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フェアリー・ダブル  作者: 芝森 蛍
秋の七色、世界の七色
33/56

第四章

「いらっしゃいませ」


 来客を知らせる鈴の音。手元で片付けていた食器類から目をあげ、本日二人目のお客様におもてなしの始まりを告げる。

 と、そこに立っていた人物に親近感以上のものを覚えつつ目の前の席を促せば、彼女は遠慮することなく腰を下ろした。

 二人目のお客さんではあるが、店内には今彼女のみ。先に来た男性はつい先ほど店を出たばかりだ。

 仄暗い店内に男女が二人……。とは言えそこは店主と客。引いた境界線を無粋に踏み越えることはしない。ここはそういう大人の社交場だ。


「何になさいますか?」

「いつもので」


 これもまたいつものやり取り。そのことに笑顔を浮かべつつ、既に始めていた準備に本格的に移る。

 彼女の好みは酒精の少し強めな飲料。悪酔いではなく、お酒に強いらしい彼女が気持ちよく(たしな)む為に必要なのだ。

 来店も、もう何度目になるだろうか。そんなことを益体もなく考えながら幾つかの種類を少量ずつ混ぜて特製の一杯を作る。

 洒落たグラスが淡い光を反射し、水面に気泡をのぼらせる。静かに彼女の目の前に差し出せば、いつものように手にとって軽く持ち上げ、それからどこか艶かしく縁に口をつけた。

 微かに白い喉が上下するのを見つつ、それから冷やしておいた菓子を皿に盛り付け提供した。


「これは……?」

「よろしければどうぞ。今回は御代をいただかないので」

「そう」


 薄く微笑んだ口元が鮮やかに彩られる。

 彼女の目の前には数種類の小さなお菓子。半透明な、触れればふるふると揺れる円錐台のようなものは、ゲラーレ。海藻類から得られる成分を混ぜ込むことで、冷やしたときに固まることを応用した食感の瑞々しい菓子だ。

 ここカリーナでは夏が過ぎても暑さは続く。その為こうした冷たい食べ物が人気なのだ。

 そんなゲラーレと一緒に、一口大のソーベイやトルテレッテを一つの皿に盛り付けたのが、ミニャルディーズと呼ばれる新商品。まだ知名度は低いが、小さく沢山のものを色々食べられるということでちょっとしたお祝い事の席に好まれる商品だ。どちらかと言うと女性人気の方が強いだろうか。

 今回はそれをお酒のお供として並べてみたのだ。


「美味しいわね」

「クェンとカントウの絞り汁を混ぜ込んで、皮も少し。すっきりとした味わいでお酒にも合うかと」

「えぇ。とても」


 微笑む彼女に安堵する。もちろん自分の舌でも確かめたが、味覚はそれぞれ違う。お酒の好みからなんとなく大丈夫だとは信じていたが、やはり不安はどこかにあったのだ。

 その懸念も、目の前で浮かべられた笑顔に吹き飛ばされる。口に合ったようでよかった。

 それからしばらく静かにお酒を嗜んでいた彼女が、少し熱っぽい吐息と共にグラスを置く。次いでこちらを向いた瞳には、店に入ってきた時の鋭い大人の色は殆どなかった。


「生徒がお世話になったみたいね」

「いい子達でしたよ。手放すのが惜しいくらいに」


 砕けた口調は、それが彼女の素だと知っている。世界最高峰と名高いテトラフィラ学園の教員を勤める彼女は、常日頃生徒の模範足れと立派な大人として振舞っている。

 その反動か、お酒を飲んだ彼女────リゼット・ヌンキは歳相応……より少しだけ子供っぽい言動をすることがよくある。有体に言えば、日頃の愚痴を零すのだ。


「信頼していないわけではないけれど、やっぱり心配なのよ。慣れない環境で慣れない仕事。大人だって大変なんだからまだ学生の彼女たちが全部を完璧にはこなせない。それで必要以上の迷惑をかけていたらどうしようかって……」

「難しい話ですね。教師ともなればなおさらでしょう」


 個人の店を切り盛りしているだけの身からすれば、彼女はとても尊敬に値する立派な大人だ。けれども彼女だって一人の人間。弱音を吐きたい時だってある。

 少しでもその助けになればと、今この時だけは耳を傾けて頷く。

 ……それに、彼女の話を聞けるのは個人的に嬉しいのだ。もちろんそれを表に出したりはしないけれども。そんなもの、彼女は僕に求めていない。


「しかもそれが私のよく知る店なら特にね……。そう言えば幼馴染って言ってたかしら」

「歳は少し離れていますが、昔から仲良くさせて貰ってますよ」


 リゼットが言っている生徒は二人。ロベール・アリオンとシルヴィ・クラズのことだ。

 あの二人とは幼い頃からの付き合い。お陰でこの店もいいように使われているが、常連客なのは間違いない。

 今年からは面白い友人も増えたみたいで、よく四人で遊びに来ている。


「だから、今日はそのお礼」

「お礼だなんて。いつも贔屓にして貰っているのはこちらですよ」

「それはお酒が悪いのよ」

「ありがとうございます」


 逃げるような言い訳に笑顔を返して、空になったグラスの代わりに次の一杯を。

 ペリーと言う名前のお酒で、ブランシェを使った果実酒。リゼットの一番好みなお酒だ。


「はぁ……」

「お疲れみたいですね」

「感想文がね」

「感想文?」


 訊き返して、それから底にあった記憶を思い出す。


「あぁ、そう言えば二人もそんな事言ってましたね。確か職業体験が終わった感想文を提出するとか」

「それを一教室……30人分目を通して評価をつけるのよ。これが結構大変で」


 教師は自分一人の仕事ではない。相手にするべき生徒が居てこそ成り立つものだ。

 しかもそれを30人も纏め上げるのはきっと相当の胆力が必要になることだろう。改めて教員と言う職業を尊敬する。


「飲まないとやってられないわよ……」

「ご自愛くださいね。それまででしたら僕も付き合いますので」

「ふふっ、ありがとう」


 柔らかい微笑み。向けられた笑顔に、けれども胸の内は隠したまま同じ表情を返す。

 子供ではないのだ。節度ある振る舞いを。

 …………とは言え、この気持ちに正直になるには言い訳が過ぎるか。本気ならば、さて……一体どうすればいいだろうか。




              *   *   *




 気分転換にやってきた校庭。今日も今日とて暑い日差しから逃げるように木陰に腰を下ろし、微かに吹く風に目を閉じる。

 職業体験に関する仕事もようやく一段落。とは言え通常授業はいつものようにあるわけで、今度はフィースト(十二月)にある試験に向けて準備。休まる暇など殆どない。

 しかし仕事はそれなりに楽しいのだ。成長著しい生徒たちを日々見ていると新たな発見ばかりで、彼女たちに教わることも多々ある。特に今年は大統領陛下のお孫さんがいるからか、例年より少し特別な感じだ。

