第三章
「つっかれたぁ……」
「夏に怠け過ぎただけでしょ」
「うっさいなぁ…………」
店内に響く声に小さく笑みを零し、冷えた果実飲料を差し出す。
「今日が始業式だったんだっけ?」
「あ、ありがとうございます」
「ありがたーい学園長の講釈とかな」
不平不満に塗れた声。それだけ学園生活を謳歌している証拠かと少しだけ羨ましくなる。
こうして遊べるのも学生の間だけ。それを知らないままに浸る彼らの未来はまだまだこれから。同じ道を辿った先達として、こうして優しく見守っていけるのが少し嬉しくも感じる。
「何か食べるかい?」
「冷たいものー」
「何かありますか?」
「ソーベイでも出そうか」
「やりぃっ!」
子供らしく現金な声に笑って用意を始める。その間、他愛なく続く会話に耳を傾けながら窓の外を眺めて思う。
もう秋も近いというのに。例年通りここではまだまだ暑い日が続きそうだ。
新しい年が始まって九つ目の月。グリストの名を冠したその二日目。今日から再び始まる学徒の義務は、始業式と課題の提出などの恒例行事を経て昼前に解散になったようだ。
そんな学び舎から一度帰宅し、涼を求めて彼らがやってきたのは僕が経営するお店、『胡蝶の縁側』だ。
平日の昼過ぎと言うこともあってほかの客はおらず、貸し切り状態の店内で。椅子や机に体を預け休息に耽る姿が四つ。
一人は先ほどから悪態の行進曲を奏でている少年。四人の中で唯一の男の子である、アリオン家の子息、ロベール・アリオン。彼とは彼の幼馴染である少女を通じて幼い頃からの付き合いで、気心の知れた仲。その縁で、今日はこうして外の日差しから逃げるように遊び来たと言うわけだ。
そのロベールの幼馴染。僕にとっても古い付き合いの少女が、アリオン家に並ぶ名家、クラズ家の息女、シルヴィ・クラズ。愚痴しか零さない古馴染みに最早反応さえそっけなくいつもの調子で応対する彼女。けれども彼女の内側には名家に生まれ育った誇りがあるらしく、先ほども礼儀正しい返答で答えてくれた。
僕にとっては馴染みの深い二人。今年の春から学び舎、テトラフィラ学園に通う彼らには、入学して出来た不思議な友人が二人いる。
それが隣同士に座り人形のように身動ぎをしない鏡写しの少女。この国の大統領の孫、ピス・アルレシャとケス・アルレシャだ。する事為す事が常人の感覚からずれた、妖精のような存在で。今もまた微かに店内に篭る熱気を気にも留めず涼しい顔でちょこんと腰を下ろしている。
「課題」
「大丈夫だった?」
「あぁ。二人にも色々手伝ってもらったしな。ありがとう」
「ううん」
「楽しかった」
「やっぱり二人は誰かと一緒に勉強したのは初めて?」
言動さえ寸分違わぬ彼女達は、互いが互いを補完するように成り立つ。接客業を生業とし、人と話すことがそれなりに好きな僕だが、彼女達とは未だ距離を感じる付き合いだ。
呼吸の調子さえも同じ彼女達の言葉にシルヴィが尋ねる。するとこれまた示し合わせたように、ピスとケスが合わせてこくりと頷いた。
「それじゃあ今年の夏は初めてのことばかりだったな」
「殆どロベールが勝手に言い出して連れ回されただけなんだけど……」
「けど楽しかっただろ」
「……まぁ、それは」
「誕生日も全員で祝えたしな」
飾らないロベールの言葉にシルヴィが視線を逸らす。その、見えた横顔が微かに頬を染めている事に気がついて微笑ましい事だと思う。
彼女が物心付く前から知っているのだ。当然、彼女がその胸に長く抱く想いにも気付いている。
未だ勇気は出ないのか、学園に入学と言う珍しい契機が訪れても、直ぐ隣の異性に重ねる懸想の衝動を告げるには至っていないようだ。この夏に誕生日を迎えたシルヴィは15歳。名家の令嬢として以前に、一人の少女としてそろそろ色を知ってもおかしくない年頃だが……この様子だとまだまだ時間は掛かりそうか。
クラズ家の跡取りであるシルヴィは、将来的に家名を背負って結婚する事になるだろう。他人事に、外から見て一番その相手として候補に挙がるのはその想いを寄せる当人かもしれないが、何事に対しても絶対は無い。
様々な状勢が絡んで、政略結婚と言う事も十分に存在する。特にカリーナでは、結婚可能な年齢が男女共に20歳からと言うこともあって、それまでに未来を見据えた婚約と言うのは珍しい話では無い。
その為、シルヴィもあまり手を拱いているわけにはいかないはずだ。が、きっとそれは彼女も分かっている事。それに、今だからこそ言い出し辛いと言うのもよく分かる。
シルヴィが恋慕する相手。それが隣の座るロベールだが、その彼はどうやら向かいに座る二人の少女に淡い感情を抱いているようなのだ。
明確にそうだと口したところを聞いたところがないから断言こそ出来ない。しかし昼の喫茶店に夜の大人の社交場と。様々な人が訪れては時を過ごす場で色々な関係を見てきた経験から、それほど的外れでは無いと思う。
相手はこの国の一番偉い家柄のお孫さん。家柄にも見えない壁があるように、どこかの物語のように興味を引く関係だ。加えてどうやら、彼が想いを寄せる相手がその二人共と言うなんとも言葉に言い表せない事実。それを悩める少年の性と言うならば、これ以上無く面白い所だ。
実際のところ彼がどう思っているのかは知らないが。隣にいるシルヴィの様子や彼女の立場を考えると今後目が離せない関係性なのは間違い無い。
……なんて、よく知る二人の行く末に野次馬根性を燃やしながら。夏の海のように青い日々を送る未来豊かな成長途中達にご要望の食べ物を提供する。
「はいよ、ホウリのソーベイ」
「ありがとうございます」
「ホウリってアナナスの実?」
「よく知ってるな」
ロベールの疑問に驚きつつ答える。まだそんなに有名では無いと思っていたのだが、そこは名家のお坊ちゃま。耳聡いらしい。
