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フェアリー・ダブル  作者: 芝森 蛍
宵風に奔走する炎色のアボボラ
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第二章

「人の世も苦労しているようだな」

「全く、他人事(ひとごと)なんだから……」


 愚痴を零しつついつもの検査を行う。

 英雄的妖精、カドゥケウスとの橋渡しを任されてから早数年。当初はこんな長い付き合いになるとは思わなかった。

 研究者として国に、世界に尽くすと決め、ここまで頑張ってきた。その結果に英雄的妖精の保護者的な立場を得た事は、一個人としては(ほま)れなのだろう。

 が、どうにも歴史の流れはそんな栄誉に真っ向から牙を剥いているらしく。目に見えない力が世界を覆い流れて、不穏の種をそこかしこに撒き散らしていた。

 妖精変調(フィーリエーション)はその最たる物で、簡単に言えば妖精の身に起きている異常だ。

 妖性と呼ばれる彼女達の魂の形。不躾に言えば、トロールやゴブリンといった、これまで(ほとん)ど重要視されてこなかった概念。強いて言えば個々が得意とする属性(エレメント)の参考や、契約して得る特技の来歴を(つまび)らかにする為の指標。

 その妖精の根幹が、これまで一律人型を描いてきた殻を破るようにして、事実を塗り替えた。

 物語の中でしか知らなかった、妖精の異形としての存在。自然に住まう巨人であるトロール。悪意を鮮血で彩るゴブリン。そんな、幻想の出来事としてどこか世界と乖離(かいり)していた想像が、理解を待たずに現出したのだ。

 後手の対処に追われた人々は、どうにかその足掛かりを少しだけ見つけて解決に奔走している。

 その結果今分かっていることと言えば、妖精変調の影響を受けた魂は本能のままに被害を撒き散らす事。何かしらの条件下で元の人型に戻る事。そしてこれらが、散発的にフェルクレールトの大地全体で起きていることだ。

 具体的な対応策もないまま、これまで歩みを共にしてきた妖精に切っ先を向けなければならないという現状は、既に少ないながらも様々な声が上がって来ている。

 もちろん彼らの言い分も分からないでは無いが、ならば妖精達が振るう破壊の痕跡を甘んじて受け入れ、今ある平穏を手放すのかと問えば、きっと殆どの物が押し黙り、次いで穏便な解決策をと口を揃えるはずだ。

 そうして、具体的な対応策を求めての皺寄せが、妖精という存在の解明を生業(なりわい)とするわたし達研究者に矛先として向くというのが、理不尽でままならないと言う個人的な(いきどお)り。

 こっちだって精一杯真理の探究に勤しんでいるというのに。全く、丸投げする方はいつだって気楽で羨ましい限りだ。


「荒れているな」

「……そろそろ限界なの。峡谷(きょうこく)での一件から色々報告は挙がってきてるけど、進展の糧になる情報はまだ見つからない。そう言う意味では、本当に槍玉に挙げられるべきは現場で新しい痕跡一つ見つけられない彼らの方では無いかしら?」

「皆、懸命に心血を注いでいるのだ。……それに、どこへという理由を求めるならば、本来はこの身ではなかろうか?」

「彼女達が望んでそうしているのならね」


 諭すようなカドゥの声に溜まった吐息を置いて立ち上がる。すると彼は下ろしていた首を持ち上げた。


「けど、それだけは違うわよね。話に聞いたわ。妖精変調の影響で魂に歯止めが利かなくなった子が、その後正気を取り戻して巻き込んだ人間に謝りに行ったって。わたしにしてみればその感情の発露をこそ研究したいのに……」

「人が英気を養う為に眠るように、妖精は悪戯をする。それは生きる上で、本能を満たすために必要な事だ。眠る事に一々謝罪をしたりはすまい」

「だからこそ珍しいこともあるものだと思ったのよ。……はぁ…………。もう、何でこんなに面倒臭いのかしら」

「その煩雑さこそが、世界が世界足りえる理由だろうて」

「こんな混乱は望んでないわよっ」


 思わず声を荒げれば、胸の内の迷いを吹き飛ばすように生暖かい風が顔面を撫でた。カドゥケウスなりの冗談と気遣いらしい。髪が乱れてしまった。

 半眼で目の前の巨体を見つめて、それから軽く髪を手で()く。遠慮なく胸の内を吐き出したお陰か、少しだけ喉の奥にわだかまっていたものが薄れた気がした。


「悪かったわね、愚痴なんて零して」

「この身よりそちらの方が検診が必要なのではないか?」

「そうね」


 退屈と日々戦い続けるカドゥケウス。人にしてみれば、殆ど眠ることもせず働き続けているのと同じ事。

 妖精としての本質を揺るがしかねないそんな生活を送っている彼に気遣われるとは、わたしも相当なものらしい。


「どこかで折を見て休むわよ」

「あぁ。その方がこの身も好都合だ。新たな者と初めから関係を紡ぐのは億劫だ。何より、君の代わりは居ないだろう」

「……ありがとう、カドゥ」


 彼に信頼されている事に半端者のわたしが居場所を見つけた気がしながら。あちこちに投げたままの道具を片付け始める。


「どこまで信用していいか分からないけれど、今のところ変化はなしよ」

「ふむ、そうか」


 カドゥケウスの検診。彼の世話を任されているわたしは、定期的に彼の体調を()ているのだ。

 とは言ってもわたしには医学の知識など殆どない。出来る事と言えば、体に流れるはんぶんを使って彼の波長の乱れや保有する妖精力の総量を垣間見るだけ。これがどれだけ今の現状に役立っているのかなんて分からない。……ただわたしが変わりないことを確認して安心したいだけかもしれない。

 英雄的妖精であるカドゥケウスの身に何かあれば、今以上に世界は混迷を極める。それだけは何としても避けなくてはならないのだ。

 今のところそんな懸念も杞憂に終わっているようで、溜まった鬱憤が安堵と共に少し和らぐ。……これでカドゥまでどうにかなっていたら、わたしはきっと色々なものから既に逃げ出していたことだろう。