 何か大きな問題を起こすわけではない。ただ、言葉にならない空気が違うのだ。

 あの二人は、気難しいというか不思議な雰囲気を纏っている子達だから。入学当初は色々心配もしていたのだが。無事クラスターを組んでからは、時折妖精絡みで名前が挙がることはあっても基本的には優秀な生徒。

 余り友人付き合いは広くないようだが、孤立しているわけでもない。強いて言えば、周りが少し遠慮しているくらいか。

 王族というのはそれだけの意味があるのだと。担任教師をしているからこそ生徒たちよりも身に沁みる。

 とはいえ目立った問題がないのは事実。突飛押しがないことには時折ひやひやさせられるが、このままいけば将来が楽しみな双子ちゃんだ。


「ふぅ……」


 麺麭(パン)に具材を挟んだだけの簡単な昼食。飲み物片手にそれを喉の奥へ流し込んで腹の足しにする。

 別に体重を気にしているわけではないが、昼は少食。その分夜沢山食べるのが常だ。朝を抜いてしまうのは、よくお酒を飲む所為か。

 何にせよ、それほど手間の掛からない体。少しの栄養補給で動いてくれる自分に感謝をしつつ、残りの時間を体を休めるために使う。

 と、心地よい風に一眠りしようかと目を閉じたところで、小さな葉擦れの音と共にお腹の上へ小さな衝撃が降ってきた。


「ん……?」

「あ…………」


 何事かと目を開けてそこにいたのは男の妖精。覚えのない色合いに尋ねる。


「どうしたの? 迷い込んだ?」

「あ、いや……」


 歯切れの悪い返答。言動がはっきりすることの多い妖精にしては珍しい反応だと少しだけ興味が湧く。


「もしかして悪戯しに来たの?」


 それが見つかってばつが悪い。不出来な悪戯に恥じているのかと思い尋ねる。

 しかし返ったのは首を振る沈黙。

 違うとなると、後考えられる可能性は…………。


「まさか契約を(そそのか)しに来た訳じゃ────」

「それは違うっ」


 鋭い声にその先を(つぐ)む。すると彼は申し訳なさそうにしながら口を開いた。


「……むしろ、その逆で…………」

「逆?」

「この前、遊んだんだ。そうしたらその子を危険に(さら)して……。やりすぎたって反省してるんだ。こういうとき、君たちは謝罪をするんだろう?」

「珍しいこともあるものね……。そんなに気に病むことだったの?」


 妖精の悪戯なんて日常茶飯事だ。時には不注意から怪我をすることだってある。そうならないように教えるのが私の役目だ。

 人が食事をするのと同じように、妖精たちは悪戯を行う。それを自主的に謝るというのは余程の事だ。


「……契約もしてないのに、連れて行こうとしたんだ」

「それはまた随分な悪戯ね」


 そこでふと、ここ最近話題になっている変調の噂を思い出す。


「…………もしかして惑い者?」

「っ……!」


 小さな方を大きく揺らした反応に納得する。

 惑い者。この春頃からよく聞くようになった、妖精の少し危険な悪戯。それを行う個体の名称だ。

 学園でも注意喚起にその話題はよく挙がる。この前も生徒が一人、妖精に悪戯されて森の奥まで入り込んでしまったことがあった。

 どうやら目の前の彼はその惑い者らしい。少しだけ警戒の度合いを高める。


「また誰か遊びに誘いにきたの?」

「違うって! 今は正気だ! 今回は前のことを謝りに来たんだよ!」


 声は真剣そのもの。嘘を吐かない妖精がここまで真摯に告げているということは、彼の言葉は本物だろう。


「手を出さないなら別にいいわよ。それで、誰に謝りに来たの?」

「名前は……覚えてない。ただ同じ(フェリヤ)に愛された子だったのは覚えてる」

「風…………そう言えば……」


 先ほど脳裏を過ぎった生徒の顔。確か彼女は風の属性(エレメント)を得意とする少女だ。

 違ったらそれまで。一応確認だ。


「……少しここで待っててくれる?」

「え、あ、あぁ……」


 彼を残して校内へ。この時間なら昼食のために教室に居るはず……。

 迷いの無い足取りで自分が担当する教室へ。出入り口から中を見渡して、目的の少女を見つけ、呼ぶ。


「クラズさん。少しいいかしら?」

「え、あ、はい」

「何したんだよ」

「何もしてないって。ちょっと行ってくるから。食べてて」

「おう」


 仲良くクラスターの四人で机を囲んでいた中の一人。アプリコット色の長い髪を頭の横で二つ括りにした、エメラルドグリーンの瞳の女の子。

 シルヴィ・クラズと言う名前の、この先が楽しみな生徒の一人だ。

 座学は上位。実技では目を見張る成績を残す、どちらかと言うと妖精術の行使を得意とする彼女は、風の属性に愛された妖精憑き(フィジー)

 そんな彼女は、この前の職業体験学習の直前に妖精に悪戯されて惑わされていた。学園側でも事実確認やその後の体調の変化など気を配っていたが、大きな問題は出ていない様子で一安心。その為もう終わったことだと思っていたのだが……。


「先生、どうかしましたか?」

「あなたに会いたいって言う妖精が居てね。風の男の妖精。覚えはある?」

「…………もしかして、と言うのは一つだけ」

「話がしたいそうなの。どうするかはクラズさんが決めることよ」


 妖精の側から名指しで干渉と言うのは珍しい。基本的に妖精の悪戯は目に付いた対象に殆ど目的を定めない突発的なものだ。一応傾向として、同じ属性に愛された人が狙われやすいというのはあるが、それだって一つの指標。余程の事が無い限り妖精が個に固執するのはありえない。

 それこそ、数多居る中から一人を選ぶような……契約等の可能性を孕んだ場合でなければ十分気に留める必要がある。

 この学園……と言うよりフェルクレールトでは、妖精との契約は学び舎で真ん中の階級──テトラフィラ学園だとポルト級になってからだ。それまでは妖精との接し方を学び、自分の力と向き合うために契約は禁じられている。