「衣服の繊維に使われるのはアナナスの葉。これはその品質向上の交配過程で偶然生まれた代物でな。まだあまり出回ってない貴重品だ。手に入ったから皆の意見も聞きたいと思ってな」
「毒見かよ」
特にカリーナのような温暖な気候でよく育つアナナスと言う植物。昔からその葉の繊維で衣服をよく作っていたのだが、大戦終結後から豊かな物を求めるようになっていった世界の変遷の中で、より良い物をと幾つもの研究がなされた。
これはその一つで。ロベールに語って聞かせたように元は上質な繊維を作ろうと品種の交配を重ねた中で、偶然可食の実を付けたもの。現在注目され繊維と同時進行で栽培が進んでいる新たな果物だ。
人の頭程の楕円の実は、魚の鱗のように刺々しい外皮に覆われており、中は黄色。まだまだ品種改良の途中で味に関してはこれからだが、とりあえず物として出せる程度には改良も進んでいる。それがしばらく前に手に入ったのだ。
「食べて問題ないのは僕も確認してるから。忌憚ない意見を聞かせてくれ」
「ま、珍しいのは確かだしな」
「いただきます」
一口大に切ったホウリ。それを冷やして氷菓子にしたソーベイ。素材を知る為に味をつけていないため少しだけ緊張する。口に合わなかったらどうしようか。
「ん」
「酸っぱい」
「やっぱそうかぁ」
「けどちょっと甘いですよ?」
「食感は楽しいな」
「それはソーベイだからな。因みにこっちが凍らせる前だ」
固い芯を抜いて環になった黄色い実。何かの部品のようにさえ思えるそれに、四人の食指が伸びる。
「やっぱり酸っぱい」
「でも甘い」
「酸っぱい部分は今後の品種改良に期待だな」
飾らないピスとケスの意見に同意する。僕も食べたが、やはり酸味が強い。そのままでは少し扱いに困るほどだ。
しかし似たような果物を他に知っている。
「シルヴィ、これあれに似てないか? 黄色くて丸くて小さい……」
「クェン?」
「それっ」
クェン。それは彼らも経験のある味だ。
「あれ、どこで食べたんだっけ……」
「お爺様の誕生祭」
「王様の焼き菓子」
「だねっ」
王様の焼き菓子。春先の、大統領陛下の誕生日を祝う宴の時に露店で僕が提供していた食べ物だ。あれの生地には、そのままでは酸っぱくて食べられないクェンと言う柑橘系の果汁を混ぜ込んであった。今回のホウリの酸味は、あれとよく似ているのだ。
「あれとはまた違うけどな。やっぱり似たように感じるか?」
「あぁ。もっと甘ければそのままでも美味しいかもな」
「ふぅむ……」
となるとやはりこれはそのまま食べるというよりも……。
「クェンと同じなら」
「飲み物」
「お、そう思うか?」
ピスとケスの言葉に同意を得られた気がして嬉しくなる。
クェンもそうだが、あの酸味はそのままでは口に合わない。香り付けや、果汁を飲み物にするのが定番だ。
「僕も考えてはいたんだがな……。もし作ったら飲んでくれるか? もちろん今度は味もちゃんと調える」
「甘くしてくれるなら」
「よし。なら少し待っててくれ!」
ロベールの声に頷くシルヴィ。それを見て直ぐに材料を揃え制作に取り掛かる。
彼らに味見を頼んだ理由は二つ。一つは飾らない意見が欲しかったからだ。彼らなら気兼ねなく素直な感想を教えてくれる。
もう一つは、子供の舌だ。味覚は大人と子供で異なると言う。特に子供の舌は体に対する毒……刺激の強い味に敏感だ。だから子供の頃から毒や酒の知識は教育される。それを応用すれば、子供の舌にも合う物が作れると思ったのだ。
子供が口にしても大丈夫な物は大人も美味しく楽しめるからな。
そう考えて、実は既にある程度は用意はしていた材料を順に混ぜていく。
絞ったホウリの果汁に水とシロップを加え、風味付けに香りのいい葉を一枚浮かべる。簡単だがこれで完成だ。
「それじゃあ再度感想を聞かせてくれっ!」
外の暑さに負けないようにと痛いくらいに冷えたホウリの果実飲料。まだ夏の残暑が厳しいこの時期ならば喜ばれる一杯のはずだ。
手にとって一口。すると喉の奥へ流しこむのと同時、ロベールの顔が勢いよくこちらを向いた。
「んっ! これ美味しいなっ!」
「そうかっ。それはよかった!」
素直な感想に、ならばと脳裏に揺らめかせていたもう一つの形が現実味を帯びる。
彼らにはこういった形でしか提供できないが、ここ『胡蝶の縁側』は夜にもう一つの顔を持っている。クェンと同じ柑橘、しかし異なる風味として、新しいお酒にも合うはずだ。早速今夜から試してみるつもりだが、経験則から何となくは見えている。まず間違いなく商品の一つとして顔を並べる事だろう。
と、夜の顔の事を考えた刹那、同時の過ぎった一人の女性の顔。偶然から出会って、あれからよく顔を見せてくれる学び舎の教師をしていると言う彼女。その名前に、そういえばどこかで覚えがあったと記憶が疼く。
「ジルさん、これもう少し用意してもらえますか?」
「ん。あぁ、構わないが、そんなに気に入ったのか?」
「そうですね。宿題のお供にも丁度いいので」
「うへぇ……。嫌な事思い出させんなよなぁ」
「涼しいところでやりたいって言ったのはロベールでしょ。休憩できたよね? なら早く終わらせよ」
「へいへいっ」
どうやら学園で出た課題があるらしい。学徒らしくて素晴らしい事だ。
「奥の部屋使うかい?」
「いえ、ここでいいです」
「ん。それじゃあ頑張ってくれ」
既に空になったグラスを一度下げ、同じ物を作って出す。その頃には四人とも課題を広げて黙々と取り組んでいた。
邪魔にならない程度に、と思いながら後ろから手元を覗き込む。するとそこには数式ではなく文字が綴られてあった。一番上に大きく書かれた文字に目が引かれ、思わず声に出す。
「職業体験……?」
「あ、はい。今度授業で職業体験をするんです。気になる職業を事前に調べて、実際に働いてそれを発表するんです」
「なるほどねぇ」
「面倒な授業だよな。ぼく達にとって殆ど関係ないのに」