「何かあったら早めによろしく。出来る限り時間を作るから」

「あぁ。無理だけはするなよ」

「えぇ」


 尾の頭。ドラゴンとしての彼の本来の頭部とは別の、尻尾の先についたもう一つが気遣うような声を軽く向けてくる。

 頭が二つある彼らだが、基本的に考えることは同じ。その点で言えば、もう一つの一対も似たようなものかもしれない。


「それじゃあ……ピス、ケス、帰るわよっ」

「ん」

「分かった」


 少し見上げて声を張る。するとカドゥケウスの頭の上からひょっこりと頭を覗かせた鏡写しの少女が二人、短い声で答えた。

 まるで遊具で遊ぶように、巨体の頭の上を滑って下りてきた彼女達が器用に着地して振り返る。


「カドゥ」

「またね」

「あぁ」

「そっちもな」


 やることなすことが全て鏡合わせな女の子。

 カドゥの双頭によく似た、こちらは見た目までもが殆ど見分けのつかない一対。

 ピス・アルレシャとケス・アルレシャ。ここカリーナ共和国の現大統領の孫……つまりは王孫殿下だ。

 今回カドゥのところへ来るという話をどこからか聞きつけてきたらしい彼女達は、用意された馬車の目の前で専用の服まで自前で用意して待ち構えていたのだ。聞けば陛下から許可は貰っていると言うのだから、その時点でわたしにはどうする事も出来なかった。

 そうして連れてきた彼女達だが、仕事の邪魔をすることはなく、ただひたすらにカドゥと戯れ、話をしていただけだった。

 休日という事で暇を持て余していたのだろうか。だったらもっと健康的に友人と遊べばいいのに。

 そんな事を考えながら別れの挨拶が終わるのを待って、彼女達と共にカドゥケウスの居城を後にする。

 色付く自然の美しい息吹の中をしばらく歩けば、やがて肌に纏わりつくような妖精力の存在感が極端に薄くなる。どうやら境界線を越えたらしい。それから直ぐに、見慣れたいつもの出入り口に戻ってくる。

 出入り口と言っても門や関所があるわけではない。ただ世界の重要機密が眠る場所の為騎士を置いているだけの、それ以外は何の変哲もない森への入り口だ。

 不必要に飾り立てれば逆に目立ってしまうし、何より自然に住まう妖精達はその住処の近くに人工物がある事を嫌う。そんな理由から、ここら辺は殆ど手付かずの自然が溢れているのだ。


「どんな話をしたの?」

「人の日常」

「妖精の日常」

「そう。楽しかった?」

「うん」

「また来る」


 馬車に乗り込んで一息吐きながら尋ねる。

 どうやら二人にとって次は決定事項らしい。……まぁ、勝手に忍び込んだりしないでくれるならいいとしようか。

 もしそんなことがあれば、後で叱られる面子にはきっとわたしも含まれるから。暇なら陛下と話す口実になるが、急がしい今は勘弁願いたいものだ。


「わたしは帰ってまた仕事だけど、二人はこの後どうするの?」

「家へ帰る」

「宿題がある」

「そう。と言うことはジネットさんが迎えに来るのかしら?」


 こくりと頷く双子。真っ直ぐな(あま)色の瞳が一切わたしからずれる事無く注がれる。

 この二人は、話をしている相手から目を逸らさない。それが時折不気味に感じる事もあるのだが……そっぽを向いて話をするよりは余程いいことのはずだ。不思議なほどに透き通っているから、心の奥底を見透かされそうで少し怖いのは秘密。

 しかし、そうか……と。

 ジネット・シンストラとは今年の夏に入る前からの付き合いで、あれから何かと顔を合わせる機会の多い使用人だ。

 目の前の彼女達とよく行動を共にする機会が多いため、必然彼女とも連絡を密に取るようになったのだが。流石は名家に仕える使用人。礼儀も折り目も正しい彼女はとても人格者で。実務を生業とするジネットと理屈で生きているわたしは変なところで気が合うのだ。

 お陰で信憑性の高い情報を彼女から貰うことも多く、わたしとしても色々助かっているのだ。向こうからすれば一時いっとき信じて預けられる第二の保護者的な扱いをされている気がしないでもないが……互いに利があるのだからいいとしよう。彼女も忙しい身なのだ。


「だったら、二人のお仕事はこれからが本番ね」

「うん」

「頑張る」


 素直な二人の反応に、それからくすりと笑ってそれぞれの髪についていた枯葉を取ってあげた。何でそこまで鏡写しなのか……つくづく不思議な双子だ。

 まさか世界は彼女達を中心に鏡合わせで動いているのではないだろうか…………。

 冗談ながらもどこか真実味を帯びていそうな想像をしつつ馬車に揺られる。さぁ、帰ったらまた書類と向き合わなければ。

 手探りでも前へ。そうでなければ、いつまで経っても前には進めはしないのだから。




 城の前で馬車から降りれば、そこには帰りを待っていたジネットが立っていた。


「お仕事お疲れ様です、アルカルロプス様」

「待たせたかしら?」

「仕事ですので」


 どれくらいそうしていたのかはわからない。しかし彼女の背筋は一切曲がる事無くどこまでも凛としている。

 妖精の血がはんぶん入っているわたしには真似できないことだと尊敬しながら。本来の保護者たる彼女へとピスとケスを返す。

 と、足を出した双子が不意にその歩みを止め、わたしの方へと視線を向けた。

 何か用だろうかと考えた所で、背後に小さな気配。振り返れば、そこには見知った顔が浮いていた。


「あら、あなたは確か……」

「エルヴェと契約してる。カガチだ」


 彼の声に思い出す。

 目の前の妖精とは、この前スアロキン峡谷に調査で向かった際に幾つか言葉を交わした。陸軍にその名ありなエルヴェ・フォルナシスの契約妖精たるカガチは、彼と同じ(フラム)に愛された魂を持つ存在。

 その為か、エルヴェと話をした時はスアロキン峡谷に流れる川の事を本能で毛嫌いしていたのが妖精らしい振る舞いだった。


「そのはんぶんは?」

「今日は仕事がないからって部屋に篭ったきり音沙汰なしだ。きっと溜めてた本でも読み漁ってるんだろ。おれは暇だからあちこち見て回ってたんだがな。そしたら見知った顔を見つけたもんだから声を掛けたんだよ」