 もちろん教師として、道を外れた行為は(いさ)めなければならない。当然話し合いにも共に居るつもりだ。


「安心して。私も一緒に行くから」

「…………分かりました。お願いしてもいいですか?」

「えぇ、任せて頂戴」


 それが彼女の覚悟なら。子供の決意ある行いを大人が妨げるものではない。自由の尊重は豊かな感性を育むために必要なのだ。


「それじゃあ行きましょうか」




 シルヴィ・クラズと共に戻ってきた校庭。先ほどまで私が居た木の下まで行けば、そこには約束通り帰りを待つ妖精の姿があった。


「あ…………」

「知ってる子?」

「……この前の悪戯の子です」

「そう」


 どうやら想像は間違いではなったらしい。

 となると契約云々を心配する必要は無いか。言葉通りに謝りに来ただけだろう。

 念のため傍で様子見だ。


「お待たせ。この子で間違いないわね?」

「あぁ、ありがとう」


 彼が彼女を惑わせた。そんな事実は、しかし直ぐに違和感に変わる。

 過去の行いを反省して素直に謝罪の出来る妖精が、一体どうして彼女を森の中へ誘ったのか。やはりそこに惑い者としての何かがあるのだろうか。

 考えていると、私の一歩後ろに居たシルヴィ・クラズが恐る恐るといった様子で前に出た。


「ひ、久しぶり……」

「あぁ。……その、悪いな。学び舎にまで押しかけて」

「それは別に……。話って何?」

「この前のことを謝りに来たんだっ」

「え……?」


 不器用なほどに真っ直ぐな声に、シルヴィ・クラズが拍子抜けしたような……驚いたような声を零す。

 彼女にしてみれば命の危険さえ孕んだ悪戯をしてきた相手。幾ら妖精を知り、見える者でも……だからこそ警戒はしてしまう。

 しかしそんな胸の内とは裏腹に、目の前の小さな体に敵意は全く無い。それを感じ取ったのか、彼女の体から緊張の色が薄れていくのが分かった。


「この前は、悪かった。なんだか気分がよくなって、気付いたら目に映ってた君に声を掛けてた。君が魅力的なのは事実だ。この魂は嘘じゃない。……けど、あそこまでするつもりは本当に無かったんだ…………」


 報告に聞いている。彼はガンコナー……恋語らいと呼ばれる魂の持ち主だ。

 見目麗しい乙女に愛を囁きかけ、惚れさせて時間を奪う。物語の中ではより残虐に、心酔させた挙句命まで果てさせる脅威を秘めた存在だ。

 しかしそれは想像の中の話で。これまで恋語らいに誘われても、一時の時間を掠め取られるだけで命まで脅かされたという報告はどこにも無い。物語の中の幻想は、見知らぬ人に付いて行かないと言う道徳を養うための誇張表現だ。

 それが今回、実際に現実になってしまった。だから学園側も異例のこととして被害に遭ったシルヴィ・クラズに取り調べのような事をする破目になったのだ。それに関しては、彼女に申し訳なさを感じている。


「危険に連れ込んで悪かった。それを謝りたかったんだ」

「………………」

「何か償いが必要なら──」

「ううん、そうじゃないよ」


 沈黙に、焦ったように言葉を連ねた恋語らい。よほど人間らしい感情の動きに、それこそが妖精らしさかもしれないと思う。

 感情を行動原理にする妖精は、自分に嘘を吐かない。時に本能のままに生きて人に迷惑を掛けることもあるが、それが彼らの生き様だ。

 今回はそれが少し度を過ぎただけ。

 何かしらを要因に、魂に歯止めが利かなくなる……恐らくこれが惑い者と言う形なのだろう。


「ただ、ちょっと驚いてるだけ。妖精が謝ってるのなんて初めてだったから。……でも大丈夫。体もなんともないし、貴方だって平気なんでしょ?」

「あぁ、今はもう大丈夫だ。しっかり自分に言い聞かせてればどうにか抑えられる」


 本能のままに行動に移すというのは、彼らにとって抗いがたい魅力だ。それを抑え込むなんて、妖精としての生き様を否定するような行いかもしれない。

 しかしそれ以上に彼は、誰かに迷惑を掛けてまで己を振り撒きたくは無いのだ。

 人と妖精の関係を崩さないために。ともすれば契約さえ仄めかすこの繋がりに、彼は真摯に向き合おうとしているのだ。それを否定することなどできはしない。


「なら何も問題は無いよ。今後同じことをしてくれなければね」

「そう、か…………。分かった」


 この辺り、後に引かないのは妖精らしさか。


「迷惑を掛けて悪かった。それじゃあ」

「うん、気をつけてね」


 シルヴィ・クラズが手を振って見送れば、彼はそのまま風を身に受けて森の方へと帰って行った。その後姿を眺める隣の少女に尋ねる。


「気になる?」

「少しだけ。けど妖精は嘘を吐きませんから。それを信じることにします」

「そうね。それがいいわ」


 妖精を疑っていては良好な関係は気付けない。不信は何よりも重い罪。共に歩む為にも、信頼関係が重要なのだ。

 その点で言えば、彼女は将来が楽しみな生徒だ。

 悪戯をされ、命の危険を経験しても尚、隣人への落胆の色は無い。僅かに恐怖はあるかもしれないが、しっかりと飲み込んで教訓にも出来ている。

 真摯に向き合い、(いず)れくる自らの未来を決め兼ねないその時のために前を向き続ける。生半可な覚悟と胆力では成しえない心のあり方。

 ここまで……どこか無鉄砲にさえ思えるほどに一途なのには、何か理由があるのだろうかと。

 心配半分期待半分で感情を綯い交ぜにしながらしばらく見つめる。すると視線に気付いた彼女がこちらを向いて、思い出すように告げる。


「あの子、この春にも会ったんです」

「春?」

「陛下の誕生祭の時です。あの時も他の女の子に悪戯をしてました」

「……あぁ」


 言われて思い出す。

 陛下の誕生祭。あの時は賑わった喧騒の片隅で様々な問題が起きていた。その対処に、シルヴィ・クラズと、同じクラスターであるピス・アルレシャとケス・アルレシャが関わって事なきを得ることが出来た。