彼らは名家の子息令嬢。将来的には家を背負う立場の子だ。確かに直接的には影響は無いのかもしれない。しかし……。
「これだからお子ちゃまは」
「……んだよ。言いたいことがあるなら言えよ」
「見識が狭いって言ってるの。……例えばここだってお店なんだから。ジルさんと提携してこのホウリの飲み物を独占販売するとかあるでしょ?」
シルヴィが随分と大人びた事を言う。まだ15歳……そう思っていたのだが、彼女は既に立派な淑女。大人の世界に通用しうる物をしっかりと持っている。そう言う自覚があるのだ。
「知らないよりは知ってる方がいい事は沢山ある。直接は関係なくても、後々何かの役に立つかもしれない。あたし達だって大人になるんだから。今から準備をしておいて損は無いでしょ?」
商才とはまた別だろう。しかし今のこの瞬間にホウリの事に注目しているのは先見の明があるかもしれない。もし今後市場に出回るようになった時、彼女の思いつきはきっと大きな物を生み出す。
だからこそ、冗談半分……けれども本気半分で少しだけ首を突っ込む。
「もし人気が出たら手を貸してくれるのかい?」
「ジルさんにはお世話になってますから。それに、その時はもっと美味しい物も食べられそうですしっ」
試すように微笑んでシルヴィが答える。
可愛いお願いだ。けれども強かで、どこか芯を感じさせる音。彼女なら、もしかすると────
何にせよ、将来が楽しみなのは間違い無い。
「独占したところで恨みややっかみの方が高くつくだけだろ?」
「そう思うならロベールは手を出さなくていいよ」
「言ってろよ。僕の方がずっと上手くやる!」
売り言葉に買い言葉。けれども声に喧嘩の色は見えない。
指摘されてからではあるが、ロベールにはロベールなりの何かが見えたのだろう。あぁ、全く。この二人は飽きないし、こうして傍から見ているだけでも楽しみでならないね。
そんな事を考えながら小さく笑みを浮かべたところで、二人の視線がこちらを向いた。
「と言うわけでジルさん」
「ぼく達ここで職業体験したいっ」
「僕は別に構わないが、申請とか必要ないのか?」
「それは後からだけど、きっと大丈夫だっ」
「先生この店の事知ってるから」
思わず胸が跳ねる。だからこそ、問わずにはいられなかった。
「……へぇ。どんな先生なんだ?」
「良い先生だな。リゼット・ヌンキって言ってな。眼鏡を掛けた女の人」
「ここに良く通ってるって言ってましたから、ジルさんも知ってると思いますよ?」
「そう、か……」
リゼット・ヌンキ。その名前、リゼットと言う響きには聞き覚え以上の物がある。そしてそれが、先ほど記憶を掠めた顔の輪郭を鮮明にする。
もしかしたらの想像をしていた。けれどその想像が本当に当たるとは思わなかった。
カリーナは学都だ。だから学びは沢山ある。当然教師だってその数だけいて、けれどもどこかでそうであればいいと、理想を描いていた。
それがよもや、想像し得る中で最も近いところにいただなんて。少しだけ胸が躍る。
「だったら、先生によろしく言っておいてくれないか。今度来てくれる時までに新しいお酒を用意しておくからって」
「分かりました」
流石にそれ以上は言わないけれども。彼らに迷惑が掛からない範囲で、僕は僕の為に、少し頑張ってみるとしようかな。
* * *
メイボン。それは夏のルーナサに続く第二の収穫祭のことだ。
実りを齎す季節の到来を知らせ、早い収穫が始まるルーナサ。そこから約一月半ほど経った、グリストの半ばに催される祭祀。特に農作物の収穫で最盛期を迎える事から、ルーナサよりもこちらの方が大々的に自然の恵みに感謝をする事になる。主に果実などの収穫と時期が重なるのだ。因みにルーナサは穀物等が多い。
そんなお祭りが、今年も開催される。世界各地で行われる収穫祭。形や名前は少し違えど、大地の豊穣に感謝を捧げる宴は、特にここカリーナでは一際盛り上がる。
暖かい気候。広がる海原。それらから得られる自然の恵みは一年を通して最も多く、温暖な気候のカリーナでは様々な収穫物が四大国一を誇る。だからこそ、ここから世界に広がっていく冬への供えに向けて、今年もまた例年通りに世界を感謝で埋め尽くすのだ。
「今年も豊作みたいだな」
「だね。……頑張らないと…………」
呟いて、覚悟を固める。
実りの秋。夏の暑さも和らいで過ごし易くなるこの季節、生物としての本能なのかこれから訪れる冬に向けて貯蓄を始める。
それが冬を越すためだというのは当然分かっているのだが、世界や国と言う大きな単位に限らず個人的な欲求も疼き始める。
……言ってしまえば、実り多きこの季節は様々な誘惑が溢れかえっているのだ。
飽食は富の象徴の一つ。それ自体は悪い事ではない。豊かで楽しい事は良い事だ。問題は……あたし個人の事。
夏は頑張った。女の子として、譲れない物を守る為に。努力を欠かさなかった。お陰で水際でもいつも通りでいられた。
今年は特別、肌を大きく晒す水着を着る決意もあったから。ごまかしの利かない言い訳をしないためにも、いつも以上に頑張ったのだ。
その延長線上とも言うべき秋の豊かさ。この魅力は、抗っても尚抗い難さで押し寄せてくる。
けれどもやっぱり……太りたくは無いのだ。やっぱり女の子の秘匿事項は何より自分との勝負で。だらしないあたしを周りに……彼に見せたくないから。
これは、あたしの意地だ。隣を暢気に歩く幼馴染の横顔を見て思う。
「ロベールは?」
「何が?」
「メイボン、どうするの?」
「学園があるだろ?」
「その後だよっ」
今年からあたし達はフェルクレールトでも五指に入る名門、テトラフィラ学園に通う学徒だ。当然、籍を置く身として精進すべき物はある。夏の長期休暇も終え、再びの学校生活が始まって既に二週間ほど。学園での生活にも慣れて少し気の抜けがちな感じもするが、やるべき事はちゃんとしているからいいとして。
