する事だ。
露草姫、ローザリンデ・アスタロス王妃殿下が遺された、最期の秘奥。不穏漂う世界に希望芽吹けと期待された種。
未だ発芽をしていないそのお世話を、世界が心血を注いで取り組んでいるのだ。
というのも、回帰の揺籃歌はあの露草姫が遺した妖精術だ。その規模は世界を丸ごと変えてしまうほど。それくらいに高度な妖精術を作れるのは、彼女亡き今のこの世界にはきっと存在しない。
故に、例え術式が公開されてもそれを自分なりの解釈で納得として落とし込み、行使するのは至難の業だ。
……興味本位で術式を覗いたわたしも思わず投げてしまった。この身には、その異能を司る血がはんぶん流れているというのに、だ……。
それほどに難解な術式と言えば、妖精の見えない者にも少しくらいは伝わるだろうか。
さて、そうなるとかの術式を解き明かすのは辛苦の道なのだが。無理と思えるほどの高みであっても、その頂きに奇跡の花があるのならば登らないという選択肢はなく。
なにより、彼女の見ていた世界の一端に憧れ、近付きたいと思えば。向上心が疼いてしまうのは無知に挑み続ける者の性でしかなく。最初から誰も諦めるなどと言う選択肢は存在していないのだ。
そんな、世界を変える妖精術を解明し、御するために多くの者が血道を上げている最中。
わたしはと言えば、それらを含めた様々な情報を統括、整理するという役目を押し付けられてしまった。
やっていることは最早管理職のそれ。一介の研究者が丸投げされる役割ではない。のだが……どうにもこの個と言う存在は随分な期待と信頼を勝手に着させられているらしい。
確かに必要な仕事だとは思う。誰かがやるべきで、であれば優秀な者が選ばれることに異議を唱える必要はなく。そこに名を連ねたことには幾らかの自負と言うか、達成感もある。
……が、どうにもわたしはハーフィーだ。体には、自由を愛して已まない魂が流れている。
そう。実力はあっても、適正ではないのだ。わたしが最も全力を出せるのは、きっと現場へ赴いて最前線で興味を満たす回帰種への対応の役割だ。
それを考慮して欲しかったのだが……上からの辞令には逆らえず。仕方なく自分にできることに抗して向き合っているのが現状だ。
とはいえそれもそろそろ限界かも知れないと。探求心はあっても続かない集中力に、自分のことながら辟易さえしつつ席を立つ。
一瞬室内の視線がこちらに向いて、居た堪れなさを覚えた。
彼らも妖精に関わる身。体質的な事として理解は示してくれているが、普通より頻繁に休息を取りがちなわたしに対して納得は出来ていないだろう。
こちらとしても可能であれば一緒に仕事を全うしたい気持ちはある。あっても、続けられないのだから仕方ない。
……因みに、一度環境改善として温室に仕事場を移し、自然に囲まれることでどうにかならないかと試したのだが。その時は遊びに来た子たちにやけに好かれて仕事どころではなかった為、あれ以降現状で我慢している。
特に今は妖精変調の影響で、妖精達には自然が必要だ。彼女達の溜まり場になっているだろう場所へ行くのは自殺行為。少しくらい息苦しくても、ここに篭っている方が断然に安全だ。
しかし、そうなると気分転換先に選ぶ場所も限られてくる。ハーフィー故に、妖精と同じ空間を好みがちなのだ。
特にわたしは地に属する魂を持っている。緑には自然と惹かれてしまうし、逆に海や風にはあまり心が躍らない。
さて、ではどこに気分転換をしに行こうかと。当てもなく研究所を後にしてとりあえず外へ出たところで、胸の奥に引っかかりを覚えて意識に引っ張られてそちらを見た。
そこにいたのは一人の妖精。紅赤色の短髪に、月白の瞳。男女比3対7と言う偏りの中ではそれなりに珍しい男の魂。
今の時世ならまず距離を取るそんな相手に、けれどもこちらから近付いて掌を差し出す。すると彼は慣れた様子でその上に翅を休め、静かな足取りで肩まで歩いた。
「あなたがここに来るなんて珍しいわね、ニッセ」
「近くを通ったから何となく」
ニッセ。そう呼ばれた彼は、答えながらわたしの肩に腰を下ろした。
妖精がその名を明かすのは親しい相手のみ。わたしと彼は、その例に漏れない関係だ。
「そしたら唯一無二の契約者様が随分と燻ってるもんだから気になってな」
契約者。そう呼び習わされた繋がりは──契約だ。
ハーフィーであるわたしは妖精が見える。学び舎も卒業して仕事をこなす立派な大人だ。
であれば当然、何かの不都合がない限り隣には共に在る妖精がいる、妖精従きなのだ。
そんな唯一無二のはんぶんこそが彼、ニッセだ。