 どうやらあの時の妖精が先ほどの彼だったらしい。


「短期間に同じ妖精と出会うのは何かしらの縁があるんですよね」

「それがどういう形になるかはその時になってみないと分からないけれどね。中にはそのまま契約をしてしまうものもあるわ」

「契約……」

「まだ先の話よ。さっきの彼だって、節度はあるみたいだから仮に気に入られても契約を迫られるようなことは無いでしょう。だからゆっくり考えればいいわ」

「はい」

「……ただ、不思議なことに妖精との間に紡がれた縁は中々切れないわ。今後も彼と顔を合わせる機会があるかもしれないわね」

「……………………」


 何かを考え込むように黙り込んだシルヴィ・クラズ。やがて彼女は何か決心したように一つ頷く。


「……大丈夫です、先生。今回みたいな特別が無い限り、あたしはあの子に(なび)いたりはしませんから」

「えぇ。適度な付き合いを、ね」


 入れ込みすぎるのは互いに影響を及ぼしかねない。それぞれが自由の身だ。時にすれ違って肩を並べる程度がきっとちょうどいい。


「お昼の時間に連れ出して悪かったわね」

「いえ。それではこれで。ありがとうございました」

「えぇ」


 礼儀正しく腰を折った彼女が、(きびす)を返して校舎の方へと歩き出す。

 その背中を見つめながら思う。

 彼女は、だからこそ危ういのだと。

 想い人がいるということは、それだけ恋語らいの興味を引きやすいと言う事なのだ。きっと今後も、彼との縁は強くなっていくことだろう。

 もしそれを解決できる手段があるとするならば、それはきっと…………。


「いけない。下世話な勘繰りね」


 良家の子女として、将来に重荷を背負う彼女。せめて学生の時くらいは自由に生きてもいいはずだ。


「ま、ゆっくり見守りましょうかね」


 異性交遊を罰する校則は無い。行き過ぎなければそれでいい。

 そう自分に言い聞かせながら空を仰ぐ。

 ……私も、もう少し面白味のある人生を歩んでいればこんなに諦めなくても済んだのだろうか。




              *   *   *




 森の奥。心の安らぎを求めてある場所を目指す。近づくにつれて肌を包み込む心地よい感覚に身を委ねながら、そうして目的地へとたどり着いた。

 開けた視界は秋の色。鮮やかに染まった自然の中で、けれども変わらないものも確かに存在する。

 その存在は、身を寄せ合うようにして高さを競うように天高く伸びた数多の木の根元に。糸でも()り合わせるような複雑な絡み合い方をした巨大な大樹。それ一つがまるで大きな生命のような圧倒的な脈動を、(グラド)に属さなくとも感じながら。

 辺りに漂う存在の源……溢れんばかりの妖精力の海に溺れながら、大樹の根元に翅を休める。

 するとまるで自然の中から突然湧き出たように何かが鎌首を(もた)げる。緩慢な動きに妖精力が(たわ)んで波打つ。

 そちらをみれば、小さな頭がこちらを見つめていた。


「どうだった?」

(つつが)無く」

「そりゃあなによりだっ」


 軽快に安堵する音。胸の奥を撫でる安心する響きに、微かにざわめいていた魂が凪いで行くのを感じる。

 今や木の根元、その(うろ)に偉容と威容と異容を曝すのは、同属の魂を持ちながら型に嵌らぬ体躯の存在。

 眠ったように閉じた眼。その玉一つでこの身よりも大きい異形。この世のものとは思えない巨大な体は、まるで不可思議に拡大されたような爬虫類を思わせる四足。がさがさとした、老いた樹木のような肌は、けれども確かなる熱を持ち。大きく吸い込んだ空気が微かに開いた口……そこから覗く、これまたその一本一本がこの身よりも大きな牙の隙間から漏れ出て、辺りに落ちた枯葉を景色に舞い上がらせる。

 背中には海を渡る人の叡智……船のように大きな翼。妖精とは違う二枚一対のそれが、小さく震える。

 次いで開かれた、縦長の瞳孔を奥に潜ませる強者の光。それが寝ぼけたように幾度か瞬きを繰り返し、睥睨(へいげい)するようにこちらを見つめた。

 今や二つの視線がこちらを射抜く。生物としての本来の頭、そして後尾の先端に揺れるもう一つの頭だ。

 ……だと言うのに、その体は一つという奇怪で。大小二つの顔が、双頭の怪物を思わせる出で立ちで隠された真実を暴き立てるようにこちらを見つめる。

 頭と尾、二箇所に顔を持つ異形のドラゴン。それがこの森の中、妖精力の溢れる局地を統べる英雄的妖精──カドゥケウスだ。


「魂に……揺らぎは見受けられんな」

「ここにいる間はなんとか。外に出るとしばらくしたらまた本能に突き動かされそうになる。今はそれもどうにか抑えられるけど、あんまり長くは無理だな。……正直、あの欲望には抗い難い」

「自由を愛するに身は酷な話やもしれんが、落ち着くまでここにいればよい。身を滅ぼすよりは良かろう」

「あぁ、そうさせてもらう。ここは心地いいからな……」


 妖精力の満ちる地。この世界には何箇所かそう言った場所が存在する。つい先日噂に聞いたが、海の上にもあるらしい。

 簡単に言えば妖精力溜まりのようなもので、妖精力を存在の源とするこの体にとってはとても過ごしやすい場所なのだ。きっとここにいれば他の妖精たちよりも長生きできることだろう。

 この現象の中核には、妖精力を放出する不思議な存在がある。ここだとカドゥケウスが居城とする大樹の上……そこから妖精力が溢れてここら一帯を満たしているのだ。

 ここでなら不思議と魂の疼きも鳴りを潜める。その所為か、他にも不調を訴える妖精が幾らか身を寄せているのだ。


「して、件の人の子は壮健であったか?」

「あぁ。怒るどころか受け入れてくれたよ。あれだけ魅力的なら本能で誘ってしまうのも無理からぬことだと思いたいねっ」


 彼女は恋を知る乙女だ。自らの想いを認めて向き合おうとする姿勢は、人が生み出すどんな芸術よりも尊いと思う。

 だからこそ本能が刺激されて、あの時彼女を巻き込んでしまったのだろう。……言い訳をするつもりは無いが、あの場に彼女が居合わせなければもう少し先延ばしには出来ていたかもしれない。