そんな、変わらない勉学の日々に重なるようにメイボンがある。
収穫祭として国を挙げて盛り上がる一日。とは言え学園の授業は恙無く行われる。春先の陛下の誕生日の特別警邏授業のような時間が組まれている訳でも無く。あたし達が参加できるのは学園が終わってからの僅かな時間だけだ。
去年までは一日中遊んでいても……いや、怒られはしたけれども、それでも良かったのだが。今年からは当分あんな贅沢な時間の使い方は出来ないということだ。休日と重なれば別だが、そうでないのなら仕方ない。
だからこそ、思うのだ。折角の少ない時間。できることなら彼と……ロベールと一緒に過ごしたいと。
もちろん何かあるなんて期待はしていない。ロベールにそんなのを求めた所で肩透かしを食らうのが落ちだともう分かっているから。
しかし一緒にいられるならその方が嬉しいし、きっと楽しい。そう思うから、できれば今年も一緒に行動したいのだ。
けれども不安要素が一つ。彼はどうやら、これまでにないくらいに本気で不誠実な想いを抱いている。
物語ほどに極端では無いが、身分違いの恋と言うやつだ。女の子としては、少しだけ憧れる。憧れるだけで、現実にそうなると……しかも傍から見ている立場からすると、もやもやどきどきして仕方がない。
お相手はこの国の主である大統領陛下のお孫さん。それだけでも十分に恐れ知らずだと言うのに、加えてその子達は双子だ。鏡写しの瓜二つ。殆ど違いなどない、このカリーナの双玉。ピス・アルレシャとケス・アルレシャ。
まぁあたしが見てもお人形みたいで可愛いとは思うけれども。だからって二人同時に区別なく想いを抱くなんていう不埒な感情を肯定は出来ない。
あたしは幼馴染として、誰よりもロベールの事を知っていて……好きなのに。一度だってこっちを見ずに他の女の子にばかり鼻の下を伸ばしている彼に苛立ちと呆れが募る。
そして今現在、その片想いは絶賛継続中で。意中のお相手は彼の気持ちを縛り付けたままだ。……二人が悪いなんて思ってない。いけないのは、不誠実で鈍感な隣の馬鹿だ。
「今のところ特に無いけど……。ま、いつも通りだろ」
「そう」
いつもクラスターで行動しているわけではない。あたしにだって友達付き合いはあるし、それは彼も同様だ。けれどもどこかで安心もしているのだ。
あたしには彼が居る。彼にはあたしが居る。幼馴染として、心の奥底でそう言う気持ちがあるのだ。
困った時には頼ればいい。最悪、いつも通りでどうにかなる。
一人になりたくないわけではない。ただ、一緒であれば楽しいから。彼なら……あたしならそれを僅かでも満たせるから。そう言う感情だ。
だから余裕と言うか、あたしにとってはあわよくばがあるのだ。
多分、きっと……先に誰かに誘われてても、あたしはロベールが一緒に居てくれると言うのならば、そっちを取る。それくらいの面持ちで他の友人と接している。
もちろんそれが許される相手にしかそうしていない。……まぁ大抵は、あたしのだだ漏れな想いを理解してくれている心優しい友人だ。あたしはとても、友達に恵まれている。
実を言うと今日もその子達に誘われていたのだけれども。ロベールが声を掛けてきたところを見た彼女達は、いつもの笑顔で見送ってくれた。
その代わりと言っては何だが、彼女達はあたしの現状を楽しんでいる節があって。年頃の女の子らしくそういう話を求められている。明日も学園に行けばいい玩具にされるのだろう。
まぁ愚痴の捌け口として惚気ている部分もあたしにはあるから、そこは両成敗だ。皆が納得して楽しいのだから、それでいい。
「けどあれだよな。楽しいのはいいけどお祭りって多いよな?」
「さぁね。他を知らないからあたしには分からないけれど」
ロベールの声に一年をざっと巡ってみる。年が明け、二つ目の月であるフェードの頭にインボルクが。そこから約一月と半分刻みで順に、オースタラ、ベルティネ、リサ、ルーナサ、メイボン、サウィン、ユールで一年が巡る。
サウィンの前日にハロウィンがあり、今の時世だとオースタラとベルティネの間に陛下の誕生祭がある。これだけで考えても一年で十個の祭日。確かに、一年が十二ヶ月だから多い方かも知れない。
加えて建国祭等の祭祀を含めればもっと沢山ある。
「……別にいいんじゃない? お祭りは楽しいし」
「だな」
盛り上がれると言う事は、それだけ世界が平穏で豊かだと言う事だ。
現在のお祭りは、元は儀式だったと聞いたことがある。それは妖精と出会う前……それから妖精と友好な関係を築くまで。不安定だった世界は心の拠り所を求めて幾つもの慣例を作った。それをこなしていれば厄災に見舞われない。そんな風に意味を持たせて豊穣を祈願し、厄除けを行い生活をしていた。
それがいつからか妖精という存在と交わって別な意味を持った。それまであった考え方と上手く擦り合わせて新しい道理を作り出し、儀式としての意味が少しだけ変わった。主に妖精という種に重きを置くようになったのだ。
それから年月を経て今に至る。その間にも時間は過ぎて。昔のままの意味合いで行われている祭祀は少ない。それくらいに妖精との関係は安定していて、世界は平穏に溢れているのだ。
言ってしまえば、今のお祭りには儀式のような意味合いは薄い。ただ慣例としてそうしてきた物を続けているだけ。ともすれば、更に新しい価値観を加えて別の解釈さえ広がっている。ユールなんかはその代表だろう。
厳しい冬を越え、新しい春を迎える為のお祭り。それがユールの本来の意味合いだ。けれども今では、寒さを紛らわせるためか恋人が身を寄せ合うような日と言う認識が強い。加えて愛を確かめる為の贈り物をしたりと言う、どこか俗物な一面さえ持ち合わせているほどだ。