「あぁ、そうだったの」

「だから別に用があるって訳じゃないんだが……。うん? 森に入ってきたのか? 自然の温度がするな」

「英雄的妖精様のところへね」

「なぁるほど。それでそんなに(ぬる)いのか」


 カガチの感性に、それが彼の視点かと少しだけ興味が疼く。

 妖精は自らの魂の形に応じた世界の見方をすることが多い。例えば音に深い関わりを持つ妖性は、音で認識を。命に近しい者は魂の根源を見透かしたりする。

 それと同じように、カガチは相手を温度で判断するようだ。(グラド)は温いらしい。


「ま、そっちの双子ちゃんは相変わらずみたいだけどな」

「ピスたち」

「どんな感じ?」

「冷たくて熱い。不思議だな。ここまで両極端なのは見た事無い」


 わたしにしてみれば冷たい印象の方が圧倒的に強いのだが……。やはり純粋な妖精から見た世界というのはハーフィーのわたしとは違うものらしい。

 本来ならばその感性を調べて妖精への理解を深めたい所なのだが……。どうにもここ最近、わたし個人の興味関心は溜まっていく一方だ。なにか、別の形でこの胸の遣る瀬無さを発散する方法を探さなくては…………。

 そんな事を考えてから、視界に捉えたジネットの姿に我に返る。


「あ、勝手に盛り上がって悪かったわね」

「いえ、そちらにいらっしゃるのですよね?」

「えぇ。カガチって言う男の妖精よ」

「……もしやエルヴェ・フォルナシス様の契約妖精の方ですか?」

「知ってたの?」

「お名前は聞き及んでおりますよ。フォルナシス様のかけがえのない右腕だと」


 流石は城内勤務。アルレシャ家に雇われて久しいが、今でも彼女は方々に人脈を持っている顔の広い使用人だ。

 一部では、城内の事で彼女が知らないことはないのではないだろうかとさえ噂される御仁。敵に回したくないのは確実だろう。

 そんなジネットの周りをぐるりと飛んだカガチが、少し不満げに零した。


「そうか、見えないのか。折角なら面と向かって話をしたかったが、仕方ないな」

「伝言」

「何かある?」

「いいや。別に。……それよりもこんな所で話し込んでていいのか?」

「そうだった。早く戻って報告書を纏めないと」

「ではお仕事の邪魔をしてもいけませんので。お嬢様、屋敷に戻りましょうか」

「ん」

「またね」

「えぇ、気をつけて」


 双子に別れを告げて研究室へと向かう。すると後をついてきたのはカガチだった。


「どうしたの? 悪戯ならやめてよ?」

「城内の奴らの顔を見てから帰ろうと思ってな」

「あぁ、そう。この時間ならきっと中庭で訓練してるわよ」

「いい事聞いた。ありがとなっ」

「じゃあね」


 わたしにも彼くらいの自由度が欲しいと嘆きながら。近付くに連れて空気が淀んでいくのを肌で感じつつ研究所へと戻る。

 ……あぁ、そうだ。久しぶりに自分の契約妖精とでも話をしてみようかと。

 殆ど忘れかけていた、自分が妖精従き(フィニアン)であるという事実を思い出して、気分転換の方法を見つける。

 とはいえこんなに色々抱えて大変なのに心配してくれない辺り、契約が示す通り似た者同士なのだと苦笑しながら自らの戦場へと足を踏み入れたのだった。




              *   *   *




 お嬢様が職業体験を終えて約半月ほど。いつものようにその日は唐突にやってまいりました。


「使用人のお仕事を、ですか?」

「うん」

「駄目?」


 申し出は単純明快に。また使用人としての仕事を、今度は学園の特別授業とは無関係に個人的に経験したいと言うものでした。

 いきなりのことでしたのでわたくしも少し驚きましたが、直ぐにその真意をお尋ねいたします。

 お嬢様は、意味もなく行動を起こされない方でございますからね。


「……先の体験学習で何か不明な点でもございましたか?」


 何かしらの心残りや疑問から、それを解消する為に申し出たのでは。そう考えが至りますが、返ったのは首を振る仕草でございました。


「お父様とお母様はいいって言った」

「後はジネットとお爺様だけ」

「では、純粋に使用人のお仕事に興味があるということでございますか?」


 今度は縦に。どうらや前の体験が随分とお嬢様のお気に召したご様子です。


「正式な使用人」

「おやすみの時だけ」


 確かに、学園の校則では在学中の労働を禁じるものはございません。本人が将来の為に行う課外学習として推奨もされているほどです。

 ですがよりにもよって使用人とは……。やはりお嬢様にとって肩書きや立場と言うのは些細な問題のようですね。


「今日は陛下のところへ伺う予定はございませんが……そうですね。時間を見つけて伺ってみる事に致しましょう。そちらはわたくしの方からお話しておきますので、お嬢様は学園へ向かう準備をなさってください」

「わかった」

「よろしく」

「はい、(うけたまわ)りました」


 お嬢様の申し出です。ご要望に最大限お答えするのは仕える者の努め。まずはお話だけでもしてみましょう。




 本日は旦那様の身の回りのお世話がわたくしのお仕事でございます。諸侯方との会談は、アルレシャ家の党首として重要なもの。当然、そちらを(ないがし)ろにするようなことは出来ません。

 お嬢様のお世話を任されておりますが、本来のわたくしの雇用主はルドガー・アルレシャ様なのです。お嬢様への忠義に関しては、わたくし個人の我が儘を忖度(そんたく)してくださった結果なのでございます。その点に関しましては、旦那様に感謝を幾らしても足りませんね。