 それくらいに乙女が抱く情とは甘美で愛おしいのだ。

 きっと妖精力が存在の根源でなければ、この身はその感情を喰らって生きていたことだろう。


「その感慨までをも縛り付けるつもりは毛頭ないが、事は人との融和の先だ。(かどわ)かすのは良いが、今回のような不和を招くようなことは控える方が身の為だ」

「……あぁ、身に沁みたよ。一緒にいた彼や、居合わせた他の子にも迷惑を掛けたからな」


 今回の記憶には無いが、人の世では戦が終わって季節一巡りが十度ほど。折角保たれている関係に皹が入れば、今のように乙女に囁きかけて時を楽しむということも出来なくなってしまう。自由と放埓は違うのだ。

 人間の男にも、同属の異性にも興味は湧かないが、敵にすれば立場が危うくなってしまうのは理解できる。

 己の本能を満たすためにも。節度ある関係を築かなければならない。


「しばらくはここにいさせてもらうとする。反省の意も込めてな」

「時々あの双子ちゃんも遊びに来るから期待してると良い」

「興味はあるが、彼女ほどじゃないな。あの二人は幾ら囁きかけたところでこっちを見たりはしないさ」


 妖精にはない特別。殆ど鏡映しな姿の少女。その目と耳で、こらら側を見透かし理解する彼女たちは、共感者であり忌避すべき存在だ。

 だからこそ惹かれてしまうが、きっと振り回されるのはこちら側。妖精よりも余程らしさを身に纏う彼女たちとは、関わらないのが身のためだ。

 相反する二つの感情の上で(せめ)ぎ合うなんて、妖精らしくないだろう。


「が、楽しみにはしてる。退屈は何よりの天敵だからなっ」


 英雄的妖精と崇められても逃れられない(くさび)。言葉にして隣の彼を見やれば、一度瞬きをした後、興味をなくしたようにまた自然の中へと溶けていく。

 ここにいる間だけ、彼の話し相手になるのも悪くはない。

 そんなことを考えながら、(はね)を休めて空を仰ぐ。

 実りの世界は、今日も青々と天蓋を広げていた。




              *   *   *




 教室に戻るといくらかの視線が突き刺さる。が、直ぐに談笑の声に上書きされて掻き消えた。

 確かに先生に呼び出されるのは珍しいが、そんなに特別視することでもない。あたしは優等生だ。恥じることなど何一つない。

 自分の席に腰を下ろせば、向かいから突き刺さった遠慮のない視線。

 真っ直ぐなコバルトブルーの瞳は、冷めた中に確かな熱を感じさせる彼の色。とは言え今更顔も見られないほど照れる間柄でもないと、幼馴染の言葉に耳を傾ける。


「何の呼び出しだったんだ?」

「個人的なこと。ロベールには関係ないよ」

「そうか……」


 一応本当に無関係と言うわけではないのだが。これ以上彼を巻き込みたくないのはあたしの我が侭。

 例え原因の一端にあたしがいるのだとしても、それを理由に彼に迷惑をかけたくないのだ。

 それにきっと、彼だって……ロベールの方も、彼とは余り顔を合わせたくはないはずだ。だからこれでいい。


「それより話の続きだ。シルヴィが帰ってくるの待ってたんだぞ?」

「……ロベールが話すだけの思い出がなかっただけじゃないの?」

「んなわけあるかっ」


 いつも通りに戻った空気に安堵しつつ、そのまま元の話題に戻る。

 話は先週の職業体験学習のことだ。

 あたしとロベールはジルさんのお店で。ピスとケスは城内で使用人として働いた。その間にあった非日常的な出来事を語り尽くしているのだ。

 昨日はピスとケスの方の話を聞いた。使用人の仕事をしていても二人は二人だと言うのは変わらなかったが、あたしたちが知らない仕事や城内での様子を知ることができたのは楽しかった。

 ロベールは身を乗り出すほどに頷いたりで、時折鼻の下を伸ばしていることが気に食わなかった。……どうせ二人の使用人姿でも想像してたんでしょ? へんたいっ。

 ……仕着せ姿が似合うだろうと言うのはあたしも同意見だが、彼のそれとは意味が違う。あたしのそれは純粋にお洒落と言う意味での興味だ。

 白と黒の二色で織り成された服。簡素ながらどこか気品さえ感じさせる装いは、使用人としての振る舞いを一層際立てる。それを着ているだけで一目でそうと分かる象徴は、普通の服にはない特別性だ。

 使用人の仕事に興味がある、と言うわけではないが。経験として一度着てみたいと言う欲求は存在する。立派な正装ではあるが、お洒落だとも思うのだ。

 そんな服を人形のように整ったピスとケスが着るのだから、それは絵になることだろうと。

 ロベールとは別の感慨で想像を膨らませながら、隙あらば詐称しようとするロベールの話に訂正を打ち込んでいく。

 何でそんなに見栄っ張りなんだか……。男の子ならもっと堂々としていれば良いのに。その方が、格好良いのに……。

 不意に脳裏を過ぎったロベールの給仕服姿。ジルさんのお店で働くに当たって、彼が用意してくれたそれはお店の雰囲気に合った立派な制服だった。

 落ち着いた中に凛々しさを感じる佇まいは、普段のロベールと比べて数段男前に見えて……。最初にその姿を見たときは思わず息が詰まったほどだった。

 いつもはやんちゃをしていても、彼は立派な男の子なのだと。そしてそんな彼に惹かれているあたしにとっては、これ以上ない特別なのだと。

 慣れない服に精一杯釣り合おうと背筋を正すその姿に、理由など要らないときめきを覚えたのは、きっと間違いではないはず……。

 これが恋だと言うのならば、あたしは相当に参っているのだろう。全く……後一歩の勇気が持てない自分が恨めしい。

 それもこれも、ロベールが格好いい癖に鈍感なのが悪いのだっ。


「な、なんだよ……」

「別に」


 気付けば鋭くなっていた視線を逸らす。可愛くないのは重々承知。

 そんな自分が情けない。

 と、あたしの態度に何を勘違いしたのか、それまで自慢一辺倒だった彼の話題にあたしの名前が出る。


「そう言えばシルヴィ、あの服似合ってたよな」

「へ……?」

「なんていうか、普段と違って……女の子らしいと言うか」

「いつものあたしが変だって言いたいの?」

「そうじゃなくて! ただ単に可愛かったっていうか」

「……へぇぇ…………」


 あぁ、もうっ! にやけるなあたしっ! 堪えろ、堪えろ……!