それを悪いとは思わない。あたしだってその時期になると友達や、それからロベールに何をあげようかと一喜一憂したりして楽しんでいる。けれども昔の事を忘れて塗り替えるようなそれは、何だか悲しい気もするのだ。
「それに妖精も楽しんでくれるだろ?」
ロベールの意見は、きっと今のお祭りの形の根底だ。
数あるお祭りが時間を経てより賑やかに変化したのは、妖精という種が絡んだからだ。
彼女達は楽しい事が好きだ。それを生き甲斐にしていると言っても過言ではない。
機嫌が悪かったり彼女たちの意にそぐわない事をすると逆に悪戯をされる。時にはそれで怪我をしたりする事もある。
目に見える災厄としてそこにいる妖精。彼女達からの悪戯を受けないため、そして友好な関係を築き協力して豊かな生活を送るため。そんなご機嫌取りのような意味があるからこそ、特に楽しい催しへと変化したのだ。
けれどもそれだって悪い事ではないはずだ。険悪な関係よりも仲良しの方がずっといい。何より、妖精が楽しむように人間の方だって騒いで浮かれている。
そうして楽しみを共有する事は間違いではないだろう。楽しいのはいいことのはずだ。
……まぁ行き過ぎれば何事も問題にはなるから。節度は大切だとは思うけれども。
「それ言えば許されると思ってない?」
「けど嘘じゃないだろ?」
「分かってるよ、そんなこと。……もしかしたらお祭りの中で将来契約する気が合う子に出会えるかもだしね」
妖精との契約は学園の真ん中の階級……ポルト級になってからだ。現在メゾン級であるあたしたちは、フランド、ウィースト、フィーストの末に行われる年三回の進級試験に一度でも合格すれば、一つ上の階級であるヴィラージュ級に。そこから妖精との契約を行えるポルト級、ポール級と続いて、最高階級としてフォール級が存在する。
五つに分けられた階級で、それに見合った授業を勉強する。大抵の生徒はポール級まで進級し、卒業。一握りの優秀な人たちがフォール級まで上り詰める。一般的にはポール級まで行けば立派で一人前な妖精従きだ。
基本的に一年勉強して、その終わりにあるフィーストの月の進級試験に臨むのが一般的だ。あたし達もそれはきっと例外ではなく、後半年もすれば試験を受ける事になるだろう。
中には稀に時期外れの試験を受けてそのまま進級してしまう特別もいるが、そういうのは大抵フォール級になる逸材だ。目標として軍属を目指すような高い志しがない限りそんな無茶はしなくてもいい。
五年の修学期間に、五つの階級。理想で言えば一年で一階級修められればいい。とは言えあたしがそこまで望んでいるかと言うと頷き難い話だ。
将来のことなんてまだ曖昧だが、恐らくは家を継ぐ。妖精の事を理解して、共に歩んでくれるはんぶんが見つかればそれ以上は望まない。それよりも必要なのは、家督を継いでクラズの家を存続させていく知識と経験だ。
だから今のところ、無理せずゆっくり勉学を重ねて。きっと二年通う事になるポール級の二年目を様々な社会勉強に充てる事になるのだろう。この辺りはロベールも同じなはずだ。
「将来かぁ……。懸念があるとすれば本当に気の合う子と出会えるかって事だよな」
「それはその時になってみないと分からないから。今から気を揉んでも仕方ないんじゃない?」
「それはそうだけど…………」
変なところで心配性な幼馴染だ。いつもらしく能天気でいれば妖精の方から寄って来るだろうに。
「ロベールは、どこまで目指すの?」
「何が?」
「学園の階級」
「常識的に考えてポールだろ。僕にフォールは無理だ。シルヴィならもしかしたらって考えるけど」
「え、あたし……?」
思わぬ言葉に訊き返す。そんなこと言われるとは思わなかった。
「だってシルヴィ僕より妖精術の扱い上手いじゃねぇか。勉強なんてやればできるんだから、そっちの方が重要だろ?」
「……それ自慢?」
「なんでそうなるんだよ。僕はただ思った事を言っただけだ」
思わず口を突いたのは可愛くない言葉。いきなり真っ直ぐ褒められて驚いてしまった。まさかロベールがあたしを褒めるとは思わなかった。
いつも憎まれ口で、よく喧嘩をして。あたしの気持ちにも気付かない鈍感で。……だと言うのにこういう時に卑怯なくらいに男らしく当然を口にする彼が、あたしは大嫌いで、大好きだ。
これがきっと、惚れた弱みと言う奴なのだろうと。調子のいい言葉一つでこんなにも嬉しくなってしまう自分が恨めしい。
「けど、いつまでもシルヴィにいい顔させたくないからな。その内追いついて、追い越してやるから。覚悟しとけ!」
「……頑張れば?」
顔を見られたくなくて。明後日の方に逸らし零す。……だから、そんな笑顔で笑わないでよ、もう…………。
これ以上褒めちぎられたら手が出てしまいそうだと。耐性の無い自分に辟易しながら話題を少しだけずらす。
「それに、そんなこと言ったらあの二人はどうなるの?」
「……あれは…………もう別格だろ」
諦めたような音。話の中心には、彼の想い人である双子の少女。
二人の世界で完結された双玉。二人で一人とさえ錯覚するピスとケスには、あたしとロベールが手を取り合ってもきっと敵わない。直接戦った事は無いけれども、そういうものだと二人共納得している。
次元が違うというのは、彼女達の為にあるような言葉だ。
「あの二人こそフォール級になっちゃうかもね」
あたし達が到達できない高み。そこに当然のようにいても、何の不思議も感じない。そう言う何かを、彼女達は秘めている。
「そう、だよな……」
何かを確かめるようにロベールが呟く。あの二人の事を話題に出したのは失敗だっただろうか。そう思って表情を伺い見れば、いつの間にかその瞳にはやる気の炎が灯っていた。
「一度くらい、いいかもな」
「え……?」
「試験だよ。別に受けたからって絶対に合格しないといけないわけじゃない。けど、受けないと結果は分からない。だからその時が来たら、一度くらい受けてみようかなって」