 もちろん、その分のアルレシャ家への奉仕を欠かしているつもりはございません。それがわたくしにできる最大限の感謝の形でございますから。

 そんな、旦那様の付き人としてのお仕事は、今日も予定通りにつつが無く行われました。予定されていた会談も大きな滞りもなく終わり、後はお屋敷へと戻るだけにございます。


「ジネット」

「いかがなされましたか?」

「明日は午後から予定が入っていなかったよな?」

「はい。今のところはございませんね」

「どうやら友人が帰ってきてるらしいんだ。それでなんだが……」

「お帰りは、余り遅くならないようにだけ気を付けていただければ、わたくしから申し上げることはございません。奥様とお嬢様にはわたくしの方からお伝えしておきましょう」

「あぁ、頼む」


 旦那様のご友人は、学生時代からのお付き合いが大部分を占めます。この間カリーナを行商で発ったジュスト様もそのお一人です。

 お嬢様がそうでありますように、家柄をたっとぶカリーナでは、学び舎に沢山の子息子女の方々が通われます。そうして卒業をされた方の殆どは、家督などを相続して次代を担って行くのです。

 そうなれば当然、国内に留まらないお仕事をされる方も沢山いらっしゃいましょう。

 第二次妖精大戦が終わり、今一時の平穏を紡いでいる現在。その安然の時間を少しでも継続させ、更なる世界の発展へと貢献される方々が、それぞれの国でご活躍されております。

 その為、生まれ育った故郷を離れて暮らす方も当然いらっしゃるわけで。今回はそんな中のお一人が久方ぶりにカリーナに戻ってきた、と言う事なのでしょう。

 旧交を温め、必要とあらば互いの利害を確かめる。手放しに友人とお会いするという事が中々難しい身の上で、それでも日頃の息抜きをと言うのは、普段(まつりごと)に関わって忙しくされている旦那様にも行使してもよい権利でございましょう。

 ……まぁ、事はそれだけではないというのが、わたくしを介して奥様にお伝えするという理由なのでございましょうが。


「……因みに、前のときは何か言ってたか?」

「いえ、わたくしは何も伺っておりません」

「そ、そうか……」


 こうまで旦那様が気にしておられるその要因は、(ひとえ)にそのご友人が女性だからでございましょう。

 もちろん旦那様は、奥様に隠れて倫理に背くような事をされてはいらっしゃらないでしょうが、妻子持ちの立場ある大人としてやはり危惧はあるようでございます。

 そこはどう足掻いても人であり、男と女、と言う事でございましょう。

 もちろん、従者である以上、仕えるべき主の望まない事をするつもりはわたくしにもございません。慣例にならって、奥様には『ご友人と会食』とお伝えしておきましょう。

 はい。ですので、奥様が旦那様に抱いているあれやこれやに関しても、わたくしは決して口を割る事はございません。それがわたくしの責務でございますので。

 ……一応誤解のないように断っておきますが、アルレシャ家の家庭環境はそれはもう円満でございます。円満だからといって、不満がない訳ではない、と言うのは難しい所ではございますが。


「ま、まぁ、そういうことだ。だから報告も今日中に済ませておきたいんだが……」

「ではわたくしが承りましょう。別件で陛下に判断を仰ぎたい案件もございますので」

「ん…………あぁ、そう言えばピスとケスが使用人の事を言っていたな。それか?」

「はい。旦那様と奥様は了承されたと伺いました」

「あぁ。あの子たちが一つの事に特別興味を示すというのは珍しいからな。折角の感心なら満たしてやる方が彼女達のためにもなるはずだ。……その結果に、ジネットにまた面倒を掛ける事になるのは心苦しいんだが」

「お気遣いありがとうございます。ですがお嬢様のお世話に関しては既知のことですので。……それに、お嬢様のお世話をさせていただける事こそが、何よりのわたくしへの褒美でございますから」

「……そうか。無理だけはしないようにな」

「はい」


 お嬢様のお世話をする事に何の不満がございましょう。わたくしはただ与えられた命をこなすだけの事。その結果に、お嬢様の普段は見られない一面を見られると言うのであれば、それに勝る喜びはございません。


「よし。そういうことならここからは一人で帰るとするか。その方が往復する手間も要らないだろう?」

「お心遣い感謝いたします。では旦那様、どうぞお気をつけて」

「あぁ。また後でな」


 旦那様をお見送りして、足をカリーナ城へと向けます。

 余り人通りのない路地を通って近道しながら歩けば、陽が落ちる前に城の門を潜る事が出来ました。

 丁度町中の警邏も交代時間のようで、軽装ながらしっかりと武装した騎士の方々の姿が数多く見受けられました。これからは夜の時間。城下町の日々の安全を守る為にも、彼らの存在は欠かせないのです。

 特に陽が沈んでからは悪巧みも(はかど)るというものでしょう。そういった悪意の芽を事前に摘むことも彼らの仕事なのです。

 同じく国に仕える者として、擦れ違い様に挨拶とお見送りをしつつ城内へ。途端、冬も段々と近付いて冷えた空気を人の温かさが塗り替え、少しだけ安堵を覚えました。

 やはり見慣れた場所では無意識とはいえ緊張が緩んでしまいますね。

 そんな事を考えながら陛下の執務室へと向かいます。いつものように扉を叩こうと足を止め、腕を上げかけたところで声を掛けられました。


「陛下なら今席を空けておられるぞ」


 そちらを見れば、立っていたのはエドワール様でした。

 陛下専属の傍付きとして補佐を務められる彼は、陛下の右腕と名高い人物でございます。わたくし個人としても、使用人として入りたての頃にご指導を受けたご縁がありますね。あの頃から変わらず、エドワール様はわたくしの尊敬する方でございます。


「危急の用件なら伝えておくが?」

「いえ、エドワール様のお手をわずらわせるつもりはございません。陛下はどちらに?」

「……恐らく温室だろう。悪いが呼んできてもらえるか? まだ今日中に済ませる公務が残っているのでな」

「畏まりました」


 温室、と言う事は、また息抜きでございましょうか。ここ最近は陛下もご多忙のご様子。休息も必要でしょう。

 が、大統領という椅子に座るお方。この国のためにも、責務は全うしていただかなくてはなりません。

 そして、それをお支えするのがわたくしたち使用人の仕事でございます

 エドワール様と別れて中庭へ。その一角に管理されている温室へ向かいます。

 この温室は季節に左右されない環境管理の下、稀少な植物の栽培などを行い、研究をする為に設営された建物でございます。

 人工的に管理された環境では、ここカリーナ共和国では育ちにくい植物……特にスハイル帝国原産の物も栽培されており、時には疾病しっぺいの特効薬としても期待されております。栽培環境が増えれば、それだけ有事の際に備えられるわけでございますからね。