「もしかして気分が優れなかった?」
「いいや。時期的に吊り合いは取れてる」
ニッセもまたハーフィーだ。人間寄りのわたしと契約を交わす彼は、その対を為す妖精寄り。
まず以って契約は、基本的に均衡を好まれる。人間の相手は純粋な妖精が。ハーフィーにはハーフィーがと言った具合だ。だから人間寄りのハーフィーには、妖精寄りのハーフィーが傍に居ることが大多数だ。
もちろんその例外も存在する。
と言うのも、契約に至る衝動は、人で言うところの一目惚れなのだ。
本能を生き甲斐に存在する妖精は、楽しい事を求め続ける。であれば当然、共に居て退屈しない相手を契約相手に選ぶ事になる。その判断基準こそが、魂の形だ。
妖精から見たそれは、性格のようにその目に映るらしい。
どんな事が好きで、何が嫌いなのか。そうした、個々の違いを言葉ではなく波長から読み取り、気の合う者を相手に選ぶのが契約なのだ。
ただ、全てがそうとは限らない。人間同士でそうであるように、性格以外のものを重要視する場合もある。
そうした中で、釣り合いが取れない契約の形が生まれることがある。純粋な人間と妖精寄りのハーフィー。もしくは人間寄りのハーフィーと純粋な妖精の組み合わせだ。
前者は、妖精の側にはんぶん混じった人間の血が作用して、自分よりも相手の事を気に入ってしまう事で生まれる関係。後者は、人間寄りの中に同族の血を感じて妖精が惹かれてしまう事で築かれる繋がりだ。
こうした例外には更にその先を生みかねない契約となる場合がある。
相手に自分の存在意義以上のものを求めてしまうからだ。
そもそも契約は、妖精の側が人を選ぶ。その際に重要視されるのは、いかに契約が妖精たちにとって快適であるかどうかなのだ。
確かに契約は繋がりを結ぶもの。一度交わせばその終わりの殆どはどちらかが世界からいなくなることに委ねられる。
しかし契約を果たしても妖精は妖精。その存在意義が根から変わることはまずありえない。その為、契約後に自分らしくいられるかどうかと言うのが、判断基準の大部分を占めるのだ。
この人間となら契約を交わしても自分を殺さなくて済む。そう思える相手と契約を交わすのだ。
だから契約を交わした後の妖精も、人の世界に居ながら自然を愛し。時折故郷を懐かしむように自然の中へ遊びに行ったりもする。
だが、自分の居場所以外のものを相手に見出して交わされる契約には、自分ではなく相手が占める割合が多くなる。
それはつまるところ、『契約相手と共に在る自分』であり、『自由を愛する自分』ではないのだ。
足並み揃えた共存か、自分本位か。例外と呼ばれる契約は基本的に前者であり、妖精としての個を後回しにすることが多い。
結果、『契約相手と共に在る自分』を…………契約相手その者を愛し、家庭を築き、子を為す事へ繋がるのだ。もちろん全員ではないが……。
もし仮にそうなった場合、生まれてくる子は更に均衡に嫌われた存在──クォーターとなる。ここまでくると蓋然性的に随分低く、数字で言うならば2500人に約1人だ。
……こう言われると多く聞こえるかもしれないが、そもそも純血と混じり者が契約を交わすこと自体が珍しく、フェルクレールトの大地全体でも一年で一組いるかどうか。さらにそこから子を為す確率を考えれば、途方もなく0に近いと想像に難くない。
因みに、わたしがこれまでクォーターを見たのは、記憶の限りだと一人だけ。今年国境付近で出会った、彼だ。
20年以上生きて噂には露ほども聞かず、知っているのは顔を見ただけのたった一人。殆ど概念のような存在だ。
それくらいに例外の契約は珍しく、誰もが有り触れ居場所を求める。
また、魂で判断する以上、妖精が人間を見初めれば、逆から見ても相性がいい場合が多い。その為基本的に、妖精からの誘いを断る人間はいない。妖精が共に居て心地いいと思うのであれば、逆もまた然りだからだ。
その当然に漏れず、わたしとニッセもハーフィー同士。
互いに妖精の血を持つために、それぞれが自由を愛し。こうして顔を合わせる機会もそんなにないのだ。
だからこそ、彼がわたしの目の前に顔を見せた事が珍しいのだ。
「それ以上に気分がいいから、ちょっと気になっただけだ」
「そう」
ニッセの気分がいい理由もよく分かる。そういう季節だからだ。
ニッセも妖精である以上、その魂には妖性が存在する。であれば当然、好みの環境があるわけで。彼の場合はそれが季節なのだ。
「何か変わったことは?」
久方ぶりの相棒との再会。基本別行動のわたしと彼が見る世界は、同じくハーフィーながらどうにも交わらない。