「本気……?」
「もちろんっ。だから出来る限りの努力はする。立派な妖精従きになって、自分に自信が持てるように頑張る!」
格好いい。けど……やっぱりこれは失敗したかな。
「だからシルヴィ、一緒に行こうっ!」
「……へ…………?」
「一緒にフォール級に上がれたら絶対嬉しいから。シルヴィと離れるのも嫌だから!」
「っ……!」
「だから────」
……あぁ、もうっ。何でそうこいつはいつもいつも────でも。
「……ロベールだけ置いて行っても知らないよ?」
「言ってろ!」
挑発するように言葉を紡げば、彼があたしの大好きな顔で笑う。
…………うん、頑張ろう。ロベールに置いていかれないように。隣に、いられるように────
* * *
「団長、そろそろ交代の時間ですよ」
「ん、そうか。なら任せる」
「報告ですか?」
「あぁ」
近くにやってきた部下の声に、もうそんな時間かと空を仰ぎ見る。
比較対象が無く分かり辛いが、体感で夕方目前。今日も中々に大変で退屈な時間だったと一人ごちる。
海の上。振り返れば遠くに見える陸地は、見慣れた白き都。揺れる事にもなれた視界で小さく溜め息を吐く。
海上警備は海の治安を任された我々の主任務だ。国に剣を捧げた騎士として、白角騎士団の名前を冠したこの一団は、水竜を駆りカリーナの城下周辺海域を守護する大事な仕事を請け負っている。
船を使った海上輸送貿易を国益の一つとする我が国は、それ故に海の治安維持が大きな割合を占める。稀に確認される海賊や私掠船などの拿捕や、水棲生物から通商路を守る事などが通常の任務だ。
私掠船とは、国家によって容認された個人舟のことだ。十数年前まで起きていた世界の騒乱、第二次妖精大戦中に見られた国家による工作の一つ。戦いの為に必要だった物資輸送を妨害したりする為に、国が保有する戦力では手が回らない部分を補う目的で、認可状を以って自由な航行が許された一般船舶。無法の海賊とは異なり、国と言う後ろ盾がある事で海賊よりも厄介だったそれらだが、今の治世ではその必要がないと判断され殆どはいなくなっている。
しかし少数が未だ存在しており、既に無い権益を振りかざして私欲の限りを尽くしている者達もいる。中には私掠船の利権を悪用し、非合法な形で商船を名乗っている輩も存在している。それらを取り締まる事も我々海の守護者の名目の一つだ。
必要であれば武力行使も行う。その為に日々訓練もしており、海を任されてはいるが非常時には陸で仕事をすることもある。
そんな我々が今担当している仕事が、特別海上警備だ。通常の警備とは違い、国によって発令された事態に基づいて対処する緊急配備。世界的に指名手配されている極悪人の逮捕や、国家事業として海上輸送を求められる機密の護衛など、多岐に渡ってその内容は異なる。
その中でも今回は前例の殆ど無い、且つ危険な任務だ。
任務内容はカリーナが誇る世界的に有名な観光地、タルフ岩礁の哨戒及び鎮圧任務。その周辺に住む水竜の沈静化だ。
タルフ岩礁はカリーナの沖に存在する観光名所で、城下町の船着場から遊覧の為の船を出して観光資源の一つとなっている場所。このフェルクレールトの大地では指折りの要所で、世界の中心に位置する大森林地帯、ミドラースと同じ保護地域に指定されている。
妖精の痕跡が多く残るミドラースと違いタルフ岩礁は水竜の棲息地。自然が生み出した絶景と言う事で、理由がない限り人の手を加えてはならない事になっている。
その景観は、南に位置するカリーナらしく。温暖な気候、綺麗な水質の中にのみ不思議な色や形状をした生物──アンソゾアが群生する非常に綺麗な景色を見ることが出来る。
アンソゾアは、しばらく前までは鉱物資源と言われていたが、近年の研究で生物だという事が分かり、乱獲などから保護をする法も定められている。カリーナの一部の地域でしか見ることが出来ない希少性から価値が高く、法制定された後から高騰。お土産などで取引されている。
それらに目を付けた輩が悪儲けを企てたりで、愚か者を捕まえたりするのも海の治安を守る一貫だが、今回はいいとして。
そんなアンソゾアの群生地の中に存在する海上の人が住まない岩だらけの地帯。その一帯を纏めてタルフ岩礁と呼ぶのだ。
自然が作り出した色とりどりな景色と、そこに住まう水竜。管理し、観光資源として提供するカリーナには重要な場所。その保護区域で現在、平穏を脅かす事態が発生しているのだ。
問題は単純。水竜が暴れているという言葉にすれば分かりやすい話だ。
ドラゴンは一般的に高い知性を持つ。人の言葉を解する……と言う種も話に聞くほど賢く、現代ではその力を借りて様々な分野で人の世界を便利にしている。
空を飛ぶ種の背に乗り空中を駆ける騎士。その力で空輸や移動手段としての能力も買われている。
そんな竜種の中で、殆どを水の中で過ごす種が水竜だ。空を飛ぶ翼の代わりに魚のように水を掻くヒレを持ち、火竜が炎を吐くように水竜は高圧の水を口から発射する。泳ぐ速度はどんな魚よりも速く、竜種の巨大な体躯は木造船に体当たりをかまして中ほどから折ってしまうほどに強大な力を有する。
物語の中では凶暴な存在として描かれる事の多いドラゴン。しかしそれは異形の巨躯に恐れを抱いた誇張表現であり、実際のドラゴンの殆どは余程でない限りいきなり襲ってくるような事は無い。
それは偏に強大な力を持って生物界の頂点に君臨するが故に、生きる事に困らないからだ。
縄張りに踏み入って刺激をしたなら話は別だが、その生態や特徴を知っていれば相手にならない生物ではない。……と言うのは、常日頃ドラゴンと共にいるからこその意見だろうか。
何にせよこちらから危害を加えない限り遠目に見る分には問題ないはずの生物、ドラゴン。その一種であるタルフ岩礁に棲む水竜が、いきなり暴れ始めたという報告が上がったのだ。