 そんな人の手による自然にも、緑を愛する妖精達が憩いを求めてやって来る事があるそうです。

 残念ながらわたくしは隣人の姿を目にすることができませんので、直接それを拝見する事は叶わないのですが。それでも何となく気配のような物を察する事は出来るのです。

 実際には、不自然に草花が揺れ動いたりと言う目に見える形ではございますが。そこにいると想像ができれば、きっと意思疎通も出来なくはないでしょう。……その内、わたくしのような隣人と住む世界が違う者達も平等に価値観を共有できる…………そんな世界が来る事を願っております。

 と、そんなことを考えながら。温室の一角に向けて進めていた足取りが、目的の人物の後姿を見つけて止まりました。

 花壇の傍に腰を折って座り込んだ後姿。ともすれば、農作業をする年配のお爺さんと見紛みまがってもおかしくない程に景色に馴染んだそのお方に声を掛けます。

 ……立場に見合ったきっちりと整った身形なので、温室という場所に限れば随分と浮いて映りますが。


「陛下。エドワール様が執務室にてお待ちですよ。公務にお戻りにはなられないのですか?」

「ジネットか……。これを見てくれるか?」


 ……仕方がありませんね。陛下に満足いただけるまでお付き合いすると致しましょう。

 わたくしはしがない使用人。エドワール様のお願いよりも、陛下のお戯れの方が優先順位が高いのですから。


「……ツユクサですね」

「本来ならばもう時期は終わりかけているのだがな」


 ツユクサは朝に咲き、昼には花を閉ざしてしまう品種の草花です。そのためこんな遅い時間まで花弁を開いていると言う事はまずございません。

 と言う事は、こちらは狂い咲きか、品種改良を施されたものでしょう。

 もちろん、時期外れと言うのも交配を繰り返した結果得られた特性です。ここに咲くツユクサは、環境の密な維持によって一年中花を見られるのです。

 好きな花をどんなときでも。人の業と言えばそれまででございますが、だからこそ願ってやまれないのでしょう。


「こんな事をしなくとも沢山の花が咲き乱れる陽花城(ゾンネパルク)が羨ましく思うよ」


 陽花城とは、ブランデンブルク城の別名でございます。かのお城の周りには、自然と様々な種の草花が自生し、国一番の建造物を自然が彩ると言う幻想的な光景が見られます。

 わたくしも数度この目で拝見した事がございますが、あれはまるで大地が描いた花束のような景色でした。

 また、自然が溢れる場所には当然の如く妖精達も集まります。わたくしには見聞きすることのできない世界のお話でございますが、それはきっと浮世離れした時間が流れている事でしょう。

 しかもその花畑が殆ど管理もされず毎年のように咲き乱れると言うのですから不思議な話でございます。

 温室栽培をしなければ暑さに焼かれ、短い間しか自然を堪能出来ないカリーナとは全く異なる風土でございますね。


「お隣は、ツクバネソウですか?」

「こっちも花の時期は終えておる。そろそろ実をつける頃だな」


 ツクバネソウは淡黄緑色の小さな花を付ける植物でございます。名の由来は花ではなくその後にできる実の形から。

 黒い実の下に鮮やかな羽を付けた様な見た目からそう呼ばれます。


「一応食用だったり薬にもなるから栽培はしているがな」

「陛下が熱心にお世話に取り組んでいらっしゃるのは、その別名が王孫だから……でございますね」

「全く。もう少し楽しく語らせてくれてもいいのではないか?」

「失礼致しました」


 声に言葉ほど糾弾の色はありません。それどころか、秘められた意味を共有できる事に喜びの音も聞こえてくるほどです。

 王孫。それは言葉の通り、王の孫。この国の大統領の椅子に座る陛下に当て嵌めて考えれば、その人物はわたくしの敬愛するお嬢様のことでございます。


「なに、年寄りの道楽だ。ただ育てているに過ぎんよ。……だが、ツユクサに関しては少し宛があってな」

「アスタロス王妃殿下ですか?」

「あぁ」


 ローザリンデ・アスタロス。その名は、このフェルクレールトに住む者であれば一度は聞いたことがあるはずでございます。

 カリーナの隣国、ブランデンブルク王国の長である国王、ヒルデベルト・アスタロス陛下の王配。国に仕える研究者として勤め、その最中にアスタロス陛下に見初められた、かのお方の唯一。

 他国に轟くその名の理由は主に二つ。一つは彼女が類稀なる妖精術の行使者であるということ。そしてもう一つは、彼女が先の大戦中に他国の工作によって光を失った事に起因する物です。

 前者は、妖精と共に歩むこの世界では最重要と言ってもおかしくない偉業。未だ妖精の全てを理解していない人の側が、それでもと前を向き続けた先に至る、新たな妖精術の発見。

 時にそれは世界さえも変える力として認められ、これまで成し得なかった道理を形にさえ致します。

 しかしそれは、人が稀に辿り着く極地。十人の妖精の見える者を集めて、その(つい)の際にようやく一人が至れば僥倖と言う、気の長く確実性のない話でございます。

 そんな、まるで奇跡とも呼ぶべき道の果てに、アスタロス王妃殿下はこれまでに既に数度辿り着いております。

 とても広いフェルクレールトの台地を見渡しても、そんな人物は彼女お一人なのです。

 ですので、妖精が見える者達からは際限なく尊敬される、国境さえ無視したお方。それがアスタロス王妃殿下の名を世界に知らしめる一端でございます。

 そしてもう一つ。これは過去を無粋に暴き立てる人の醜さの証でもあります。

 ヒルデベルト王妃殿下は目が見えません。ある時命を狙われ毒を盛られた際に、一命こそ取り留めましたがその瞳から光を失われたのでございます。

 その頃既に一国の主を支える人物として名が知られ、類稀なる才覚で妖精術の開発も行われていた王妃殿下は、ブランデンブルク王国の象徴の一つでございました。

 始まりの理由も忘れ、退く事も出来なくなった争いに終止符を。そんな思いから、どこかの国が負ければそれをきっかけに停戦、終戦の協定を結べると工作が行われたのでございます。