「ああいうのも似合うんだなって初めて知った。幼馴染って言っても知らないことあるんだな」

「…………」

「シルヴィ?」

「お手洗いっ」


 逃げるように立ち上がって教室を出る。そのまましばらく廊下を歩けば、やがて足が止まって壁に(もた)れて座り込んだ。


「…………ロベールの馬鹿」


 顔が熱を持つのが自分でも分かる。

 あんなのいつものことなのに。他意はないのに。……それでも褒められると嬉しいと感じてしまうのは、惚れた弱みと言うやつなのだろうか。


「あたしの、馬鹿……」


 あの時ロベールのことも褒め返せればよかったのに。こういうところで詰めが甘いから何時まで経っても彼との距離が縮まらないのではないだろうか……。


「はぁぁ…………。何してるんだろ、あたし……」


 恋語らい関連のことだって、まだしっかり感謝も出来ていないのに。

 ……そうだ。そこもしっかりしなきゃ。幼馴染だからって甘えていいことじゃない。


「…………ふぅ。……よしっ」


 勢いをつけて立ち上がる。次いで出した足は、ここ数日で一番力が篭っていた気がした。




              *   *   *




 詳しいことは教えて貰えないまま。けれども話さないということはそれほど深刻なことでもないのだろうと。

 昼食時突然の呼び出しの理由を深く考えることもなく帰り道を歩く。

 隣には珍しく神妙な顔つきをした幼馴染の姿。特別心当たりもないのにシルヴィがこんな顔をしているときは、大抵録でもない個人的な悩み事をしていることが多い。

 一体何にそんな深く考え込んでいるのやら。幼馴染ながら時々理解しかねる隣の思考回路に、願わくば変に巻き込まれないことを願いつつ鞄を担ぎ直す。

 するとようやくぼくがいることに気が付いたかのように顔を上げたシルヴィと視線が交わった。


「ね、ロベール」

「なんだ?」

「この前のことなんだけど」

「この前……?」


 思い当たることがなくて聞き返せば、彼女がなんだか疲れたように目を(すが)めた。


「あたしが悪戯されたときのこと」

「あぁ、なんだ。その話か」

「その話って……」

「もう終わったことだろ?」


 妖精の悪戯。その範疇を少しだけ超えた彼との接触は、シルヴィの命さえ危ぶまれかねない問題に発展した。

 しかし偶然居合わせたお陰でシルヴィは無事に戻ってこられたし、だったら今更なにか言うべきことでもない過去。ぼくにとっては終わったことだ。

 が、どうやら隣の彼女にしてみればまだ引きずっている事らしく。相変わらず変なところで頑固だと思いながら、とりあえず聞く体勢に入る。


「……で? あの時のことが何だって?」

「その……助けて貰ったから…………」

「…………なぁシルヴィ、それ何回目だよ」


 続いた言葉に思わず鋭い声を返す。

 ともすれば命の危機だった一大事は、しかし喉元過ぎればと言うやつで。その後にあった職業体験学習で問題と言う問題があったわけでも、ましてや今になって何かしらの影響が出てきたわけでもない。

 だと言うのにこの幼馴染は無駄に根に持っているというか……納得しきれていない様子なのだ。

 一体何が不満なのか……。幼馴染だとか抜きに、目の前で助けを求められているなら手を伸ばすのが普通だろう。

 そしてそれを素直に受け入れるのもまた、正しさだろう。


「謝罪も感謝の言葉も聞き飽きたって。話さないのはピスとケスと一緒に昼ご飯を食べてるときくらいだろ? 過去ばっかり引きずってないでもう少し前を向いたらどうなんだ?」

「それは、分かってるけど……」


 不満を隠さない幼馴染に溜め息を吐く。こうなった彼女を説得できた試しはない。今はあの二人もいないし、いい機会だ。ここで清算してしまうとしよう。


「……じゃあもう全部吐き出せよ。聞くから」

「…………なんでロベールはそんなに無関心なの?」

「なんでって、そりゃあ当然のことしただけだからな」


 一体何が分からないと言うのか。その惑いこそが理解できない。


「目の前で困ってるやつを助けた。それだけだろ? 結果シルヴィが無事だったんだから、ぼくとしてはこれ以上何も言うことはない。……強いて挙げるなら、そうして何時までも後ろばっかり振り向かれてる方が気に(さわ)るって話だ」

「………………」


 シルヴィの話を聞くつもりだったのに。気付けば自分の話。

 言っていることとやっていることが違うと己を叱咤して、続きそうになった言葉をどうにか切り上げる。


「シルヴィがいなくならなくて良かった。それ以上に大切なことってあるか?」

「……そっか…………」


 納得、と言うよりは確認。それを無言で()ね回した彼女は、やがて小さく息を吐いて顔を上げた。


「……うん、分かった。もう言わない。だから最後に一つだけ言わせて。ありがと、ロベール」

「おうっ」


 ごめんと謝られるよりは余程心地のいい言葉。それこそがぼくが求めていた言葉なのだと遅ればせながらに気付けば、清々しい気持ちで勝手に結ばれた重い鎖を引きちぎる。


「じゃあお祝いして?」

「は? 祝い? 何で」

「無事だったことと、職業体験学習の打ち上げっ。あたしが奢るから!」

「それならピスとケスも呼ばないとな」

「………………」

「シルヴィ?」

「なんでもない。馬鹿っ」

「え? はぁ? 何だよそれっ」

「知らない! ロベールの鈍感っ!」


 全く()って意味の分からない文法でいきなり気分を傾がせたことに戸惑いが湧き上がる。

 大体、それが命を助けた者にする態度かよ!