特にドラゴンの中でも水竜は温厚な性格で有名な種。第二次妖精対戦前からタルフ岩礁のドラゴンと付き合ってきたカリーナで、けれどもそんな前例は無い。だからこそなにがあったのかと確認の為に我々が派遣されたのだ。
海の治安を守る白角騎士団。同じく水竜を駆る我々の、専門分野とも言うべき仕事。
その調査、哨戒を、三つの班で持ち回りで常時行っているのが現状だ。しかしながら、未だ有益な情報が得られていない。過去の知見と照らし合わせても、類似の答えが導けていないのだ。
これはそろそろ一歩踏み込んだ調査が必要になるだろうかと。相棒の水竜を駆ってカリーナの海の入り口へと戻る。
気を張る長い任務に付き合わせた労いに、この件が片付いたら何か御礼でもしようかと考えつつ顎の下を撫でる。この子はこれが気持ちいいらしく好きなのだ。因みに女の子……いや、成体だから雌と言った方がいいか。
ともすれば人を相手にするよりも余程気の置けない相手に別れを告げて、揺れている気がする大地を踏みしめ城に向けて坂を登り始める。
その最中、考えるのは幾つかの推論。この後報告すべきそれらを、順序立てて整理する。
馬を使わず自らの脚で陸に慣れながらの道行き。一応城下の警邏も目視で行いつつ、ようやく戻ってきた我等が剣と忠誠を捧げる象徴……白皙城の敷地に足を踏み入れる。
その足取りで迷わずに中途報告……よりも先に駐屯用に建てられた建造物へ。任務と言う事もあって不測の事態に備え身を覆っていた武装を解き、照りつける日差しと遮蔽物も無く撫で付ける海上の潮風に晒された身を一通り清める。水竜が暴れている余波で時折起こる白波に巻き込まれるお陰か、肌はべたつき髪が少し痛んでしまった。中々に酷な現場環境の所為か、女性の志願者が少なくて侘しい話……と言うのは同僚がぼやいていた愚痴だったか。
そう言う意味ではこんな家に碌に帰らないような身に嫁がいるのは良い事なのか悪い事なのか。……彼女には迷惑を掛けてばっかりで申し訳ない。相棒の水竜もそうだが、彼女にも何か礼を考えて帰るとしよう。……それがいつになるかは今のところ目処が立たないのが辛い所だ。
「アラン」
「ん」
早く暖かく穏やかな我が家でゆっくりと眠りたい。精神的にそろそろ来ているのか、そんな事を考えながら軽装に着替え宿舎の外に出たところで、よく知った顔に声を掛けられた。
眼鏡を掛けた精悍な顔つきの男性。騎士団団長である俺の右腕として補佐を務めてくれている副団長だ。
「疲れが顔に出ているぞ。大丈夫か?」
「これから報告だ。終わったらそのまま寝るから後の事は任せる」
「分かった。無理はしないようにな」
「あぁ」
彼とは学び舎時代からの付き合いだ。それぞれに出来る事、得意なことが分かっているからこそ、こうして丸投げに近い信頼を置いている。彼に任せておけばいざという時は俺に代わってどうにかしてくれるはずだ。
さて、形ばかりの引継ぎは終わった。本日最後の仕事に取り掛かるとしよう。
さっぱりした身形を少しだけ整えてカリーナ城内へ。すると直ぐに仕える使用人がこちらに気付き、案内を預かっていたのか少ない遣り取りの後に踵を返して歩き出した。
未だに使用人というものには慣れない。モノセロスの家は代々国に仕えてきた騎士の家系。だから家名や権力と言う物が幅を利かせるこの国で、珍しくも無い使用人と言う存在とはあまり縁がない。身の周りの事は自分でする方が気兼ねしなくて楽なのだ。
とは言えここはその真逆。権力の象徴、その懐だ。一応騎士団を預かる長として、それ相応の振る舞いが求められる事も弁えている。苦手ではあるが、呑み込むのもまた大人に必要な事だ。立場ある者として、それ相応の責任を持つとしよう。
使用人に案内されてやってきたのは応接室。カリーナ城内に幾つかある部屋の一つで、ここも前に一度利用した事がある。勝手知ったる……では無いが、経験がある分少しだけ安心する。
「しばらくお待ちください」
「あぁ、ありがとう」
言われた通りに腰を落ち着け少しだけ気を緩める。ようやく足を休めることが出来た。このまま目を瞑って横になれば直ぐにでも寝られそうだ。
が、しかし。こんな所で、しかもまだやるべきことが残っている。後回しには出来ない類のものだ。倒れるのはそれを終えてから。
と、そこで体の内側から湧きあがった空腹感。何か腹に入れてくればよかったと小さな後悔。……残念、お茶菓子は無い。我慢するしかないか。
「すまない、待たせたな」
考えていると開いた扉。次いで響いた声に立ち上がって反射的に胸の少し下で拳を作る。
簡易的ではあるが、剣を捧げた者としての礼。本来ならば抜き放った剣を握って翳すが、室内でそれをするわけにはいかない。そもそも今は帯剣していない。
が、欠かせぬものもあると。その挨拶を向ける先には、この国の象徴ともいうべき人物……グンター・コルヴァズ大統領陛下の姿。
御歳65歳になるが未だ病気知らずに双肩。すらりと伸びた背丈は170セミルほどと、同年代の周りと比べると頭一つ抜けている。まだまだ才気に溢れた人物で、総やかに輪郭と口周りを覆う髭が見事な貫禄を放つ。赤茶色の短髪と紺碧の瞳で世界に一石を投じる最重要人物だ。
「相変わらずだな。楽にしてくれ」
これもまた変わらない遣り取り。肩書きに重きを置き拘る者も多いカリーナでは珍しく、国の主でありながらその辺りにはあまり頓着をしない性格。こちらとしてもやり易い雰囲気の彼は、しかし政治的な交渉で辣腕を振るう厳しくも鋭い一面を持つ。
だからこそ国の主としてその椅子に座っているのだろうし、民に推挙され、信頼を得ているのだろう。
「疲れているだろうに、すまないな」
「いえ、陛下ほどではありませんので」
社交辞令で一呼吸。それから再び腰を下ろせば、次いで向けた視線は陛下の後から部屋に入ってきた白衣姿の女性。