 四大国が無視出来ない人物が狙われれば、大きな転換期になります。

 結果、王妃殿下は毒によって命を狙われ、死の淵より舞い戻った代償に世界の色を失ったのでございます。

 王妃殿下の瞳は、アスタロス国王が惚れ込んだ一番の理由とも名高い、高貴な(はなだ)色。別名露草色もとも呼ばれた、国の至宝とも言うべきものでございました。

 だからこそブランデンブルクは……否、世界が悲嘆に暮れ、いつしか失われた色が戻るようにと願いを込められ、露草(ツユクサ)……その別名にツキクサと言う名を持つ草花が彼女の下へ届けられたのでございます。

 その瞳に色が付くように。そんな願いが、やがて一つの大きなうねりをもって。王妃殿下が光を失ってしばらくの後。彼女の成した偉業を称え、回復を願って、露草姫と言う愛称が民の間で瞬く間に広がったのであります。

 その愛称は今日(こんにち)でも親しまれ、その名の元となった草花……ツユクサが、カリーナに限らず世界中で愛されているのでございます。


「今度四大国会談があるだろう。なにやら既に彼女が事態の収束に向けて尽力していると小耳に挟んだものでな」

「それはいいお考えですね。きっとお喜びになられると思いますよ」

「飽きていなければな」


 確かに。日毎(ひごと)同じ物が贈られてくれば辟易もしてしまうかもしれませんね。


「それもこれも、事態が進展する兆しがあればこそだ。我が国でも頑張ってもらいたいものだな」


 国王としての責務の為、妖精変調に関することは研究者の方々に一任しておられます。陛下は、こうして公務の最中温室に足を伸ばされるように自由奔放ではありますが、裏を返せば行動的なお方と言う事でもあります。

 陛下も妖精従きとして契約妖精と心を通わされる身。無粋に胸の内を勘繰れば、きっと自分自身で事態の解決にも努めたいと思っていることでしょう。

 だからこそ、その思いを()んで誰もが懸命に幸ある未来へ向けて努力をしているのであります。


「……さて、そろそろ休憩も終わりだな。エドの小言が増える前に戻るとしよう」


 立ち上がられた陛下について温室を後にすれば、思い出したように声がこちらに向きました。


「して、何か用があったのではないか? 今日はこっちに顔を見せる予定はなかったはずだろう?」

「ルドガー様から本日の会談によって纏まった議題のご報告と、もう一つはお嬢様からのご要望が一件ございます」

「なにっ。それを早く言わんか」

「失礼致しました」


 お嬢様のお名前を口にした途端、足を止めてこちらに向き直られた陛下。相も変わらず、お孫様の事となれば目に入れても痛くないといったご様子ですね。

 そんな事を一人思いながら、ようやくの本題に入ります。


「あいつのは後で聞こう。それで、あの子達が何のお願いだ?」

「この間学園の課外学習として行われた職業体験は覚えていらっしゃいますか?」

「あぁ。流石はあの二人だったな。最終日には下手な使用人より有能だったぞ」


 それは流石に色眼鏡が過ぎるのではないでしょうか。お嬢様の頑張りは認めますが、一応わたくしも使用人の端くれ。二人揃ってようやく半人前と言うのが個人の見解でございます。……厳しいようですが、それが現実でしょう。


「あの時の経験がお嬢様の中で有意義なものになったようで、また使用人としての業務を経験したいとのお話を伺っております。旦那様と奥様はご了承済みです。付きましては最終的な判断を陛下にお尋ねいたしたいのですが、いかがなさいましょうか?」

「是も非もなかろうっ。彼女達がやりたいというならば願いを叶えるだけだ。……だが、そんな暇があるのか? 学業に、友人付き合い。この前は妖精変調の即応部隊への参加も決まっていたはずだが…………」

「わたくしとしましては学業等、予定のない日に臨時のような形で使用人としての仕事に協力していただく。そんな風に考えてますが、どうでしょうか?」

「当人の気持ち次第、と言う事か……。とは言え無理を強いるのは違うからな。それで二人がいいのならば許可しよう。服はまだ残ってるのか?」

「はい」


 わたくしの部屋に。……他意はございませんよ。ただお嬢様の成長の証として預からせていただいているだけでございます。えぇ、もちろん。


「ふむ。ならまた君の下につけようと思うが、構わんな?」

「はい」

「折角だ。今度は彼女たちが満足行くまで使用人の仕事を体験させてやってくれ。それもきっと、いい経験になる」

「承りました」


 お嬢様は将来アルレシャ家を背負って立つお方です。その際には当然、あの屋敷と家督、その他諸々のアルレシャ家が築いてきた全てを引き継がれます。そうなれば当然、人の上に立つことも避けられません。

 その時に遠慮する事無く雑務は使用人に預け、成すべきことを成される為には、あって困らない理解だと愚考いたします。

 信頼に足る腹心や傍付きは、家を映す鏡でもあります故。上に立たれる方がそれを存じているか否かは、その後の未来さえ左右しかねない要因でしょう。

 そして、そんな主人であればこそ、仕えるべき側も命を賭せると言うものです。使用人とは、奉じ使われてこその存在。敬服するに足る主に恵まれる事こそが、何よりの本懐なのでございます。