だからこそのこの契約だと納得すれば、肩に乗ったニッセは少し考えるように小さな足を揺らし、やがて独り言のように呟いた。
「……ヨウラスヴェイナル」
「え……?」
一瞬耳を疑った。
けれども次の瞬間にはその意味を頭が理解して、鈍って怠けていた思考をはっきりと回し始めていた。
「それ、本当?」
「かもしれないってだけだ。ただ、注意はしておいてくれ」
「……分かったわ」
まさか大人になってその言葉を冗談以外に聞くとは思わなかった……。
が、妖精は嘘を吐かない。考慮するべき事柄として勘案し、必要であれば対策を打たなければ……。
「また少し離れる」
「えぇ。何かあったら呼んで。いざとなったら道を借りるから」
こちら側にいる私はできれば使いたくないが、こればかりは仕方ない。
そうならないように事前努力をしなければ。
既に険呑さを纏い始めたわたしの魂に、彼が少し嫌そうな顔をする。
けれども気遣っている余裕はなく。気分転換もそこそこに踵を返す。
……ったく。そうでなくても忙しいのに、面倒事を増やさないで欲しいものね。
* * *
「と、こんな感じで一通りの説明は終わりだけど、何か質問はあるかしら?」
問いかけて教室内を見回す。けれども返る更なる疑問はなかった。
その事に安堵半分、不安半分で頷く。
今日の授業は妖精変調と回帰種について。
フェルクレールトの大地全体が認め、向き合い始めた問題、妖精変調。そしてそれに付随する回帰種と言う存在の認知に、この授業の時間は充てられた。
と言うのも、私が仕事として担当する学園の生徒達は、皆妖精が見える者達だ。
中でもこの教室内にいる生徒は、妖精憑きと呼ばれる見えるだけの、契約を果たしていない半人前だ。
彼女達は妖精との契約と言う一つの分岐点に向けて日々勉強を重ねている身。そんな不安定な状態の子達にとって、今回の事態は対処の難しい事柄なのだ。
契約妖精を持たない妖精憑きは自由を愛する妖精達にとって恰好の標的……悪戯相手。
中途半端な知識故に危険を冒しやすく、経験が浅い故に失敗する。その失敗は、悪戯を仕掛ける妖精たちにとって理想の反応。生き甲斐を満たしてくれる存在そのものなのだ。
契約を果たしていないのだから、当然身の安全確保に協力してくれる妖精も傍にはいない。
だから悪戯相手として好まれ、よく巻き込まれるのだ。
そんな彼女達には、いざと言う時に身を守る知識が必要となる。それこそが未知を知るという事であり、知恵を武器にする事……。
そしてそれを教えるのが、私達教師の役目なのだ。
「……大丈夫そうね。では次は実際に遭遇した場合の対処を練習してもらうわよ」
あがらなかった疑問を経て、今日の本題へと移る。
妖精変調、および回帰種への理解が済めば、今度は実践。とは言っても学生で、しかも妖精憑きである彼女達に多くは求めない。
そもそも遭遇しないことが賢明であり、今回教えるそれは避けられない場合の対応策だ。
「最初はクラスターで。次は個人での練習よ。練習が完璧にできなければ本番で思うようになんて行くはずがない。自分を守るために、全力で取り組むことっ」
いつもより数段鋭い言葉。生徒たちの返事と表情に緊張が宿る。
今回は甘い事を言ってられない。幾らか厳しくても必要な事を教えなければいけないのだ。
全ては自衛の手段を学ぶため。
他人事ではないと自らも気合を入れ直しつつ、今日ははんぶんであるシリルにも協力してもらって授業を進める。
こうした厳しさもまた、期待の裏返しだ。
「お疲れ様です、ヌンキ先生」
教員室の自分の机へ戻れば、隣に座っていた男性教諭が労いの言葉を掛けてくれた。
「どうでしたか?」
「幾らか手さぐりになるのは避けられませんね。けど、今年は特に優秀な子が多いようなので、その点で言えば問題はなさそうです」
「それは何よりです」
回帰種への対処を学生に教えるのは急務。
学都と名高いカリーナ故に、未来を担う若葉が危険に曝される可能性は出来る限り潰すべきなのだ。
責任は並以上。けれどもそれで折れる程、生半可な気持ちで教師などしている者はここにはいない。
「状況はまた変わるでしょうから、それに合わせて臨機応変に対応していかなくてはですね」
「大変ですが、お互い頑張りましょう」
励まし合って、顔を上げる。
困難の着地点は未だ曖昧なまま。けれどもきっと希望はどこかにあると信じて、確かめながら次の一歩を踏み出さなければ。
前に進まなければ、終わりなど絶対に来ないのだから。