彼女の事は俺もよく知っている。ここ、カリーナ城に勤める研究者で、一部の者のみが知る重要案件……英雄的妖精、カドゥケウスとのやり取りを一任されているハーフィー、ヴァネッサ・アルカルロプス女史だ。
彼女とは妖精絡みで何度か話をした事があるが、不思議な人物、と言うほか無いだろう。
興味が湧くのは基本的に妖精絡み。しかし彼女自身がハーフィーで、世界の謎である隣人を暴くという行為は、ともすれば裏切りとも取られかねない行為だ。
前に言葉にしていたことが本当ならば、彼女は自分に流れる未だ解明されていないはんぶんの部分を解き明かしたいとのこと。その好奇心が高じてカドゥケウスと言う案件を任されている事に、少しばかり不満があるようだった。もう少し自由が欲しいらしい。そう言う部分は妖精らしいかもしれない。
「話が聞きたくて。同席いいかしら?」
「それは別に構わないが…………もしかして妖精が絡んでいるのか?」
「まだそうと決まったわけじゃないの。けれど前にドラゴンが暴れたことがあったでしょう? 一応可能性として考慮している、と言う程度よ」
「なるほど…………」
前に陛下のお孫さん、ピスとケスが学園の授業でやってきた時に妖精の悪戯でドラゴンが暴走することがあった。同じくドラゴンと言う括りで見れば今回の水竜の件も似た様な話。同じ騒動なら前例の解決方法が適用できる。その判断の為に話を聞きに来たということだ。彼女も色々忙しいだろうに。
「では改めて報告を聞かせて貰えるか?」
「はい」
陛下も忙しい時間の合間を縫ってここにいるのだ。無駄な手間を取らせる必要は無い。
直ぐに気持ちを切り替えて準備しておいた報告に身を入れた。
* * *
白角騎士団団長、アラン・モノセロス。先の大戦にも参加した人物で、現在はカリーナの海の守護を任されている人物。普段城内で研究に没頭し滅多に外に出ないわたしとは正反対の生き様を描いている、カリーナの表の顔の一人。
年がそれなりに近いが、男と女である事に始まり、そもそもの行動理念からして異なる対極。
だからこそ、自分には無い他を求めて、彼にはそれなりに興味があるのだ。
そんな彼が、ここ最近従事している任務の経過報告をつらつらと語る。
「依然として原因は掴めておりません。ただ、一時期よりは落ち着いている様子で、タルフ岩礁周辺を回遊こそしていますが、目立った被害は出ていません」
「ふむ。波があるようだな」
「商船などへの被害も幾つかありますが、幸運にも他国船との折衝事は起きていません」
海上の治安維持がそもそもの目的である彼の部隊は、今回の水竜騒動で連日連夜交替で調査や警戒を行っている。お陰で何か起きても現場での対処でどうにかなっていて、陸のこちらには被害は来ていない。
一度、ファードの末に水竜が暴れた余波が大波として海岸線を襲ったが、それで死傷者が出たという報告は聞いていない。
「状況としてはあまり好ましくはありませんね」
「そう簡単ではないか」
「タルフ岩礁の内部に入ることが出来れば進展はするとは思いますが……」
水竜の騒動はタルフ岩礁周辺でのみ起きていて、今のところそれ以外の報告は上がっていない。その点に関してはわたしも考えることは同じだ。
問題がタルフ岩礁で起きているならばその原因も恐らくそこにある。裏付けの一つとして、彼が駆る水上の相棒が暴れていないのがその証拠だ。
「モノセロスさんの水竜の方に影響は?」
「今のところは部隊のどの水竜にもその予兆は感じられませんね。お陰で任務に従事が出来ているのですから不幸中の幸いという奴でしょう。そうでなければ機動力で劣る船を使っての形になっていたことでしょうから」
小回りの利く水竜に比べ、船は全てにおいて大規模だ。一案として妖精術を駆使して小型船を動かすという方法も取れないわけではないだろうが、それだといざという時に力を使っての対処が出来ない可能性がある。一瞬の油断が大きな被害を生むかもしれない状況に置いて不確定要素は出来る限り排除すべきだ。
「となるとやはりどこかで手を打たなければこれ以上の進展は望めないか……」
「そのためにも知見をお貸しいただきたいのですが……アルカルロプスさんは今回の件をどのようにお考えで?」
こちらに向いた話題に、それからいくつか考えていた思考を明かす。
「断定をするには情報が足りませんので、仮定の話にはなりますが……。状況から考えるに妖精が絡んでいるというのは捨てきれない線です。それがはっきりするだけでも今後の対応策の択を絞ることが出来る。そういった観点から、妖精の協力を借りた調査を提案いたします」
「具体的には?」
「水に秀でた妖精の力を借りるのがいいかと。細かい部分は現場の判断も仰ぎたいですが、陽動なり隠密なり、環境を活かした策が効果的かと具申します」
「……隊にも幾人かいるが、数が足りないな。とはいえ海に不慣れな者を連れていけばそれも問題の火種にもなりえます。理想としては、海に慣れた妖精の力を借りることですが…………」
「自由を生き甲斐とする彼女たちがそう簡単に手伝ってくれるとも考え辛いの。カドゥケウスに頼んで集めてもらうか?」
「……期待は薄いですが、話だけはしてみましょうか」
「こっちでも他の案を考えてみる」
「ではとりあえずそちら方面での状況打開を方針としよう。それで構わないな?」
陛下のお言葉に二人して頷く。これまであまり接する機会のなかった相手だが、カリーナのため……延いてはフェルクレールトの大地のため。そして何より、自然を愛する妖精のため。日蔭者だとか抜きにして協力を密にしていくとしよう。
……惑い者の件もまだ目処が立っていないのに、次から次へと面倒事が降りかかってくるのは何なのだろうかと。望むべき自由が遠く彼方に輝いている気がして、心の内で小さく溜息を吐いたのだった。