 そういう意味では、わたくしは随分と恵まれているのかもしれませんね。


「しかし、そうか……。これで一つ楽しみが増えたな」

「公務をおろそかにしないでもらえればわたくしとしても安心します」

「エドみたいな事を言うでない」


 そんな風に少しだけ立場を越えた話をしながら。わたくしはまたいつものわたくしに戻るのであります。




              *   *   *




「おかえりなさい、ジネット」

「ただいま戻りました。直ぐにお手伝いいたします」

「えぇ、よろしく」


 乙女の戦場、台所。家の中で女性にのみ勝手が許されている事から、勝手口を別名として付けられたその場所から。

 いつものように名家の奥様なんて言う肩書きを放り投げて食事の用意をしていると、いつもより少し遅れて信頼に足る使用人が戻ってきた。

 そんな彼女から日中の報告を受けつつ手際よく料理をすすめる。


「……それじゃあお義父とう様はお許しを?」

「はい。お嬢様の自由の許す限り、わたくしの後輩として使用人としての業務に時折参加する事となりました」

「そう。だったら後はジネットに任せるわ。あの子たちをよろしくね」

「畏まりました」


 堅苦しい言葉とは裏腹に、声には親愛の色。彼女がこの家の一員として私の娘であるピスとケスを大切に思ってくれている事は周知の事実。

 稀に私よりも過保護とさえ感じる事もあるけれども、しかしそれも彼女の愛故のもの。育児放棄をしているつもりはないが、ジネットはこの家のもう一人の母親としてよくしてくれている程だ。きっと彼女に任せてもあの二人は立派に育つだろう。


「よし。後はこれで焼きあがるのを待つだけね」

「ではこちらはわたくしが」

「えぇ。よろしく。私はあの二人の様子でも見てくるわね」


 後を任せ、娘たちの部屋へ。

 学園へ入っても相変わらず鏡写しな双子は、彼女達の固有空間も二人で一つ。そんな部屋の扉を叩けば、声よりも先に戸が開いた。


「お母様」

「どうしたの?」

「少し様子を見に来ただけよ。勉強していたの?」

「うん」

「あと少し」


 邪魔をしてしまったようだ。手の掛からない子なのはいいことだが、少し自立が過ぎている気がして母親として少し寂しい。


「夕食もあと少しなの。どっちが早く終わるか競走ね」

「ん」

「頑張る」


 折角の意欲を折るなんて不粋な事をするつもりはない。が、どんな課題に取り組んでいるのか気になって小さな背中の後ろから手元を覗き込む。

 するとそこには綺麗な筆致で作文が綴られてあった。


「どんな課題?」

「妖精変調」

「授業の感想」

「そんな授業があったの?」


 こくりと頷いたピスとケス。

 妖精変調については私も耳にしている。とは言っても、妖精の見えない私には直接の関係がない話なのだが。

 しかし、まだ公には発表されてはいないその問題を既に学園では取り扱っているらしい。

 彼女達にとってはこれから直面する事になる問題。特に契約前の妖精憑き(フィジー)にとっては、誘惑と相俟(あいま)って危険の孕む事象だ。それらに対する知識と対処を教え、それぞれが抱える不安や考えをこうして形にさせる。そしてそれを元に教える側も個々に寄り添って授業を進めていく。

 ピスとケスが作文を書く傍らぽつぽつと語ってくれた事から類推するに、学園側はそんな事を考えているようだ。

 事前に動いて出来る限りの対応を。これからを預かる学び舎が真摯に向き合ってくれている事には親として感謝する。

 私のように、子にそういう事を教えられない親も世間には存在するのだ。その面で導きの手を差し伸べてくれるのはありがたい。

 こういう時に彼女達と住む世界が違うという事を不甲斐なく思う。その分、人としての振る舞いをしっかり学んで欲しいとも思うのだが……。

 そんな風に考えていると、扉を叩く音。次いで聞き馴染んだ使用人の声が響く。


「奥様。夕食が完成いたしました」

「直ぐに行くわ」

「出来た」

「引き分け」

「ふふ、そうね。それじゃあ食べに行きましょうか」


 ほぼ同時に作文も終わる。残念。勝負には勝てなかったようだ。

 片付けを終えたピスとケスを連れて食卓へ。するとジネットが呼びに行ってくれたのか、私が愛する旦那……ルドガーも既に席に着いて待っていた。


「今日は夕食が豪華だな」

「ここの所忙しいからってとぼけるのは駄目よ?」

「なんのことだ……?」


 これは……どうやら本気で忘れているらしい。ならばそういう趣向もいいかも知れないと思いつく。

 ジネットに目配せすれば、彼女も同じ事を考えついたのか首肯してくれた。

 気付いている様子のピスとケスにも、内緒にするようにと人差し指を立てて合図する。


「分からないならそれでいいわ。ほら、食べましょう?」

「……なんだ? わたしだけ仲間はずれか?」

「ある意味ではそうかもしれませんね」


 ジネットの言葉に二人して笑う。

 本当に分からず困惑している様子の彼を置いて、家族揃っての食事が始まる。

 我が家では全員が揃っての食事が基本。各々の予定が合えば、家ではなく外で食べると言う事も(たま)にするが、料理が好きな私とジネットが食事の中心になっている為、それも珍しい。

 だからこそ大事な時間をこうして共に過ごせるのだと思えば、豪勢な食事をするよりも余程温かみのあるはずだと一人ごちながら。

 家主を置いて盛り上がる話題に未だ(いぶか)しげな視線が、しばらくの後我慢出来ずに降参の旗を振る。


「……そろそろ教えてくれてもいいんじゃないか? 何か大事な事を忘れてるなら謝らせてくれ」

「もう。食後にしようと思っていたのにね」

「ではお持ちいたしましょうか」

「ううん」

「ケスたちが行く」

「それじゃあ任せようかしら。場所は分かる?」

「うん」

「大丈夫」

「お手伝いいたします」


 椅子からとんっと音を立てて飛び降りたピスとケス。食事中に席を離れるのは……とも思ったが、今日は特別だと静かに見送る。

 不安そうな表情のルドガーにくすりと笑って待てば、小さな使用人が主賓の為に宴の華を持って現れた。


「お父様」

「お誕生日」

「む…………。あぁ、そうか」


 机の真ん中に置かれたケーキと愛娘の言葉に、ようやく合点が言った様子のルドガーが安堵したように小さく息を吐いた。


「マリー様のお店で用意してもらったのよ」

「またお礼に伺わないとな」

「ジネット」

「ろうそく」

「ただいま火を点けますね」


 いつの間にか立てられていたろうそくの先端に揺らめく炎が灯っていく。中央に大きいのが三本。それを取り囲むように小さい物が八本。その数は示す通り、ルドガーは今年で38歳だ。