「おい、シルヴィ! 待てって!」

「うるさいっ」

「シルヴィ!」


 何故か本気で怒った幼馴染が、尻尾のようなアプリコットの二つ括りを揺らして早足で先を歩き始める。

 その後ろ姿にぼくのよく知るシルヴィ・クラズが戻ってきたことを実感しながら、今度はこちらが納得を見つけられないまま背中を追い駆けたのだった。




              *   *   *




 書類を数枚。机の上に並べられたそれに視線を落として唸る。

 内容は調査報告書。タルフ岩礁の水竜問題以降、見て見ぬ振りのできないほどに大きくなった惑い者の問題。

 今回のそれは、前と同様ブランデンブルクとの国境付近で目撃された異形の証言だ。

 スアロキン峡谷(きょうこく)と言う、世界に穿たれた溝。天然の要害足りえる大自然が生み出した裂け目。

 その隔たりを利用した繋がりは、我が国と隣国……第二次妖精大戦以降それほど大きな衝突もなく比較的穏やかな関係を築けているブランデンブルク王国との国境線だ。

 谷底を流れる川は涼やかな清流で。自然豊かな環境に妖精も自然動物も数多確認されている、今では観光名所の一つとも言うべきフェルクレールトの大地の大きな目印。

 そんな峡谷は、しかし未だ燻る国家間の確執の最前線。幾ら良好な関係を紡いでいる二国とは言え、その言葉一つで語り尽くせるほど国と言う母体は一筋縄ではない。

 ……いや、仲が良いからこそ起きる問題と言うものもあるわけで。きっと絶える事などない、資源の密輸など見過ごせない問題の抑止と取締りのために、騎士たちが常駐して日々の警邏に当たっているのだ。

 世界の最前線の一つ。そこで働く彼らのこの頃の業務はと言えば、これまでの仕事に加えて惑い者に関する監視や調査が主立っている。

 世界の境界線。それは人が定めた勝手な縄張りではあるが、同時に世界を隔てる立派な結界の壁と見方を変えることもできる。

 妖精と共にあるこの世界で、結界と言うのは特別な意味を持つ。それは現世と異界を隔離するというもので、有体に言えば異世界への扉なのだ。

 人の世で考えれば文化の違いと言う、世界の理さえ孕んだ境界。しかもそこが自然に溢れる大地の象徴と言うのであれば、中々に無視のできない話で。

 実際問題、あの辺りではよく妖精に纏わる問題や騒動が起こりがちで。国を跨ぐ移動を行う際には十分に注意されたしというお触れも出るくらいだ。

 逆に言えば、あの辺りに行けば苦なく隣人たちと接触できるということではあるのだが。

 その接触が、ここ最近無視できない頻度で、しかも高確率で人の側に影響が出ているとなれば頭を悩ませるのは必至だろう。

 それに、境界の近くと言うのはやはり色々揺らぎやすい。異なる世界が交わる場所なのだ。色を混ぜたら分離できないほどに溶け合ってしまうのと同じように。互いに作用して生み出される空間は、良くないものも稀に招き寄せる。

 一般的に悪霊や災禍と呼ばれる、人の手の届かない現象。今では1500年以上続く人類史が、それでも尚無視できない天災の(たぐい)

 そう言った得体の知れない存在は、過去には妖精と同一視されたりと(わだかま)りを生んだりもしたのだが。今では人知の及ばない現象として認知され、それらを退ける為にハロウィンなどの儀式が催すことで跳ね除けようとしているのだ。

 理不尽の権化のようなそれらは、この大地に(あまね)く降り注ぐ。その影響下には、人間だけでなく妖精だって無関係ではいられない。

 特に異界なんて概念は、妖精の世界とも考えることが出来るわけで……。事は既に人の世界だけの問題ではないとわたしは考えているのだ。

 事実スアロキン峡谷周辺では、他の地域よりも多く妖精に関する問題が起きている。この数字と言う情報は、想像でしか語れない個人の感慨より余程雄弁に世界を現しているのだ。

 そんな、世界の境界線たる国境の周りで。今回目撃された情報は、これまでに類を見ないほど大規模なものだった。

 簡単に言えば、巨人の存在。

 森の木々よりも大きな体に、まるで空を支える柱のように巨大な腕。人も、動物も、妖精でさえも及ばない異形の巨躯は、よく物語の幻想でも打倒すべき暴君の象徴として描かれる存在だ。

 実際に個のフェルクレールトの世界には巨人と言う種族は存在しない。もしいたとすれば、大地を拓いて栄えてきた人類がその巨体を見逃すわけはないのだ。

 妖精の話にだって戯れ程度にしか挙がらないような、伝説上の概念。

 それこそ、悪霊のように不確かな存在として畏怖される怪物が、今回複数の目によって確認されているのだ。

 最初は国境付近の村で。通商路としてそれなりに人の出入りの多いそこから程近い場所にて。村の住人が森に野草や果物を採りに分け入ったところで出た目撃情報。

 それから日を改めて続々と挙がり始めた証言は、多角度から急速に情報を増やし、最早無視できない事実としての地位を築いてしまったのだ。

 人間だとか妖精だとか関係なく。未知の存在の出現はそれだけで世界を揺るがす。かの存在がどこからやってきて、一体何の目的で姿を現し、どういった影響を及ぼすのか……。そんな危惧を捨て置けるほど、胸を張れる平穏は世界のどこにも存在していない。

 つい先日にはブランデンブルクからも調査隊が派遣され事の詳細把握に努めるような動きもあった。国境警備隊の話では遠くにドラゴンの影を見たと言う報告もあるが、個人的には実際に存在するドラゴン程度では、これまで実在しなかった巨人の存在に比べて瑣事。損害が出ているわけでもないから、最低限ブランデンブルク側に照会をしてみる程度だ。

 さて、話はそうして巨人のことに戻るのだが。今回手元に上がってきた調査報告書には、これからより詳細な調査を行う必要がある旨が進言されている。

 わたし個人もそう思うのだが……問題が一つ。

 ここ最近何かと外に出ることの多い身。しかも目下の研究内容が惑い者であり、問題が起きているのはスアロキン峡谷周辺と言う条件。ここまで話が纏まると幾ら研究に身を捧げる日陰者のわたしでも危惧する懸念はあるわけで。

 報告書の下に重ねられた、少し分厚い一枚の書類を指先で確認して溜め息を吐く。

 半ば諦めつつ、一縷(いちる)の望みに賭けて書類の影からそれを引っ張り出す。するとそこには──想像以上に重荷となりそうな文言が綴られていたのだった。




 そこに記されていた名前に、改めて報告書の内容を精査すれば、一応納得のようなものを導き出せた。

 巨人の発見報告に際して、多量の妖精力の発露を観測したらしい。

 巨人そのものが妖精と言う想像は少し飛躍しているが、そこに何がしかの形で妖精が関わっていると。どうやらそれが共通見解らしい。

 妖精が関わっていると言うのであれば、当然その方面での調査も平行せねばならず。しかも今は惑い者と言う不確定要素も無視できない現状。想定外の可能性と、スアロキン峡谷周辺の妖精の様子の調査も兼ねて、現場に出ろと言う指示がわたしのところまで回ってきたらしいのだ。