 まだまだ先の長い道程の節目。楽しく健康に過ごす為のお祝いだ。


「後で贈り物も渡すわね」

「あぁ。皆、ありがとう」

「お誕生日おめでとうございます、旦那様」

「火」

「消して」

「そうだな」


 ピスとケスに促されて相好を崩したルドガーが身を乗り出し息を吹きかける。

 そんな風にして、彼の誕生日はゆっくりと幕を開けたのだった。




 ピスとケスが寝静まった後。彼女達には秘密で催される大人の時間。

 今宵ばかりは立場に隔たりもなく。仕着せから余り見慣れない私服に着替えたジネットも加え、三人でお酒を片手に静かにお祝いの時間を。


「しかし完全に忘れていたな……」

「忙しいのは仕方ないでしょう。お疲れ様」

「妖精変調のことで色々ごたついているからな。早く何かしらの指針が決まればいいんだが……」


 大統領の家系として、妖精変調の問題が浮上してからはあちこちに駆けずり回っているルドガー。まさに休まる暇がなく、今日も一日外に出ていたのだ。


「四大国会談も間近ね。そう言えば明日は休みって言ってなかったかしら?」

「ん、あぁ……」

「明日はご友人と会う予定があると伺っております」

「そう。……楽しんできてね」

「そうするよ」


 グラスで顔を隠しながら答えるルドガー。相変わらず隠し事が下手な人。

 旧知の間柄とはいえ、こそこそと女性と会うくらいなら(あらかじ)め面と向かって断ってくれればいいのに。信じてはいるけれども邪推してしまいそうだ。

 ま、後ろめたい予定の時は決まって何かお土産があるのだ。そっちは素直に期待しておく事にしよう。ピスとケスも喜ぶはずだ。

 と、そこで双子の顔が脳裏を過ぎってジネットから聞いた話を思い出す。


「あぁ、そうだ。二人が使用人の仕事をしたがってたって話、お義父様の許可が下りたそうよ」

「そうなのか?」

「はい。職業体験学習のときと同じように、わたくしの後輩と言う形で、お嬢様のお好きな時間にというお話になりました」

「なるほど。ならば後の事はジネットに任せようか」

「畏まりました」


 堅苦しいのは無しだと最初に言ったのに。仕事の事となると条件反射でそう答えてしまうらしい。ジネットらしいことだが、もう少し肩の力を抜いて欲しいのも事実だ。

 ……明日は家での仕事は殆どないし、このまま思い切り酔わせてあげればどうだろうか。

 そんな風に考えながら時間を過ごせば、やがて窓の外の月が空の天辺を越えて段々と高度を落としている事に気がつく。

 用がなくても無為に時間を浪費するわけにはいかないと。二日酔いを懸念して適度な所で静かな宴会を終えて寝室へ向かう。

 部屋には大きな寝具が一つ。ピスとケスが自室を持つまでは四人で一緒に眠っていたが、今となってはルドガーと二人きり。少し寂しさも感じてしまう。

 また今度、ピスとケスも呼んで久しぶりに全員で寝てみるのもいいかもしれない。……それとも、流石に狭いだろうか?


「どうした」

「なんでもないわ」

「……マツリ」


 扉の前で立ち尽くしていたわたしにルドガーが尋ねてくる。

 提案はまた今度。思いつきをそう胸の奥へ仕舞い込めば、名前を呼ばれて振り返る。

 すると直ぐそこにあった彼の顔が音もなく近付いて、微かな愛情を不意打ち気味に重ねると照れたように離れた。


「なぁに? 酔ってるの?」

「そういう事にしておいてくれ」

「ふふ」


 柄にもない事を。……けれども、何となく私もそれを望んでいた気がして、満足感が後から湧きあがってきた。


「寝ましょうか」

「あぁ」


 微笑んで、少し冷たい寝具に潜り込む。

 ジネットがしてくれたベッドメイクのお陰で心地よい眠気が瞼を重くしていく。鼻先に、愛すべき人の匂いが仄かに香って、今日はよい夢が見られそうだと少しだけ眠るのが楽しみになった。




              *   *   *




「どうした、カガチ」

「いいや。なんでもない」


 半身に問われて気のせいだと誤魔化す。

 足を止めていた彼の肩に座れば、殆ど同じ目線から再び世界が動き始めた。


「起きたらもういなかったが、今日はどうしてたんだ?」

「あちこち見て回ってた。そう言えばあの双子ちゃんに会ったぞ」

「ピスとケスに? なんでまた」

「老体の所へ行ってたらしい」

「そうか」


 老体と言うのはカドゥケウスの通称だ。あれは人と契約していないながら、妖精の輪を逸脱した年月を生きている。

 見た目も妖精とはほど遠いドラゴンの巨体。大きな鱗も剥がれ落ちた石炭のようにぼろぼろで、まるで朽ちた倒木のようだとあちこちで口さがなく言われている。

 殆ど身動みじろぎもしない老いた自然の塊。だから老体なのだ。

 全く、あんな風に長年一所に留まっている気が知れない。どうして消滅していないのか不思議なほどだ。


「あの温さはどうにも落ち着かないな」

「……どうした。気が立ってるのか?」

「………………」


 エルヴェとは長い付き合いだ。だからこんな些細な変化でも見抜いてくる。

 今日くらいは気付かない振りをしてくれてもいいだろうに。相変わらず神経質と言うか、律儀な奴だ。だからこそ、おれとは正反すぎて契約をしたのだけれども。

 とはいえ確かにいつも通りとは言い難いかもしれない。自分がおかしい事は既に知っている。


「何かあるなら話してくれよ」

「……まだいい。思い過ごしで済むならそれが一番だ。それに、エルヴェに言ったらどんな事でも無駄に大事にしそうだからな」

「見えてる懸念をそのままにしておくより余程いいだろう」

「これまでその心配の幾つが実ったよ。大丈夫だ、もし本気で手が必要ならちゃんと頼る」

「…………分かった」


 どうやら納得してくれた様子。心配性な相棒を持つとこっちが疲れるのだと思いながら、胸の奥のざわつきに少しだけ向き合う。

 …………大丈夫。こんな事は、これまでも何度かあった。だから、大丈夫。

 これ以上の動乱なんて必要ない。

 そうであってくれれば、それでいい。

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