 ……まぁそこまでならまだ理解できる。一応わたしが管轄できる範疇だ。

 唯一つ、看過出来ない問題が。それが臨場指令に併記された同行者の名前だ。

 ピス・アルレシャとケス・アルレシャ。この春から何かと縁のある、ここカリーナ共和国の不思議な双葉。彼女達の同行が明記されているのだ。

 理由も、理解は出来る。巨人の出現に妖精が絡んでいるのだとすれば、あの二人の感覚が一石を投じるかもしれない。その為に力を借りると言うのは心理を探求する者として心強い話だ。

 だが、事はきっとそう単純な話ではなくて。文字にはされていない真意が、知らずに居た方が幸せだろう現実を突きつける。

 お守りをしろと。簡単に言えばそういうことだ。書類の隅の赤い印がそれを物語っている。

 国が発行する公文書としての意味合いを持つ判子。それを、過去こんなに恨めしく思ったことはないだろう。

 どうしてわたしなのか……。そう声を荒げたいが、きっと決断は覆りはしない。カドゥの相手だとかで少し特別な立場のわたしだが、たったそれだけのしがない研究員だ。

 妖精に纏わる上申ならば聞き入れてもらえるかもしれないが、これは(なだ)(すか)されるだけだろう。

 ……ならばせめて、少しでも有意義になるように努力するだけだ。

 子供の世話を押し付けられるのは癪だが、あの二人が特別なのは確か。人の身でありながら余程妖精らしい自由奔放な言動は、はらはらすると同時に見ていて楽しいものでもあるのだ。

 普通の子供にはない特別。わたしにはない感性を垣間見ることができるのは、興味が疼くという言葉では表しきれない衝動を胸の内に灯してしまう。

 特にわたしはハーフィーだから。一応人の世界にいるが、妖精としての姿も持っていて。その価値観は人に対する興味の表れでもあるのだ。

 だからあの二人に必要以上の興味が湧くときも当然ある。今回はその部分をうまく活用して、ことを楽しむくらいの気概で望むとしよう。そうすればきっと、少しくらい気も紛れる事だろうから。

 ……現実逃避と言わないで欲しい。


「しかし、巨人ねぇ…………」


 妖精と巨人。幾つか思いつかない訳ではないが、真実は変わらず一つだけ。想像ばかりで語っていては何も進みはしない。

 だからこの空想からたった一つの答えを見つける為に、出来る準備は出来る限りしておくとしよう。




              *   *   *




「と言うことだ。二人には迷惑をかけてすまないが、手を貸してはくれないだろうか?」

「うん」

「いいよ」


 分かりやすい二つ返事。その瞳には好奇心が揺れている気がしながら、けれどもただそれだけで頷いたのではないということも理解する。

 目の前で鏡映しに頷く双子。我輩の孫であるピスとケスは、妖精に愛され、妖精を愛している。

 ともすれば人と接するよりも密に言葉以上のものを交わしているかもしれないとさえ思うほどに、人の世界よりずれている。

 そんな彼女たちが、今世界で散発的に起きている変調……惑い者と呼んでいる者たちが起こす不和に憂いと懸念を抱いているのは事実だ。

 まだはんぶんを持たない二人が、だからこそ将来を預ける誰かを探す為に。そしてなにより、妖精と共に歩む世界で彼女たちと一緒に未来を目指す為に。許容できない異質に敏感になっているのだ。

 妖精憑きでありながらここまで隣人と心を通わせる彼女たち。二人が学園を卒業する頃には、一体どんな妖精従き(フィニアン)になっているのか……。それが今から楽しみで仕方がないほどだ。


「調査にヴァネッサ・アルカルロプス女史も同行する。彼女を困らせないように協力してくれ」


 彼女にはカドゥケウスのことを任せている。それくらいに信頼の置ける研究者であり、何より彼女自身がハーフィーだ。

 人にはない知見を持つ彼女ならば今回の問題にも何かしらの光明を(もたら)してくれるかも知れない。

 それにこの春からピスとケスの二人も彼女と接触する機会が多かった。未だ名前を覚えるには至っていないようだが、その他の者と比べると個としての興味はある様子。少なくとも反りが合わないというわけではなさそうだ。

 気になっているのは、やはり彼女がハーフィーだからなのかもしれない。


「今回の調査には危険が伴う。しかし看過出来ないのも事実だ。くれぐれも気をつけてくれ」

「お爺様」

「心配性」


 真っ直ぐに指摘されて思わず唸る。

 …………だって仕方ないだろう。彼女たちに頼るしかないのに、それで危険に曝してしまうかもしれないなんて……。もっと別の方法も考えてみたが、今回に至っては確実性も重視される調査なのだ。

 これ以上惑い者の問題拡大を防ぐ為にもいつかは踏み越えなければいけない一線。それをブランデンブルクと合同でやる、最も安全が確保できる機会にと言うのは、出来るだけ彼女たちから負担と危険を遠ざける為の配慮だ。

 彼女たちに頼らざるを得ないと言う前提からしておかしい話だが、それ以外にいい方法がないのだから仕方ない。苦肉の決断だったのだ。


「……ならば最後に一つだけ。今回はブランデンブルクとの合同調査だ。良好な関係が築けているとはいえ、国境近辺での問題だ。何が起こっても不思議ではない。二人にするべき話ではないのは承知しているが、先方とも仲良くしてくれると助かる」

「うん」

「大丈夫」


 返ったのは信頼のその先の確信のような響き。

 一体彼女たちには何が見え、聞こえているのか……。

 だが、その感覚がこれまで間違っていたことはない。今はただ己の決断と愛しい孫を信じることとしよう。


「ならもう小言はよそう。……さて、手を貸してもらうのだ。何か礼をしなければな。今がいいか、それとも後がいいか……」

「後」

「考えておく」

「そうか。だったらまずは無事に帰って来い。期待しているぞ」


 これ以上言葉を並べても仕方がない。

 これから大人と同じ……ともすれば大人以上の仕事に望もうとする二人に子ども扱いはするべきではないのだ。だからここからは対等として背負って貰う。

 二人ならば出来ると、信頼して。


「うん」

「頑張る」


 頷く彼女たちにせめてもの支えになればと。膝を折り、小さな体を腕に抱いて優しく頭を撫でる。

 ……迷うな。世界の為に────未来を描く若葉のために。今為すべき事を成せ。

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